台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 最近、ふとしたきっかけで、台北の日本人学校に通う中学生の国語教科書を手にとる機会がありました。そのなかで目にとまったのが三浦哲郎の「盆土産」という文章。私が中学生のときにも教科書に載っていた記憶があります。

 都会に出稼ぎに出ている父親が、盆休みの帰省土産として冷凍のエビフライを携えて帰って来ます。エビフライが傷まないように、夜行列車に揺られながら、眠りを寸断して何度もドライアイスを取り替える父親の、子供たちに美味しいエビフライを食べさせてやりたいという愛情を感じる一方、初めて口にするエビフライの美味の記憶がないまぜになった主人公の子供は、再び都会へ戻る父親を見送る際、「さよなら」でもなく、つい「エビフライ」と言ってしまうお話し。聞き覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 そして、もうひとつが向田邦子の「字のないはがき」。本土空襲で一家もろともやられるよりは、と末娘を疎開に送り出した父は、まだ字の書けぬ妹に大量のはがきを持たせ「一日一枚、元気だったら○を書いて出しなさい」と言いました。しかし、当初元気だった○は次第に小さくなり、やがては×に。数週間後には体調を崩し、はがきも届かなくなります。母に迎えられて東京に帰ってきた妹を、はだしで飛び出して迎え、家族に初めて男泣きの姿を見せた父の愛情を綴ったエッセイです。

 向田邦子といえば、皮肉にも、1981年8月に台湾は苗栗県上空で発生した航空機事故により、その短い生涯を終えました。「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」など、飄々とした筆致のなかに、家族の情愛や懐かしい風景を切り取った文体が爽やかで、私も大好きな作家の一人です。

 そんな向田邦子の代表作が『父の詫び状』。保険会社の上役だった父は、毎夜のごとく取引先や部下を自宅へ連れ帰り、家族を巻き込んで接待させました。ある冬の朝、前夜の客が粗相した後を黙って始末した主人公(向田邦子)に対し、数日後に下宿先へ手紙が届きます。性格同様、四角四面の文面に続き、最後に「この度は格別のお働き」と書かれ、横に朱で丸がつけてあったとか。向田邦子は当時を懐かしみ、これこそが昔気質で素直に感情を出せなかった父の、せめてもの「詫び状」だったのだろう、と述懐しています。

 前置きが長くなりましたが、今日の話題は金美齢先生の新刊『夫への詫び状』(PHP文庫)。2007年に出版された『夫婦純愛』のリメイク版です。
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 金先生の最愛の夫、周英明先生が亡くなったのは2006年のこと。私が台湾留学のため、金先生の秘書を辞してから1年半も経っていませんでした。時折り新宿御苑のオフィスに現れる周先生は、いつも片手にビニール袋が。袋の中身はオレンジや、京王百貨店に入っているフォションで購入したブールなど。どれも金先生の朝食には欠かせないもの。時にはお孫さんに食べさせようと、たくさんの果物を両手に抱えてくることもありました。少しお腹の出っ張った周先生が抱えている袋の中のものは、いつも自分ではなく愛する人のための品物が入っていました。

 周先生は見るからに温和で知的で、金先生に言わせると、まさに「教師になるために生まれてきた人」。学生が分からないところは、何度でも根気よく繰り返し説明する姿は、当時はまだ小さかったお孫さんたちにとっても偉大な先生でした。

 テレビや講演会での「辛口」評論が代名詞となった感のある金先生ですが、夫である周先生は常に笑顔絶やすことなく、妻である金先生がテレビに雑誌に活躍することを手放しで応援し続けたそうです。

 ただ、金先生に言わせると、周先生も相当の頑固者だそうで、だからこそ、国民党によるブラックリスト解除後も「中華民国のパスポートを使ってまで台湾に帰るつもりはない」と頑なに「国民党的なもの」を拒んだというのもうなづけます。そんな周先生も2000年に民進党の陳水扁総統が誕生し、政権交代がなされると、ついに40年近く留守にしていた台湾の地を踏みました。決意させたのは、民進党の勝利直後、台湾からかかってきた一本の電話だったとか。「台湾はもう変わった。こだわりは一旦うち置いて帰ってくればいい」と言って、周先生の背中を押したのが蔡焜燦先生だったそうです。

 周先生がオフィスに電話をしてくると「家内をお願いします」。でも、直接金先生に呼びかけるときは「ママ」。金先生も私たちには「まったく、今朝も周先生がうんたらかんたら・・・」と言いますが、周先生には「パパ」と呼びかけていました。時には「そんなキツイ言い方しなくても」と思うような場合でも、周先生は決して怒ることもなく常に笑顔でした。単なる夫婦というかたちだけでなく、台湾独立運動の同志でもあり、30年以上にわたる日本でのブラックリスト生活のなかで育まれた絆は、普通の「夫婦」や「家族」という言葉だけでは到底表現出来ないものだったことは容易に推察出来ます。

