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by ritouki

女子学生のナンバースクール

 わが日本には、終戦後まもなくまで旧制高等学校制度が存在しましたが、そのなかでも特にエリートが集まった学校を通称ナンバースクールと称しました。例えば「一高(第一高等学校=現在の東京大学)」や「三高(第三高等学校=京都大学)」など、学校名に数字が冠されていたことに由来します。

 そうした「本家」のナンバースクールとは異なりますが、日本時代の台北にあった高等女子学校にも、いわゆる「ナンバースクール」が存在したのです。

 筆頭は台湾総督府のはす向かいに位置する「台北州立第一高等女学校」。日本時代は「第一高女」と呼ばれ、現在では「台北市立第一女子高級中学」と名称こそ変われど、年によっては台湾大学への進学率で男子校トップの建国高級中学を凌ぐほどの名門校として、今も昔もその名を轟かせています。ただ、日本時代の在学生のほとんどは日本人で占められていました。ちなみに現在では、制服の色が緑色であることから「北一女」の学生は「小緑緑」とも呼ばれています。
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 続いては「台北州立第二高等女学校」。戦後に台北第四高女とともに台北第一高女に吸収統合されるかたちで姿を消しました。しかしながら、当時の校舎は現在も立法院が使用しており、名前は消えても往時を偲ばせる姿は健在です。こちらも日本時代の在学生は日本人がほとんどを占めていたようです。
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 歴史には必ず光と影があり、そうした見方を日本時代の台北における高等女学校に当てはめれば、第一高女や第二高女に本島人(台湾人)の子女が入学するには、成績は言うまでもなく、家の財力や社会的地位などが不可欠であり、こうした部分に内地人と本島人の差別が存在したことは認めなくてはなりません。

 そういった意味では「台北州立第三高等女学校」は、本島人の子女にとって最高のステータスである名門校だったといえます。「第三高女」は領台まもない1897年(明治30年)4月に士林で開校した「台湾総督府国語学校第一附属学校女子分教場」をその源流としていますが、その後は幾多の変遷を経て、1922年(大正11年)に「台北州立台北第三高等女学校」と改称、1937年(昭和12年)に朱厝崙と上埤頭の交差点そばに新校舎が建設されました。

 現在、日本時代の「第三高女」は「台北市立中山女子高級中学」として「北一女」に次ぐエリート女子高として知られ、日本時代の校舎が現在でも長安東路のキャンパスで使われています。
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 第三高女から中山女子高を通じ、輩出された卒業生は、北一女に負けずとも劣らぬ才女揃いです。李登輝元総統の奥様である曾文恵夫人。そして、陳水扁元総統の呉淑珍夫人とファーストレディを2代続けて輩出しました。また、今年の総統選挙で惜しくも敗れた民進党の蔡英文・前主席も中山女高の出身です。

 日本時代の台湾で最大の発行部数を誇っていた『台湾日日新報』には、台北高等学校や台北第一高女、第三高女など、名門校の合格者氏名が発表されるごとに紙面に掲載されました。それだけ進学できる生徒の数が限られていたともいえます。
 1938年(昭和13年)3月29日付の紙面には、この年の第三高女合格者が掲載されています。そのなかには「曾氏文子」と、現在の李登輝夫人、曾文恵さんのお名前も見えます。
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 曾文恵夫人はもともと「曾文子」という名前で、日本時代には「ふみこ」と読ませていましたが、その後、読書が好きだったことから文才に恵まれるよう、ご自身で「文恵」と改名されました。現在でも、李元総統が曾文恵夫人を「ふみ」と愛情をこめて呼ばれることはよく知られています。また、2007年(平成19年)に「奥の細道」を訪ねる旅で松島を訪れた際、ご夫妻で俳句を詠まれたことは、お二人の文才を物語っているといえるでしょう。
 第三高女在学中のスナップを見ると、ご自身で「ふみ子」とサインを入れられているのがわかります(写真は国史館『李登輝総統写真資料集』より)。
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 当時、曾文恵夫人は今でいう高校生。数年後に台湾が日本の統治下から離れ、国民党が台湾にやって来て独裁体制を敷き、暗い時代が長く続くことはもちろん、その闇に光明をもたらすことになる李登輝総統が将来の伴侶となることなど、夢々思わなかったことでしょう。
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by ritouki | 2012-08-17 23:33 | イベント