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by ritouki

曾野綾子さん「私は一人の台湾人のために靖国神社に参る」

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 本日の産経新聞「正論」では、作家の曾野綾子さんが靖国神社をテーマに執筆しています。そのなかで、曾野さんは「私は一人の台湾人のために毎年靖国に参る。その方は、当時日本人としてフィリピンで戦い、日本人として戦死し、その遺体さえついに待ちわびる父母の元に帰らなかった。その父は、最期まで長男の死を認めず、葬式も出さず墓も作らなかった」と書いています。

 お父上がご長男の戦死を最後まで認めないまま亡くなったこと、お葬式もせずお墓も作らなかったという物語は恐らく李登輝元総統の御父上である李金龍さんと御兄上の李登欽さんのことを指しているのでしょう。李登欽さんは日本名「岩里武則」として、フィリピンのマニラで散華され、今では靖国神社の英霊として祀られています。

 李登輝元総統は2000年に総統退任以降、翌2001年に心臓病治療のために大阪や岡山を、2004年には名古屋や金沢、京都などを訪問しましたが、東京への訪問は叶いませんでした。

 1985年3月、李元総統は副総統の時代に南米ウルグアイの大統領就任式に総統代理として出席。その帰途にストップオーバーのため東京に滞在しています。後年、この時になぜ靖国神社に参拝しなかったのかと聞かれ「あの時はまだ、靖国神社に兄が祀られていることを知らなかったんだ」と答えています。

 2007年5月末、李登輝ご夫妻は孫娘の李坤儀さんとともに東京を訪問、念願の「奥の細道」散策を実現されました。総統退任後、初めての東京訪問だったこともあり、日台のメディアからは「靖国神社へ参拝するのか」という質問が来日当初から相次ぎましたが、その度に李元総統は「60年以上会っていない兄が靖国にいて、その弟が東京まで来ている。あなたが私の立場だったらどうするか。その気持ちを記事に書けばいい。政治とは切り離して人間として考えなさい」と、愚問を退けていました。

 そして6月6日、秋田県の国際教養大学を訪問し、夕方の全日空機で東京へ戻る直前、本会関係者に「明日午前、靖国神社に参拝する」と漏らされたのです。翌6月7日午前9時半ごろ、宿泊していた虎ノ門のホテルオークラのロビーで記者団に「これから靖国神社へ参ります」と短く語った李元総統ご夫妻は、孫娘の李坤儀さん、黄昭堂・台湾独立建国連盟主席、そして三浦朱門・曾野綾子ご夫妻とともに九段へ向かわれたのでした。

 同行していた私も、当日のことを鮮明に覚えています。午前10時2分、李元総統らを乗せた車は靖国神社南側の到着殿に滑り込みました。両脇には夥しい数のカメラの放列、上空には数機のヘリコプターが舞い、多数の支持者が集まっている喧騒が聞こえました。

 神社側は、南部利昭宮司が出迎え、昇殿参拝。その後、御兄上の「祭神之記」(所属部隊や戦死された場所などが記されたもの)などの提供を受け、南部宮司らと懇談し、10時40分すぎに退出されました。
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 李元総統一行の車が次の訪問予定先である拓殖大学へ向けて出発すると、同行していた曾野綾子さんは報道陣に囲まれ、李元総統が「兄が戦死したといっても父親は一切信じなかった。亡くなる時まで、兄が生きている証を探し続けた。だから家には位牌も何も無いんだ。兄の証があるのは靖国神社だけなんだ。だから靖国さんには感謝している」と語ったことを報道陣に話していました。
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 私もその場にいましたが、報道陣からは「玉串料は納めたか」「神道形式で参拝したのか」などと幼稚な質問ばかりで、曾野さんが苦々しい表情で答えていたのを覚えています。

 また、曾野さんは「靖国神社の問題は、常に個人の、家庭の中で考えるべき問題だ。信仰や魂という事柄については、個人がそれぞれの考え方を持っている。だから、くれぐれも政治の力で型通りに割り切りたくない。家族がそれぞれ自由に愛するものの事を考えるのがよい」と李元総統が話していたことも披露しました。

 1944年(昭和19年)、当時、高雄高射砲部隊に配属されていた李元総統と、海軍に志願して高雄左営の海軍基地に初年兵として配属されていた御兄上の李登欽さんは、高雄の街で二人で会い、写真を撮ったのが最後の対面でした。その後、御兄上はマニラで散華され(享年24歳)、靖国神社での兄弟の対面は62年ぶりのことでした。
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by ritouki | 2012-08-06 16:25 | イベント