 周先生が亡くなってから早くも6年。代々木上原の斎場で行われた葬儀には、長い長い献花の列が続き、愛してやまなかった孫娘たちが号泣する声だけが響いていたのを覚えています。葬儀が終わり、数ヶ月後に送られてきた「会葬御礼」と書かれた封筒の中には、当時発刊されたばかりの『夫婦純愛』。まさに金先生と周先生の二人三脚を振り返るに相応しい一冊でした。

 今般、その『夫婦純愛』がリメイクされ『夫への詫び状』としてPHP文庫から発刊になりました。テレビの画面を通して見た辛口版(?)金先生の素顔、いつもどこでも「連れ合い」と呼び、愛してやまなかった夫・周先生への思い。自分自身「私は奔放で自由に生きてきた」と断言する金先生も、無限の愛で金先生を守り続けた周先生あってこそ。

 向田邦子の父は、手紙のなかで娘に対するその愛情を表現しましたが、金先生もこの本を通じて、周先生へのめいっぱいの愛情と素顔をさらけ出しています。お二人の愛のかたちをぜひお読みください。
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by ritouki | 2012-11-08 03:19 | イベント
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 日本時代から親しまれてきた「台湾ゴルフ場」から淡水河を挟み、対岸の観音山を望みます。晴れた日には、淡水に向かうMRTの車窓から、観音菩薩の横顔に見えることからその名がついた観音山を仰ぎ見ることができます。

 観音山は日本時代には「淡水富士」とも呼ばれ、淡水のシンボルとして歌や詩にも詠まれたり、休日にはハイキング客で賑わいました。
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 日本時代の写真でもその雄姿は今と変わらぬ姿であることがわかります。
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 李登輝総統がこの観音山の頂上まで登り「指導者はかくも孤独だ。支えてくれるものは何もない。頼れるのは信仰のみだ」と悟ったエピソードは余りにも有名です。
 李登輝総統のオフィスが入る李登輝基金会からも観音山の美しい姿が見られます。
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by ritouki | 2012-11-03 22:55 | イベント
 2日目の朝を迎えた名古屋商工会議所・若鯱会の皆さんによる「台湾の歴史から学ぶ『日本精神』ツアー」。昨日は遅くまで台北を満喫していた方もいらっしゃったようです。

 今日は朝から市内の研修観光。まずは萬華の古刹、台北龍山寺を参拝。戦前戦後を問わず、台湾の人々の厚い信仰を集めてきた、いわば「心の拠りどころ」です。台北の街の発展は、まさにこの萬華の地から始まりました。少しくすんだ街並みが却って下町風情を感じさせます。

 続いては中正紀念堂へ。ちょうど正面、側面の階段が工事中のため、衛兵交代の儀式を見学するためには1階の展示スペースからエレベーターもしくは階段で蒋介石の銅像があるフロアまで上がらなければなりません。
 そもそもこの衛兵交代は、観光の目玉として設けられたもので、儀式そのものにはまったく意味がありません。民進党政権の時代、一度廃止されたものの、それまで衛兵交代目当てで訪れていた観光客が減少したため、国民党政権になって復活させたという経緯があります。とはいっても、儀式そのものは見ていてなかなかのもの。憲兵のなかでもエリート中のエリートしかこの役目にはつけないとか。

 バスはすぐ近くの「228記念館」へ。1947年(昭和22年)2月27日、現在の南京西路で発生した闇タバコ売りの女性に対する国民党官憲による暴行事件により、それまで耐え難きを耐えてきた台湾の人々の堪忍袋はついに切れました。その波はまたたく間に広がり、翌日には全島蜂起となりましたが「台湾人よ蜂起せよ!」との声を運んだのが、当時の台北放送局、現在の228記念館です。

 政権が変われば展示も変わる、と言われる通り、以前と比べると展示の内容にも変化がありますが、それでも60数年前の凄惨な事件を伝えるには充分な迫力があります。初めて台湾を訪れた方が半分ほどをしめているため、戦後間もなく台湾で起きた事件に衝撃を受けたようでした。
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 続いては昼食。台湾名物の小籠包に舌鼓を打ち、竣工当時世界一の高さを誇った台北101ビルの展望台から台北の街を睥睨します。

 高さ509.2mを誇る101ビルは、2007年にドバイのビルに抜かれ、世界一の座を明け渡しましたが、現在でも台湾のランドマークであることに変わりはありません。
 ビルの外観は竹をモチーフにしたもの。竹はまっすぐ上に伸びることから繁栄を象徴し、台湾では縁起の良いものとされています。施工は熊谷組を中心としたジョイントベンチャー、展望台のある89階までをわずか37秒で上昇するエレベーターは東芝製。開業当時「鉛筆を立てておいても倒れない」と報道されるほどの性能が賞賛されました。台湾を代表する建築にも日本の技術が生かされているのを知ると面映い気がします。
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 さて、上の写真はなんでしょう?
 実はこれ、101ビルの揺れ幅を抑制する「ダンパー」です。これだけの高さのビルともなると、風による振動の影響も並大抵ではありません。そこで、660トンの重さのダンパーを87階から92階の間に設置し、横揺れを緩和しているのです。このダンパーにより、揺れを最大40%軽減出来るとか。

