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by ritouki

澎湖島へ 2日目 その3

 さてさて、続いての下見スポットは白沙島の「通梁古榕」です。「榕」とは榕樹=ガジュマルのこと。台北の街なかでもよく見かけ、強い日差しが注ぐ真夏には、日陰を作り、涼を与えてくれます。通梁村の保安宮という廟にあるガジュマルの古木で、その樹齢は約360年と言われています。

 ガジュマルは成長すると、ヒゲのような枝(気根)が地面まで垂れ下がり、その部分がまた根付いていきます。廟の前の広場を覆い尽くしたガジュマルはまるで巨大な藤棚のよう。聞くと、たった一本の幹から派生した枝が成長し、まるで屋根のように拡がっているのだとか。ガジュマルの枝は地面に根付くと幹のように太く成長するので、そこらじゅうに幹があるように見え、どれが本当の幹なのかよく分かりません。

 でもご安心ください。本当の幹には赤い布が巻かれていることですぐに分かります。手前には賽銭箱も置かれ、このガジュマルが神木として大切にされているのを感じます。

 こちらのガジュマル、日本時代に発行された絵はがきにも、澎湖の名所として描かれていることから、当時すでにその名を馳せていたのでしょう。
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 台湾本島でも、夏の盛りにはガジュマルが作り出した木陰に人々が集まって語らう光景をよく目にします。また、ガジュマルの下に屋台を出したりして、ガジュマルが店の代名詞になっているような所もあります。台湾の人々にとってガジュマルは日常生活に溶け込んだ樹木と言えるでしょう。
 こちらの「通梁古榕」では、保安宮とは別に、賽銭箱がガジュマルの根の前にも置かれ、神木として崇められています。周りには食堂やお土産屋さん、そしてこれも澎湖名物の「サボテンアイス」の売店が立ち並んでいます。寒すぎてとてもアイスには手を出す気になりませんでしたが、味はラズベリーに似た酸味で甘すぎず美味だとか。濃い紫色でちょっとどぎついですが、5月の李登輝学校の際にはぜひ試してみたいと思います。
 
 これで一応、白沙島の下見は終了。途中、澎湖水族館があったり、「通梁古榕」より規模は小さいですが、同じように廟の屋根のように大きく成長した「雙榕園」と呼ばれるスポットがありましたが、時間の関係で割愛。馬公島へ戻り、二つの日本軍上陸記念碑を探しに行きます。

 パンフレットなどに名前は載っていますが、正確な場所についてはどれもあまり詳しく記されておらず(恐らく、この碑を見に訪れる台湾人の数は多くないのでしょう)、見つけるのに難儀の予感がします。午後になって太陽が隠れ、気温も下がって来ました。

 お目当ての石碑は、馬公市の東に隣接する湖西郷にあります。そのため、馬公市内を経由すると遠まわりになるので、途中で東へショートカット。軍民共用のためか鉄条網がいかめしい馬公空港の裏側をひたすら飛ばします。ただ、道はそれほど入り組んでいないので、何とか迷わずに「龍門」までたどり着けました(下の地図の赤丸)。ここからは足で碑を探します。
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 最初に探すのは、「龍門裡正角日軍上陸紀念碑」と呼ばれるもの。
 1910年(明治43年)、井田麟鹿が著した『澎湖風土記』によれば日清戦争最中の「明治28年3月23日午前11時30分、裏正角に上陸を開始し、翌24日正午、媽宮城を占領す」と記されています。

 また、1936年(昭和11年)4月に澎湖庁から発行された『澎湖事情』では「名勝舊蹟」の章に「(略)比志島混成枝隊が伊東司令長官の率ゆる聯合艦隊の掩護の下に上陸した地點である。碑は谷口要港部司令官、竹下元澎湖郡守、上瀧元街長其の他有志相圖り寄附金を以て大正13年3月23日建設したものである。(後略)」とあります。

 「上陸記念碑」というからには海岸に近いところだろう、とアタリをつけてバイクを走らせると、ちょうどアスファルトの道が途切れて農道へ繋がるところに看板を発見しました。ここは現在、湖西郷ですが、日本時代は「湖西庄良文港裏正角」と呼ばれていました。ちなみに現在の地名は「裡正角」となっていますが、日本時代の文献では「裏正角」と記されています。どちらも同じ意味かつ読み方ですが、日本の統治が終わってから「裡」を用いるようになったようです。ただ、その理由は判然としません。
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 碑は海の方向へ正面を向けて建っています。ただ、不思議なことに2つの碑が。というのも、日本時代に花崗岩で作られた元々の碑は、日本の敗戦後、ご多分に漏れず、国民党によって表面の碑文が削り取られ、「臺灣光復紀念碑」として流用されました。それが↑の写真です。つまり、「臺灣光復紀念碑」は元々の上陸記念碑そのものなのです。

 そして碑の台座は破壊され、上部の碑だけが右側に移され、元の碑の位置には小さな「土地公」を祀る廟が建てられていたようです(「土地公」とは、その土地を守ってくれる神様のことです)。

 この翌日、土地の古老、林麟祥さんに伺ったところによれば、十数年前、澎湖にも地方分権の波が押し寄せ、郷土の歴史改竄に対する抗議の声が上がり始めました。国家の最高研究機関である中央研究院の学者や地元の研究者の抗議により、元々碑があった場所には、本来の姿の碑が復元され、その場にあった土地公廟は、すぐそばに移されたということです。碑は現在、県の古跡指定を受けています。

