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by ritouki

澎湖島へ 2日目 その4

 さぁ、これでやっと本日の下見が終了しました。
 澎湖は雨が少ないそうですが、この季節は風が強くて寒いため、早めに遠いスポットの下見を済ませてしまい、明日は馬公市近郊の下見をする予定です。
 ガス欠になるのでは、と恐れおののいていましたが、幸いにもガソリンスタンドにたどり着くことが出来、無事に市内に戻ってきました。時計を見るとまだ5時前。空も明るいし、このまま帰るには、ちょっと早すぎます。そこで、ちょうど市内中心部にあったと思われるものの、現在ではどうなってるか定かでなく、資料もほとんどない「千人塚」を探しに行くことにしました。

 「千人塚」とは「澎湖島陸軍墓地」の俗称で、1985年(明治28年)、澎湖占領の際に戦没した軍人軍属を葬った墓所のことです。
 『澎湖島大観』(井原伊三太郎/著 昭和7年発行)によれば、1985年(明治28年)2月の戦闘で戦死病歿した枝隊の軍人軍属は972名、白砲中隊126名、台湾守備歩兵第17聯隊第一中隊150名の合計1,248名でした。そのうち、混成枝隊所属の軍人軍属を、戦争終結間もない6月から段階的にこの地に埋葬し、丘の上に立つ墓碑には「混成枝隊陸軍々人軍屬合葬之墓」と記されていたそうです。

 「千人塚」があったのは、現在の馬公国民中学(中学校)のあたりと聞いていましたが、敷地が広大で、どの辺なのかよく分かりません。天麟先生をはじめ、何人かの方に場所を伺いましたが、「馬公国中のところだ」とか「いや、中学校の道を挟んだ東側だ」と幾つかの証言があって、確定できません。出来れば、何かしら当時の痕跡が見つけられれば、と思っていましたが、これだけ広大すぎると雲をつかむような話です。

 その時、ふと思いつきました。「日本時代の地図を見れば、どこが千人塚か一発で分かるのでは??」。そして、地図がある場所といえば図書館です。ふと目に飛び込んで来たのは図書館の看板。なんとバイクを停めてウロウロしていたのが、図書館の駐車場だったのです。何たる偶然、意気揚々と図書館へ。ただ、あいにく図書館は間もなく落成する新図書館への引越準備作業中で閉館中。それでもめげずに、中にいた司書の方に「馬公の日本時代の地図を見せてもらえませんか」と尋ねてみます。
 すると意外にも、「この図書館には日本時代の地図はありません」との答え。にべもない・・・。そこで、ダメモトで「実は日本時代にこの付近に『千人塚』があったはずなんですが、それがどこにあったか調べたいんです」と言うと、司書の崔さんが作業の手を休めて資料を出して来てくれました。澎湖生まれの崔さんによれば「千人塚があったのは、お向かいの馬公国中のところ。もう痕跡は残っていないはずですよ」とのこと。

 色々と日本時代の写真や資料を出してくれる崔さん。その中の一冊、『澎湖島大観』に千人塚の写真が掲載されていました。写真がふんだんに掲載されているこの本は、当時の澎湖の生活や名所などがたくさん納められており、非常に有用な資料に感じました。

 この翌日、天麟先生の紹介でお目に掛かった林麟祥さん(日本台湾馬公会特別顧問)にも色々とお話しを伺いましたが、その途中、「もし、日本時代の澎湖を調べるなら、文化局図書館にある『澎湖島大観』という資料を見るといいよ」と教えてくれました。「その資料なら、昨日見せてもらいました」と答えると、林さん曰く「あれは複製本だったでしょう?原本は私が図書館に貸したんだよ」。世間は狭いものです。

 日本時代、澎湖島内での写真撮影は厳しく制限されていました。というのも、澎湖が江田島、呉に続く第3の重要軍港だったからにほかなりません。にもかかわらず、『澎湖島大観』の著者、井原伊三太郎は澎湖へやって来て無許可でパチパチ撮っていたものですからたちまちしょっ引かれ、ブタ箱にぶち込まれたそうです。釈放後、改めて許可を申請し、撮影したのがこの本だとか。確かに表紙部分には「陸軍要塞司令部 海軍要港部認可」とのお墨付きが書いてあります。

 そういえば、明治43年に発行された井田麟鹿の『澎湖風土記』にも、緒言で「地形港湾等に就ては、本書猶ほ盡さざる所多し。是れ要塞地帯法に違背するの恐れあるが為め、余儀なく之を省略し、地形の如きは山川の部に於て単に詩的に之を述ふるに止めたり。同一の理由に依り、戦紀に対照すべき詳図も之を省けり。故に戦紀を読む人をして隔靴掻痒の感あらしむ可し。看者之を諒せよ」と記してあります。

 現在でも、軍施設の撮影は禁じられており、近くで撮影する場合はその向きに注意するべき旨がパンフレットに書いてあったりします。
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 ともあれ、千人塚や隣接していた澎湖神社の痕跡を探すのは難しいと判断。確かに手元の資料もまだ些少です。「日本時代の澎湖の資料が見たい場合はどこに行けばいいですか?」と崔さんに尋ねると「台湾大学図書館なら日本時代の資料はたくさんあるんじゃないかしら」との答え。なんと灯台もと暗し(結果的に翌日、林麟祥さんから澎湖神社の痕跡を教えてもらえました)。日本時代に発行された絵葉書では、当時の様子を見ることが出来ます。
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 その後、図書館を後にして帰宅。潮風にあたりながらバイクに乗っていたためか、ちょっと潮焼けしたようです。一日中バイクに乗ったり歩いたりで結構疲れましたしお腹も空きました。

 天麟先生の奥様が、朝市場で買い求めたイカや土魠魚のお味噌汁、タコ団子など心づくしの手料理を用意して待っていてくれました。土魠魚のお味噌汁は、全く臭みがなくて身がプリプリ!台北で食べると、たまに魚臭さが気になるお店もありますが、ここでは全く臭みなし。今朝まで泳いでいたのですから当然です。ちなみに奥様によると、大根と一緒に料理すると魚の臭みがより抑えられるとか。
 天麟先生ご夫妻には、一宿一飯どころか、それ以上に大変お世話になりました。どうも有り難うございます。
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 後日談ですが、台北在住のフリーライター片倉佳史さんに日本時代の澎湖の地図の話をすると、なんと日本時代末期、米軍が作成した馬公の地図を送ってくれました。”米軍”とは盲点でした。これは十数年前に米テキサス大学が公開したもので、終戦間近の1945年に作成されたものです。
 
 片倉さん曰く「米国は最初、蒋介石に台湾の地図を作らせようとしたものの、当時の中華民国軍にそんな能力はなく、やむなく米国が自分で航空機を飛ばして撮影した」のだとか。これだけ精巧に作られてしまってはひとたまりもありませんね。ただ、地名がすべて日本語読みのローマ字表記(例えば、馬公は”MAKO”と表記されています)のが特徴です。現在では、澎湖のことをよく知り、かつ日本語を解する人しか読みこなせないでしょう、とは片倉さんの分析です。

 テキサス大学では他にも台湾や日本を含め、膨大な地図が公開されていますので、見ているだけでも楽しめます。台湾編はこちら。日本やその他の国も、リンクをたどって行けば比較的容易に見つかります。
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by ritouki | 2011-03-03 23:34 | イベント