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by ritouki

澎湖島へ 3日目 その4

 これでようやく馬公市内から離れた場所にあるスポットの下見は無事に終了しました。残るは馬公市内の下見のみです。
 市内へ戻って来てからランチを済ませ、黄天麟先生の自宅へ戻ると朗報が待っていました。日本時代の澎湖で生まれ育った日本人(湾生)と台湾人の親睦団体である「日本台湾馬公会」の特別顧問を務める林麟祥さんと連絡がつき、間もなくこちらへ来て色々なお話しを伺えることになったそうです。
 天麟先生はご自身が中学卒業までしか澎湖島にいなかったので、少年時代の記憶しかなく、もっと詳しい説明が出来る人を、ということでわざわざ連絡をとって下さったのです。
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 午後2時過ぎ、颯爽とやって来た林さんは挨拶もそこそこに色々な資料を取り出して説明を始めます。
 林さんは長らく澎湖県庁に勤め、主計畑を歩かれたとか。そして、何よりも驚かされるのはその日本語。言うまでもなく台湾の日本語族には、私たち日本人よりも美しい日本語を話す方々がたくさんいますが、日本人観光客もあまり訪れないこの澎湖で、林さんのちょっとべらんめえ調の江戸弁が維持されていたのは驚きです。さらに、林さんは頭脳明晰、博覧強記。リタイヤされた今では郷土史編纂の監修もされているそうで、何か質問をすると即座に年号や地名が飛び出してきます。

 午前中、下見に出掛けた風櫃の話に触れると、「あぁ、あそこには3つの碑が建ってたでしょ?手前から軍艦松島、真ん中がフランス、一番奥がオランダ。何年か前に松島沈没のことを取材に、日本からスポーツニッポンの記者が来た時も、私が案内したんだ」と、記憶もバッチリです。

 また、昨日、馬公市内にあった「澎湖神社」や「千人塚」の痕跡を探しに行ったけど見つけられなかった、という話をすると、「確かにもう跡は残ってないね。だけど、石碑だけは書き換えられちゃったけど、通り沿いにまだ残っているよ」との答え。
 数多くのHPや台湾で販売されているガイドブック、地元観光局が発行するパンフレットなど、下調べをしても見つからなかったその痕跡が残されている、というのです。「じゃあ後で”澎湖開拓館”を見に行くついでに行きましょう」とのことで、案内していただくことに。

 天麟先生ご夫妻と林さんも、再会は久しぶりだったようで話は弾み、あっという間にご夫妻が台北へ帰る飛行機の時間が来てしまいました。二晩お世話になった天麟先生のお宅ともお別れ。私たちはホテルの下見を兼ねてもう一泊、馬公市内に滞在します。

 ご夫妻を見送ると、早速、林さんのバイクの後ろをくっついて「澎湖開拓館」へと向かいます。ところがところが、残念なことに着いてみると澎湖開拓館は改装のため、来月まで閉館中。風が強く、ほとんど観光客が訪れる見込みのない今の季節に改装やリニューアルをすることはよくあるそうです。

 そこで林さんの発案でこれも市内中心部にある「澎湖生活博物館」を見学することにしました。閉館時刻が迫っているので林さんと一緒に駆け足で館内を廻ります。定年後はラジオ局の総経理も歴任されたという林さん、朝は6時ごろから近くの小学校の校庭で運動しているので足取りも元気です。
 館内の展示では、やはり海と共に生きる澎湖の人々の風俗や生活、文化などが紹介されています。このミニチュアの船は、お祭りの際に御神輿のように使われ、本来ならばお祭りが終わると焼いて奉納されるそうです。
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 また日本時代の澎湖に暮らす人々の生活に密着したものも多く展示されており、こちらも李登輝学校本番の際には見学を欠かせないスポットになりそうです。
 1階に展示された馬公のジオラマは、3階から撮影しないと入りきらないくらい巨大なもの。人と比べるとその大きさが分かるでしょう。鳥の目から見た馬公を見ることが出来ます。
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 さて、澎湖生活博物館を後にして、いよいよ澎湖神社の石碑というものを見に行くことにします。博物館の前の通り「新生路」を馬公市内中心部側である北西へ100メートルほど。「中正公園運動場」のスタンド部分と新生路が接する、僅かばかり設けられた林の中に、その碑はひっそりと建っていました。
 思い出してみると、この碑が建つ場所の前をバイクで何度も往復していたくせに、全く気付きませんでした。ただ、この場所は、知っている人でなければ見つけられないだろう、というくらいひっそりとした場所なのです(地図の赤丸部分)。
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 林さんに案内してもらった石碑は、例に漏れず、国民党によって表面の碑文が削り取られ、「澎湖縣忠烈祠」と書き換えられていました。裏側も同様で「中華民国三十六年十二月 縣長 徐升平 立」と文字が刻まれています。

 台北在住のフリーライター、片倉佳史さんによれば、こうした日本時代の石碑を流用したり、中途半端に破壊して残しておく手口は国民党がよく用いる方法で、これによって「新しい統治者は誰か」ということを民衆に知らしめるのが目的だそうです。そのため、日本時代の史跡が完全に破壊されず、中途半端にその名残を留めているという皮肉な結果にも繋がるとか。

 パンフレットによれば、澎湖県忠烈祠は戦後の1947年12月31日、澎湖神社を改修するかたちで建てられました。その後、この場所は港に近く、強風が吹き付けるため、潮風の浸食を受けて建物が損傷を受けたため、1981年に忠烈祠が別の場所へ移転されると、この地にあった建物や碑はすべて取り払われてしまいました。
 確かに(『澎湖事情』澎湖庁発行/昭和11年/台湾大学図書館所蔵)にある澎湖神社の説明には「境内は馬公灣頭の高丘上、廣濶なる地域を占め、碧灣を俯瞰し眺望絶佳である」と述べられており、その分、澎湖特有の強風をまともに受けることになったのでしょう。結果的に、この碑のみが澎湖神社の姿を今に伝える唯一のものとして残っています。

 澎湖神社の御祭神に大國魂命、大己貴命、少彦名命、北白川能久親王を祀り、境内には別に琴平社がありました。神社の建立は、昭和天皇ご即位大礼を記念し、昭和3年2月11日の紀元節を選んで地鎮祭が行われ、同年9月29日には棟上式、11月8日に遷座祭が行われ、澎湖の「総鎮護」として市民から親しまれたそうです。
 下の2枚の写真は『走過從前』(澎湖県立文化中心/1994年/台湾大学図書館所蔵/P.95)に掲載されているものです。上は日本時代のもの、石灯籠が整然と並ぶ参道は見事です。下は国民党により、建築物のほとんどが取り払われてしまった後のもの。神社本殿が忠烈祠となり、鳥居は中国式の「拝楼」と呼ばれるものに流用されてしまっている様子がわかります。
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 また、澎湖神社に隣接して「千人塚」がありました。日清戦争で澎湖島上陸の際、戦死病歿した比志島混成枝隊の軍人軍属972名を、明治28年(1985年)6月25日に合葬した場所で、正式には「澎湖島陸軍墓地」と呼ばれました。丘の上に立つ墓碑には「混成枝隊陸軍々人軍屬合葬之墓」と記されていました。
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by ritouki | 2011-03-04 21:45 | イベント