 ただ、もう一つ不思議なことが。昭和7年に撮影された写真(下2枚目)と比べると、元々の碑文には「明治二十八年 混成枝隊上陸紀念碑」と彫られているにもかかわらず、新しく復元された碑文は「混成枝隊」ではなく「混成支隊」と彫られています。辞書によれば、「枝隊」も「支隊」も同じ意味、用法のようですが、なぜ忠実に再現しなかったのか、理由があったのか、次回林麟祥さんを訪ねたとき伺いたいと思います。(写真は昭和7年に発行された『澎湖島大觀』井原伊三太郎/著より。所蔵は台湾大学図書館)
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 いよいよ気温は下がり、かなり寒くなってきましたが、最初の記念碑がスムーズに見つかったので気分は揚々です。碑から海岸へと続く坂道をちょっと下りてみると、彼方には長い砂浜が目に入って来ました。恐らく夏は青い空と白い砂浜が人々を楽しませてくれることでしょう。潮が引いた浅瀬には、おばさんが入りこんで何やら獲っていました。恐らく岩海苔を獲っていたのだろうと思います。100年以上も昔、この地から日本軍が上陸したことを思うと歴史の悠久さを感じます。

 それでは続いて「林投日軍上陸紀念碑」へ向かいます。こちらは前掲の地図でいうと「裡正角」から西へ数キロ戻った地点にあります。出発時にガソリンを満タンにしたにもかかわらず、かなり心細くなってきました。よく考えてみれば、往復80キロ近く走っているのだから当たり前です。地図で確かめると、かなり馬公市側へ戻らないとガソリンスタンドが無いようなので、早いところ石碑を見つけて給油したいところです。
 とかなんとか言ってる内に、林投村界隈へ。廟の横っちょにある看板怪しいな~と思って正面へまわってみたらドンピシャリ、発見しました。
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 ここからクネクネ曲がる細い道へ。途中、工事現場にぶつかってやむなく迂回。迷うのでは、とちょっと心配しましたが、原っぱの真ん中のちょっと小高くなった場所に石碑があるのを見つけました。先ほどの「裡正角」の上陸記念碑と比べると、こちらの碑については情報が不足しています。澎湖県の観光紹介サイトでも、こちらの林投の記念碑の説明と裡正角の記念碑の説明が全く同じだったりして混乱しているようです(裡正角の記念碑と同時に建立された可能性はあります)。

 また、台湾大学に所蔵されている、澎湖庁が明治、大正、昭和期に発行した『澎湖事情』や『澎湖風土記』などにも、「裡正角」の記念碑は記述されていますが、こちらの碑には触れられていないのです。さらに、「裡正角」の記念碑は建立日や建立者、その経緯等が詳細に記録されているのに比べ、こちらの林投の碑は情報が曖昧です。

 とにかく少ない情報を整理すると、1895年(明治28年)3月23日、日本海軍聯合艦隊は「裡正角」から澎湖上陸に成功しましたが、その前に、こちらの林投から上陸を試みたようです。1895年3月15日、佐世保を出発した混成枝隊は沖縄→台湾の東海岸→南端を経由してから北上、3月20日には澎湖の八罩島(現在の望安島)沖へ到達し停泊しました。

 その後、伊藤祐亨司令長官率いる日本軍は12隻の軍艦を率いて林投からの上陸を試みますが、清軍側の要塞「拱北砲台(劉銘伝が1886年に築いた砲台。現存するが、軍事管制区域内のため一般開放されておらず)」の反撃に遭い上陸が叶わず。そのため、伊藤司令官は作戦を変更し、4隻の軍艦を龍門に派遣、海上から大砲による援護砲撃を行い、混成枝隊は裡正角からの上陸に成功したのです。

 その後、日本軍は西へ向かい、太武山へと進軍しますが、損害を少なくするため、裡正角から上陸した混成枝隊と林投から上陸した海軍陸戦隊の挟み撃ちで清軍を攻撃しました。文献には「後日」林投にこの記念碑が建立された、との記述しかなく、正確な日付が判明しません。
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 裡正角の上陸記念碑と同様、こちらの記念碑も戦後、国民党によって碑文が削られ、現在では「抗戦勝利紀念碑」の文字に書き換えられています。元々の碑文は「明治二十八年海軍聯合陸戰隊上陸紀念碑」と刻まれていたそうです。こちらも県の古跡指定を受けています。

 碑は花崗岩で、台座は猫公石だとか。戦後、この碑の整備を担当していた国軍も撤退し、郷所(村役場)も経費の面から維持整備が出来ず、10年ほど前までこの記念碑は草に埋もれ、荒れるに任せていたそうです。

 その後、この地の郷代(町内会長のようなもの)を務めていた歐野崎さんが奔走し、村役場に掛け合うと同時に、郷議員(村会議員)の蔡清續さんが議会に訴え、県政府から200万元の整備予算を獲得したとのこと。そして記念碑や周辺の修復・整備が行われ、工事は2001年5月に完了したとのことです。

 今回、歐野崎さんにも蔡清續さんにも出会うことはありませんでしたが、いつかお話しを伺ってみたいものです。
 そして、特にこちらの林投の碑について特筆すべきことは、碑文がすでに国民党によって「抗戦勝利紀念碑」と書き換えられているにもかかわらず、案内版には「林投日軍上陸紀念碑」とされていることです。この点は、前述した林麟祥さんが言うように、「歴史の改竄は許さない」とする地元澎湖の人々の気概によるものなのかもしれません。
 台湾大学図書館所蔵の『走過從前』(澎湖県立文化中心/1994年)には日本時代の碑の様子が偲ばれる写真がありました。
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by ritouki | 2011-03-03 21:05 | イベント