台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

「美しい日本語を守る」友愛グループ創設者の陳絢暉さん逝去

 先ほど、友愛グループの代表幹事を務められている張文芳さんからご連絡をいただきました。友愛グループを創設した元会長の陳絢暉さんが、21日に亡くなられていたそうです。享年87歳でした。

 実を言うと私は陳元会長とは一度もお目に掛かったことがありません。とはいえ、今や「美しい日本語を守る会」としてその名を轟かせる友愛グループの創設者としてそのお名前は幾度となく見聞きしています。

 創設のきっかけとなった川端康成夫人への「”貴様”誤訳事件」は余りにも有名で、下記にご紹介する宮崎正弘先生が書かれた友愛グループ紹介の文章にも出てきますのでここでは割愛します。

 晩年は糖尿病などを併発し、病院で療養する生活を何年も送られていると、張さんから聞いていました。毎年、毎月、少しずつ少しずつ、日本語族の方々が姿を消されていくのを寂しく、悲しく感じると同時に、少しでも多くの日本語族のお話しを聞いておきたいと切に感じます。

 ともあれ、今や日本と台湾の密接な交流の代名詞となった感のある「友愛グループ」を創設した陳元会長のご冥福をお祈りすると同時に、大盛況と耳にする毎月の例会が、とこしえに続けられていくよう、私も微力ながらお手伝いしていければと思います。

 張総幹事をはじめ、友愛グループの皆さんとは親しくさせていただいていますが、いま一度、友愛グループの歴史を紐解くために、宮崎正弘先生が文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』に発表し、その後、友愛グループの機関誌に転載された文章を下記に掲載します。

 なお、陳絢暉・元会長の告別式は1月19日(土)午前11時から、台北市民権東路の「台北市立第一殯儀館」で行われます。

-----

 「友愛グループとは?」

 数年前、日本の評論家 宮崎正弘氏が『諸君!』に発表した文章の一部を藉りて、友愛グループの由来を説明します。

 日本の作家藤島泰輔氏が台日国交断交について、「昨日の友人を捨てた外交の酷薄さ」に義憤を感じた藤島氏は台湾問題に初めて首をつっこみ、日本と台湾の架け橋たらんとノーベル賞作家の「川端康成遺品展」を台湾で、東京では著名な中国人書家「張大千展」を催したりの大活躍だった。

 そのときに知り合ったのが当時、台北で特許事務所を経営していた陳燦輝氏とその実兄の陳絢暉氏で、私も初対面のとき、あまりの日本語のうまさに舌を巻いた。

 この陳兄弟は往時の日台文化交流に「ボランティアの通訳」を交替で買って出てくれた。
 
 当時の台湾はと言えば蒋介石政権のもと、日本の映画は御法度、大学で日本語コースは二、三校しかなく、台湾の歴史教育は「大中華思想」で反日的だった。

 この頃のことである。川端康成遺品展の打ち合わせで台北を訪問中の川端未亡人と北条誠氏の通訳をした「日本語専門家」の秘書が「あなた様」と訳す筈を北条氏に向かって「貴様は」と言ったのだ。怒髪天に衝いた北条氏が、このときの無念さを陳兄弟に語った。

 これが「美しく正しい日本語を台湾に残そう」という文化運動への伏線となった。

 (中略)

 この程度の日本語使いが公式通訳員であったり、日本語の教授として台湾で通用するとすれば、これは大変なことではないか。

 それからまもなくである。初めての非公式の集まりが陳絢暉氏の弟が経営する特許事務所の近くの喫茶店で月に一、二度有志が集まって勉強会を持つようになった。つまりスタート時点では、まったく私的な、食事会を兼ねた同好会的集まりに過ぎなかった。

 むろん、当時の政治状況はまだ戒厳令下、日本語の会などをおおっぴらに開けない政治環境だった。

 歳月は須臾(しゅゆ)にして流れ、蒋介石の子・蒋経国が八八年に急死、副総統だった李登輝が正総統となり、台湾政治の表舞台に登場する。

 台湾の民主化が始まった。日本語のビデオや映画の禁止は徐々に解かれ、いやそればかりか日本留学のブームが起こり、台湾のあちこちに日本語学校が花盛りとなる。

 (中略)

