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by ritouki

澎湖島へ 3日目 その3

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 「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」の隣りには、これもまたきちんと整備された台座に、どこか西洋風の碑が建てられています。こちらの碑は日本時代から「萬人塚」と呼ばれ、1885年の清仏戦争の際、澎湖で命を落としたフランス軍兵士を慰霊するために建立されたものです。

 1910年(明治43年)、井田麟鹿が著した『澎湖風土記』(台湾大学図書館所蔵)の「遺蹟」の項には次のような説明がされています。
 「萬人塚 風櫃尾蛇頭の北海岸にあり、光諸11年、仏軍の此島に占據せし時、士卒疫死する者多く、遺骸を此に瘞め、方尖形の碑を建て、孤魂寄る所を得せしむ。今、人呼て萬人塚と云ふ」。
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 台湾本島と澎湖島を実質支配していた、鄭成功の孫である鄭克塽らは、1684年、清朝によって追い払われ、台湾が清朝の版図に加えられました。そのため、1884年に勃発した清仏戦争のとばっちりを受けることにもなります。翌年、クールベ提督率いる軍艦5艘を擁したフランス海軍は台湾本島の占領を試みて上陸を図りますが、清朝軍の前にあえなく撃退。仕方がないので、中国大陸と台湾本島の間に位置する澎湖に目をつけて攻め込みます。
 戦いは2,3日で終わり、フランス軍はここ風櫃から澎湖上陸および占領に成功。クールベ提督は1500名の兵士に軍港建設を命じます。ところが、マラリアや赤痢の蔓延により、兵士997名が病死。さらにクールベ提督まで病に犯され、媽宮港(名称は当時)に停泊中の軍艦バヤール号上で命を落としてしまいます。

 翌年、兵士の亡骸はこの風櫃の地に葬られ、この慰霊碑が建立されたのです。碑の隣りには、「紀念1885年於澎湖馬公的殉職法國海軍將士們!(1885年、澎湖馬公で殉職された兵士たちを記念する)」と書かれたプレートも置かれています。どうやら、元々の石碑に刻まれている文字が、長年の風化で判別しにくくなっているため、同じ文言を刻んだプレートを置いたようです。
 『走過從前』(澎湖県文化中心/1994年/台湾大学図書館所蔵)では、日本時代の碑の姿を偲ぶことが出来ます(↓のモノクロ写真)。
 さらに澎湖県文化局が発行した『歴史建築影像』(2002年/台湾大学図書館所蔵)では、1984年頃の、付近がまだ整備される前の碑の写真を見ることが出来ます(↓のカラー写真)。
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 また、クールベ提督の亡骸は、ルイージュエン中尉およびルィーデルト主計官とともに、現在の馬公市内に葬られ、3つの墓が建てられました。さらに、士官クラスの軍人の軍服や遺髪も同時に埋葬されたそうです。これらの墓と萬人塚はフランス本国からの送金によってその祭祀維持がなされていましたが、昭和3年(1928年)12月30日、台湾総督府の管理下へ移管されました(『澎湖事情』澎湖庁発行/昭和11年/台湾大学図書館所蔵より)。
 1964年、フランスが台湾と断交すると、すべての埋葬物や遺体は掘り出されて本国へと送還されました。また、墓碑も取り払われてしまい、現在では、クールベ提督の墓碑の台座部分のみが、その痕跡を留めており、この地に散ったフランス海軍兵士たちの歴史を今に伝えています。
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 さぁ、かなり充実した風櫃エリアの下見ですが、残るはオランダの足跡のみです。
 こんな小さなエリアにもかかわらず、オランダ、フランス、日本が歩んだ歴史が残されています。澎湖は、中国大陸と台湾本島の間に位置しており、台湾海峡を航行する船にとっては重要な補給地だったようです。そのため、列強各国はいち早く澎湖に着目しており、そのためにこの小さな澎湖島が大きな歴史の舞台になったのでしょう。
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 フランス軍上陸のエピソードと前後してしまいますが、この澎湖島に最初に目をつけたのは、バタビア(インドネシアの首都ジャカルタのこと)に本拠地を置いていた東インド会社でした。
 1622年、オランダは艦隊を派遣し、澎湖島を占領、要塞を建設しました。これが澎湖における最初の西洋式要塞とされています。ただ、現在は要塞の跡は見当たらず、わずかに看板に当時の要塞のようすが示され、プレートなどで説明がなされているに過ぎません。

 というのも、オランダ人が澎湖へ上陸した際、当時、澎湖を支配していた明朝はオランダ側に台湾本島を譲る代わりに澎湖からの撤退を要求。これを聞き入れないオランダと明朝の間で戦端が開かれました。結局、2年後の1624年、劣勢だったオランダ側は明朝側の要求を聞き入れて澎湖から撤退、台湾本島へと移りました。その際、台南に同様の西洋式要塞を建設するため、澎湖にあった要塞の資材をすべて移送したともいわれています。また、土台の部分は地下に眠っており、一見しただけでは分からないという情報も。
 
 「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」やフランス軍の萬人塚から少し高台に上がったところにある、こちらのオランダ要塞跡ですが、歩道や案内版の整備が進めば、さらに詳しく当時の状況を学べることになるでしょう。
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by ritouki | 2011-03-04 20:21 | イベント