台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

「私も志願する」信念を語る岩里君

b0199170_1211676.jpg

 『台湾日日新報』は、日本時代の台湾で最大の発行部数を誇っていた新聞です。1898年(明治31年)、合併によって誕生した台湾日日新報は、1944年(昭和19年)4月に『台湾新報』として生まれ変わるまで、じつに47年にわたって台湾のメディアに君臨した新聞といえるでしょう。
 台湾日日新報には、日本語版のほかに漢文版も発行されており、漢文版の執筆者には尾崎秀真(ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実の父)も名を連ねていました。
 また、台湾日日新報は、いわゆる官報にあたる「府報」の発行も担っており、政府系新聞や御用新聞といった側面もありました。

 この台湾日日新報を繰っていると、戦火が激しくなり始めた昭和10年代後半ごろから、皇軍の快進撃を伝える文言や、戦意を高揚する威勢のいい単語が紙面に並び始めるのがわかります。

 開戦から一年半が経ち、はやくも総力戦の体を帯びてきた1943年(昭和18年)6月28日の紙面に、台北高等学校の学生にインタビューした記事が掲載されました。その学生とは「台北高校文科三年の本島人學生、岩里君」、学生時代の李登輝元総統(日本名:岩里政男)です。

 記事にはフルネームが書かれていませんが、李登輝元総統に関する資料によれば1943年(昭和18年)8月、戦時繰上げにより半年早く卒業したということになっているため、この記事が掲載されたのは繰上げ卒業の直前ともいえる時期でした。
 また「近く内地に行くこととなってゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禪の研究をしたいと思ふ」と話している部分は京都帝国大学への進学を指していると思われます。

 実際、李元総統はこの年の10月に日本内地へ向かい、京都帝大での学生生活を始めています。また「禅の研究」については、李元総統が折にふれて語る「李登輝の人生哲学」にもたびたび登場する生涯追い求め続けるテーマといってもよいものでしょう。これらのことから、この岩里君とは岩里政男君のことであり、すなわち李登輝元総統のことであると断定してもよいものと思われます。
b0199170_1201189.jpg

 上に掲げた写真は台北高等学校時代の李元総統。襟元の「L」のバッチはLiterature、つまり文科を示しています。また、下の写真は台北高等学校の当時の姿。現在では国立台湾師範大学となっていますが、左側の校舎や右手に写っている講堂は今も現役で使われています。校舎の前は一面田んぼで、車が絶え間なく行き交う和平東路が整備されるのはこれからずっと後のことです。
b0199170_1325075.jpg

 インタビューの後半でも「岩里君」は「現在の哲學が軍人に讀まれていぬといふ所に現代の學問の危機があるのではないだらうか」と話し、すでにこの頃から「哲人李登輝」の片鱗を垣間見ることができます。

 1943年(昭和18年)といえば、戦況が暗転し始めた時期でもあり、台湾では戦力補充のための志願兵制度が実施された時期と重なります。李元総統の御兄上、李登欽さん(日本名:岩里武則)もこの年、海軍に志願して合格しており、後の1945年(昭和20年)2月にフィリピンで名誉の戦死を遂げられました。李登欽さんが海軍志願兵に合格した際のインタビュー記事が台湾日日新報に掲載されたのは、弟である李元総統の記事掲載からおよそ3ヶ月後、9月22日のことでした。
 もしかしたら、取材の席上、御兄上が海軍志願兵に応募したことを記者に漏らし、取材対象として白羽の矢が立ったのかも知れませんが、こればかりは推測の域を出ません。

 あの時流のなかで、若い学徒が護国報恩の念を抱き、青年が熱い血潮を滾らせて志願兵に応募することは容易に考えられる選択でした。新聞社側が本島人学生による烈々たる決意を掲載し、本島人の戦意を鼓舞しようとした提灯記事の側面を差し引いても、あの時代に生きた若者たちが持っていた、公に殉じようという崇高な理念までが否定されるわけではありません。

 当時の故国日本や同胞のために散華された台湾人日本兵、およそ2万8千柱の英霊を含め、現代の平和と繁栄の礎になった先人の方々への感謝を忘れてはなりません。

 今日は67回目の8月15日、九段の杜は参拝の人波であふれかえっていたと聞きます。



 私も志願する 信念を語る岩里君 台北高校

 “決戰下學徒の決意”といふ問に答へ、臺北高校三年文科の本島人學生岩里君は左の如く語った。

 決戰下の學徒として僕達の切実の感情は何と言つても大東亞戰に勝ち抜くと云ふことだ。學問をするといふことが要するに國家目的の為であって、これまでのやうな學問の為の學問といふ考へ方は絶對にあり得ないと思ふ。

 學園内のこれまでの弊衣破帽の風も現在としては一時代の遺物とも言ふべきもので、吾々には新しい立場が必要だと言ふことは痛感してゐる。唯高校生は内省的な傾向が強いので外部に餘りはつきり自己の立場を示すことがないが、内部に於てはさうした氣持は相當強いと思ふ。

 今や臺灣にも陸海軍の特別志願兵制度が施行され、私も大學の法科を出たら志願をしたいと父母にも語つてゐるのであるが、軍隊の制度は吾々が自己の人間を造る所であり、色々と苦しみを忍んで自己を練磨し明鏡止水の窮地に至るに是非必要な所だと信じてゐる。近く内地に行くこととなってゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禪の研究をしたいと思ふ。

 過渡期の知識層といはれる面に一番缺けてゐるものは力であり、指導力であつて現在でも國民をひきづつてゐるのは哲學でも理念でもなく、國民の気力であり學問はその國民の氣力に立遅れた感があるが國民の力の原動力となる學問が必要だ。

 現在の哲學が軍人に讀まれていぬといふ所に現代の學問の危機があるのではないだらうか。本島では大東亞戰の認識がまだ最末端まで徹底してゐない所がある。さう言ふ人達に対する啓蒙は私としては本島人に対する義務教育が一番有効に働くものではないかと思ひ義務教育の施行された事は尊い有難いことだと思つてゐる。結局教育と徴兵制が本島人が日本人として生まれ變つて行く大きな要件ではないかと思ふ。
b0199170_141892.jpg

 台北高校卒業間近の一葉。同級生たちと学内にて。前列右側が李登輝元総統。
b0199170_22242756.jpg

 1943年(昭和18年)、李登輝元総統が台北高校を卒業して間もない頃、京都帝大へ進学する直前に撮影された家族の集合写真。後列右が李登輝元総統、左が兄の李登欽さん。前列右から父の李金龍さん、祖父の李財生さん、母の江錦さん、兄嫁の奈津恵さんと兄の子供たち。撮影場所は生まれ故郷の三芝にある智成廟。
(台北高校時代および家族の集合写真はいずれも国史館発行『李登輝総統写真資料集』から)
[PR]
by ritouki | 2012-08-15 23:29 | イベント