 陳さんは仲間を集め、グラス・ルーツ(草の根)的日本語勉強会を始めた。

 北条誠氏(この間に逝去)が嘆いてから、実に十数年の歳月が流れていた。
 
 機関誌『ツツジ』も1993年の2月に創刊、当時、事務所は陳燦輝氏の特許事務所の中におかれた。

 当初は「友愛日本語クラブ」という名称で、林松茂、陳燦暉、劉慕沙、陳宗顯、王得和、陳絢暉、洪祖恩等7人の発起により1992年10月20日に設立され、それが紆余曲折にあって機関誌も99年から『友愛』へ。組織名も今の「友愛グループ」となった。それまで別個に活動していた俳句、短歌、川柳などのグループのメンバーも何人か合流してきた。

 機関誌『友愛』は、いまや「文学界」並みのページ数を誇り、日本人も協力しているので、「エっ」と思うような異色の論文が出るようになった。

 たとえば「中国語方言の中で最も北京語に近いのが蘇州語で72.73%、最も遠いのがアモイ語の48.88%で、そのアモイ語に一番近いのが客家語だが、それでも58.56%に過ぎない。英語とドイツ語の開きに相当する。そして北京語とアモイ語の開きは日本語で言えば東京語と沖縄の首里方言ほどの差になる」(篠原正巳氏)という学術論考があるかと思えば、短歌を詠む人もいれば、なかには歌会始に佳作入選のひとがいる。

 台湾の「務実外交」を日本の新聞が「実務外交」として採りあげたことがある。ところが〈友愛〉機関誌では「実務は『実際の業務』であり、『務実』とは実事につとめる、つまり李登輝は外交面で実益のある方向に専念することに意味がある」と解説して暗に日本のマスコミを批判、なかなか参考になる。

 しかしそれにしてもこれら老壮世代は何故これほどまで日本語にこだわるのか?

 メンバーの蔡焜燦氏は司馬遼太郎が「老台北」と紹介した名通訳でもある実業家だ。私もよく台北でというより東京でお目にかかることが多いが、氏の案内で台湾を回った作家、批評家はかなり多いだろう。

 文学畑では石川達三、井上靖、宮本輝などの著作の翻訳で知られる劉慕沙女史もいる。

 やはり有力メンバーの楊鴻儒氏は国民党の軍人出身だが、「反乱罪」で懲役10年、軍事機密漏洩罪をでっち上げられ3年加算された獄中経験者。反乱罪とは楊鴻儒氏の友人が1971年に「台湾は中華民国のままでは国連を追い出される、台湾民国か、大華民国に国名を変更して国連に残るべきだ」とする在台日本人向けの日本語新聞に発表するゲラを事前に見せて貰ったのに当局に通報しなかったというだけの理由だ。

 結局、楊鴻儒氏は1971年12月に拘束され、1979年8月に保釈。その後、名誉回復の再審を求めようとしたが当時の台湾法では再審請求ができなかった。ただし李登輝時代になって入獄中の未払いの給料、年金を支給され実質的に名誉は回復された。いま楊氏は日本の書籍の翻訳を斡旋したり自らも翻訳をしている。

 (中略)

 翌日、陳氏らと昼飯をとりながら話を続けた。「あの懐かしい歌に籠められた日本情緒を私たちは日本語を通じて、日本人と共有できた。あの時代と比べるといまの日本はなんと変わったものでしょうか」。

 最後には深い嘆息がでてくるばかりなのである。

 以上が友愛グループ設立の経緯です。目前、友愛グループのメンバーは百名を越え、毎月第三木曜日に月例会(勉強会)を開催しており、その都度、日本人留学生や、在台日本人、或いは日本からの旅行者が友愛グループの存在を聞き知り、オブザーバーとして3~4人、多い時は5~6人も参加されています。日本語によるスピーチ発表会も毎月行なっており、たまには「懐かしい昔の歌」をみんなで楽しんでいます。勿論日本語の歌です。

 幾度か日本の新聞(産經新聞、東京新聞、朝日新聞など)が友愛グループのことを報道、NHKにもスクープされ、ドキュメントとして報道されました。

 現在会員数は141名、その内日本人が37名、最年少者25歳、最高年齢93歳、平均年齢が76歳の構成、となっています。(2012年2月現在)

 (後略)
[PR]
by ritouki | 2012-12-26 23:21 | イベント