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台北在住の筆者(早川友久)が、台北に残された日本統治時代の古蹟や遺構をはじめ、台湾に関わる記事を掲載します。


by ritouki

白冷圳を知っていますか?

 12月に行われる台湾感謝イベントの準備で来台しているトニータナカさんとともに、台中へ出掛けて来ました。主な目的は、 許世楷・前駐日大使と盧千恵夫人を訪問するためでしたが、聞くところによると、どこか面白いところへ案内してくれるとか。
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 台中市内のど真ん中、台中公園で待ち合わせた一行は、まず大使ご夫妻の案内で台中公園を散策。お二人とも台中の出身ですから案内はお手のものです。その後、宝覚寺を参拝し、ご住職にもご案内いただきました。
 トニーさんも30年以上前に初めて台湾へ来た時に、台中へ来たことがあるとか。台北から乗ったタクシーの運ちゃんが「徹夜マージャンで眠くて運転できないから、代わりに運転してくれないか」と言われ、トニーさんがタクシーを運転、運ちゃんは後部座席で寝ていたそうです。

 その後、ご夫妻のお宅にもお邪魔させていただいた後、一行は新社郷にある「白冷圳」へと向かいます。新社は台中市内から1時間弱、シイタケの養殖で有名な山間の村です。

 曲がりくねった山道を走り、着いたのは送水管が見える小高い公園。一見、何の変哲もない送水管ですが、ここには日本と台湾の絆ともいうべきエピソードが隠されていたのです。
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 盧千恵夫人が書いたエッセイが簡潔にそのエピソードをまとめられているので下記にご紹介します。


 「盧千恵のフォルモサ便り」白冷圳誕生80周年 新社台地に根付いた友情

 先日、江口克彦先生を団長に、みんなの党の8人の方たちが、台湾訪問の忙しい時間を割いて、台中へお見えになるとの連絡がありました。満里子ポワンボフ・フランス駐台湾代表夫人が、著書『Taiwan 楽しいサプライズ!!』の第1行目に「台湾には故宮博物館しかないと思っている?」と問いかけていますが、わたしも同感です。

 台中市内には、緑濃く水の清い台中公園や、やさしい微笑をたたえた大弥勒菩薩のある宝覚寺などがあり、郊外には楽しい学習のための霧峰地震公園があります。

 この度、先生方には台中の新社地区に大きな貢献をしてくれた磯田謙雄(のりお)技師を紹介するため『白冷圳』をメーンに選びました。

 台中の新幹線駅から、50分ほど郊外の道を車で走ると、白冷圳のある新社台地に到着します。「圳」というのは、土辺に川をつけた珍しい字で、「田んぼのほとりの溝」と、台湾の辞書に出ていました。

 この新社は高台にあり、気候が涼しく、病虫害も少ない農耕地ですが、雨水だけに頼る乾燥畑でした。砂糖の輸出が台湾の経済を潤して以来、台湾総督府は「文化の高低は砂糖消費の多寡によって知られ、糖業の消長はサトウキビ苗の優劣によってきまる」と、サトウキビ苗床に適しているところをさがし、この新社が茎の太いサトウキビの苗作に適しているとの調査報告を受けました。

 嘉南大圳、烏山頭(うさんとう)ダムを設計し作り上げた八田(はった)与一技師(1886~1942年)と同じ金沢出身、その工事にもたずさわった磯田謙雄技師が、新社の奥山、八仙山に沿って流れる水量豊富な大甲渓から取水して、814ヘクタールの土地を灌漑(かんがい)する企画設計をしました。

 1927年、当時の日本帝国議会で145万円(今の55億円相当)の予算が通り、翌年工事が開始されました。22のトンネルと14の水路橋、さらに、大甲渓中流の白冷台地と新社台地の高低差(22.6メートル)を利用して、水を移動させる3つの逆サイホン装置も作りました。地形の変化を使い、電気などの動力を一切使わない送水路が出来上がったのです。

 日本から船で運ばれてきた鋼鉄の送水管は、直系1.2メートル、鋼壁1.2センチの立派なもので、同行した若い教授が、当時の日本の鋼鉄技術の高さに感心していました。白冷圳の工事は1932年に完成しました。

 1999年の大震災で、山に変動が起こるまで、68年間絶え間なく、新社地区に灌漑と生活用水を送りこんできたと、台中の農田水利局の幹部は誇らしげに、自分の身内のことを話すように、日本の国会議員に話していました。

 工事にたずさわった日本人は簡素な宿舎に住み、台湾人と一緒になって、堅固で品質の高い基礎工事を行ったと証言を残しています。

 大震災で、白冷台地と新社台地が同じ標高554.99メートルにまで盛り上がり、逆サイホンが使えなくなりました。そのときになって、3万人の住民は、当たり前のように使っていた白冷圳から流れてくる水が、どれほど、自分たちの生活をうるおしていたかを再認識したのです。

 若い人たちは「おいらが村」の歴史、文化を研究し始めました。夫の許世楷は、「金沢の有名な兼六園を訪れたとき、近くの川から園内の霞が池に貯められた水は、さらに逆サイホンの道理を使い、すぐそばにあるお城に用水として引きこまれていたのだと、説明を聞いたことがあるよ」と、若い人たちに話し聞かせていました。

 わたしも、磯田技師が新社の台地にたたずみ、故郷の兼六園と金沢城を思い浮かべている姿を想像しました。

 大震災の後、毎年、通水が始まった10月14日には記念会が持たれるようになりました。朝早く村人たちは大人も子供も、夜のお誕生会の前祝いに白冷圳の清掃をしました。

 特に、今年は白冷圳誕生80周年になりますので、磯田謙雄技師についての記念碑を建立したいと、新社の人々に碑文のための資料探しを頼まれました。金沢出身の岡田直樹・参議院議員にお願いしたところ、詳しい資料が金沢大学に留学中の金湘斌さんを通して送られてきました。

 旭川観光大使の藤見尚子さんが、「磯田さんが新社の地に残したものと、それを大切にしてくれている台湾人の気持ちを日本の人たちに知ってもらいたい」と、話していたのが心にこだましています。 (産経新聞2011年10月21日)
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 ちなみにエッセイの最後に出てくる藤見尚子さんは金美齢先生の初代秘書。私が3代目ですから、2人の秘書が台湾へと送り込まれて(?)いるわけです。

 白冷圳を作った磯田技師は四高→東京帝大→台湾総督府と、先輩の八田與一と全く同じ道を歩いています。白冷圳の構造についてはまだ解明されていない部分があり、これから資料の発掘などが必要となりますが、台湾の水利に活躍した偉大な2人の技師と金沢という風土を絡めて描けば面白い本が出来上がるのではないかと感じています。
by ritouki | 2011-10-17 23:20 | イベント