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by ritouki

鳥居顛末

 長いこと国立台湾博物館の敷地内に「居候」していた大小2つの鳥居が、林森公園(日本時代は「三板橋墓地」と呼ばれる共同墓地)に帰って来たことや、長らく「乃木希典・第3代総督の御母堂の墓前にあったもの」とされてきた小さい鳥居が、調査の結果、明石元二郎・第7代総督に仕えた鎌田正威・秘書官の墓前にあったものであろう、と結論付けられたことは、先日のブログでもお伝えしました。

 その後、台北在住のフリーライターで、いつも色々と教えていただいている片倉佳史さんからアドバイスをいただきました。
 というのも、昨秋、この鳥居が移動される際、台北市政府文化局が調査を行ったのですが、その調査過程や小さい鳥居が鎌田秘書官のものだと結論付けた物証が公開されていないからなのです。

 確かに、子供の頃、この墓地を遊び場がわりにしていた地元の老人たちによる、乃木総督の御母堂の墓前には鳥居はなかったという証言、鎌田秘書官の没年(昭和10年8月8日)と鳥居に刻まれている「昭和10年」という刻銘が一致する、などが根拠として挙げられています。しかし、どれも決定的な物証とまでは言えず、「総合的に判断」した結果という、決め手を欠くものでした。

 そこで、片倉さんからも、鎌田秘書官の墓前の写真があれば、この小さい鳥居が鎌田氏のものと確定する証拠になる、ということで、「宝探し」に着手しました。

 ところで、そもそも鎌田正威氏とは一体どんな人物なのでしょうか。実際、私も今回初めて聞く名前でした。歴史に埋もれた鎌田氏の足跡を追ってみたいと思います。
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【上は鎌田氏の肖像写真。大正14年(1925年)に発行された「樟木調査記念寫真帳」より。発行は台湾総督府専売局樟木調査記念会。所蔵は国立台湾大学図書館】

 鎌田正威氏は明治18年(1885年)、香川県綾歌郡坂出町の生まれ。明治43年(1910年)7月、東京帝国大学政治経済科を卒業。同年10月に台湾へと渡り、台湾総督府工事部事務官となりました。
 大正7年(1918年)には、明石総督の秘書官兼参事官に任ぜられ、明石総督の片腕として活躍したようです。ベトナムやアフガニスタン、トルコにまで派遣され、その視察状況を総督へ報告した資料も残されています。
 大正11年(1922年)には台湾総督府専売局庶務課長に就任、大正15年(1926年)に総督府を退職しています。
 退職後は赤十字社主事や、日本精神を体現する神道を広める運動として「台湾維新社」を結成するなど、公的な場で活躍していたようです。
 昭和10年(1935年)8月8日、悪性心臓麻痺で死去。享年51歳でしたが、翌日の台湾日日新報には写真入りでその訃報が報じられています。
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 当時の新聞記事や機関誌などを丹念に検索していくと、鎌田氏の名前が頻繁に登場することが分かります。現在で言えば、官僚出身のオピニオンリーダーといった位置付けだったのでしょうか。

 そして死去の翌昭和11年(1936年)4月16日付の台湾日日新報では、「故鎌田正威氏の墓碑を建設 併せて言行録をも編纂する 遺徳を慕う人々が計画」との見出しで、墓碑建設資を募集する記事が掲載されました(7面)。記事の大きさや、少し大きめの写真入りということを考えると、大きなニュース扱いになっていることが分かります。

 その後、墓碑建設に対する寄付は順調に集まったようで、ついに翌昭和11年(1936年)8月8日、三板橋墓地で「故鎌田正威氏 建碑祭」が三板橋墓地で行われました。
 70数年後の今日では歴史に埋もれてしまっている、鎌田氏の墓前に建立された鳥居が、ここで初めて姿を表すことになります。
 ↓上の記事は翌8月9日付の台湾日日新報の記事から。台湾国家図書館にマイクロフィルムで保管されているため、文字が掠れてしまって一部読めない部分がありますが、墓前に鳥居があることは視認出来ます。
 また、↓下の写真は、台湾総督府専売局が毎月発行していた機関誌『専売通信』(のちに『台湾の専売』と改称)に掲載されている、「故鎌田正威氏奧都城建碑祭竝一年祭」の記事です(第15巻9号105頁~107頁)。こちらには、より一層はっきりと鎌田氏の墓前に鳥居がそびえているのが見られます。
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by ritouki | 2011-04-24 14:15 | イベント