 トイレの個室には奇妙なイラストの注意書きが。便器以外でしてはいけません、ということでしょうか。そんなことさえ知らない人たちが対岸からたくさんやって来ているということでしょうか。
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 午後は故宮博物院を見学し、ホテルへ戻って休憩。夜は蔡焜燦先生をお招きしての晩餐会です。数日前、体調を少し崩されたようで心配していましたが、夕方に一度お電話すると「だいぶよくなったよ。名古屋の皆さんに会えるのが楽しみだ」と仰られたので少しホっとしました。
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 「台湾に残る『日本精神』」をテーマに少しお話しいただけませんか、という要望に対し、蔡先生は40分近くも立ったままで講演。「皆さんビールも飲まないでこっち見てたら話しにくいから、飲みながら食べながらで聞いてください」と、蔡先生ならではの気遣いでスタートした講演は、「あぁもうお腹すいちゃったので、ここらでご飯食べさせて下さい」とユーモアたっぷりに終了。
 お元気な姿で、日本精神を説く蔡先生の言葉に、皆さん一様に感動した様子。「このためにだけ台湾に来たといっても過言ではない」「台湾に来た甲斐があった」と口々に話されるのを聞くと、お手伝いに参上した私までも嬉しい気分になります。

 興奮冷めやらぬ皆さんも、明日は台湾総統府と景美看守所を見学して帰国。皆さんの目に台湾はどう映ったでしょうか。
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by ritouki | 2012-11-02 23:10 | イベント
 名古屋商工会議所の若手メンバーで構成される「若鯱会」の皆さんが、30周年記念事業の一貫として「台湾の歴史から学ぶ『日本精神』ツアー」を開催。2泊3日の予定で30人ほどが今日から台湾入りしました。

 聞けば、7月9日に若鯱会主催で金美齢先生をお招きしての講演会。その際、若鯱会が毎年海外研修を行なっていることに触れ、「だったら今年は台湾に行きなさい!」と鶴の一声ならぬ「金の一声」で台湾研修が決まったそうです。

 そうした経緯もあり、ツアー催行を本会系列の共栄ツアーズが請け負うこととなったため、私もスタッフとして皆さんに同行させていただくことになりました。

 事前に送られてきた名簿を拝見すると、今年の委員長には望月さんという見覚えのあるお名前。もう7年以上前、私がまだ金美齢先生の秘書だった頃、名古屋の青年会議所の方が講演依頼のためにオフィスにお見えになったことを思い出しました。通常、講演依頼はまずお手紙やメールなどでお問い合わせいただき、打ち合わせのためにオフィスへお越しいただくことも多いのですが、2度3度とわざわざ名古屋からお運びいただいたので余計印象に残っていたのかもしれません。その方のお名前が望月さん、下のお名前も珍しかったので恐らくご本人だろうと思いつつ桃園空港へお迎えにあがりました。

 ゲートから出てきた若鯱会の皆さんご一行を無事にお迎え。和服姿の望月さんからは「ご無沙汰しております」と声を掛けていただき、やはりご本人。望月さんも私のことを覚えていてくださったようです。

 バスに乗車し、一行は最初の研修場所である北投温泉の「日勝生加賀屋」へと向かいます。言わずと知れた石川県和倉温泉の名旅館が初めて海外進出したのが、ここ台湾の加賀屋ですが、今日は加賀屋誘致の牽引役で、実質的に切り盛りされている董事の徳光重人さんから1時間にわたり、加賀屋にまつわる経験談をお話しいただきました。

 商工会議所のメンバーは皆さん、中小企業の経営者やそれに近いポジション、士業など独立したオフィスをお持ちの方々で構成されています。業種は変われど、同じ経営者としての立場から、徳光さんのお話しを興味深く聞かれているようでした。

 徳光さんのお話しは、ご自身が駐在で台湾にやって来たものの、2003年にはSARSの影響を受けて撤退が決まるも、台湾に残ることを決意するところから始まりました。独立して台湾に残ったはいいものの、SARSの影響が尾を引くなか、思い通りにビジネスが進まず苦悩しているところへ、台湾の企業から「ホテル誘致」の話が持ち上がったということです。

 そこで当時から○○年連続日本一の看板を有していた加賀屋を台湾へ誘致しようと考え、企画を持ち込んだところトントン拍子に進出が決定。日本の加賀屋はバブル後の不景気を、台湾からの宿泊客にずいぶん助けられたことから、台湾に恩返ししたいという思いもあったそうです。
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 ところが、建築デザインに対する考え方や、ちょっとした行き違いで計画はたびたび頓挫。建築が始まってからも、厳格な設計デザインにより、建築材料を日本から取り寄せるなどしたため、工期は遅れに遅れ、オープンまで6年を要したとか。

 また、オープンしてからも、人材育成や従業員教育の面では台湾と日本の大きな違いを感じるなど、日々苦労しながら今日までやって来られたエピソードを、ユーモアを交えながらお話しいただきました。

 通常、1泊2日の宿泊(夕食、朝食付き)で、安くても一部屋につき室料5万円程度〜7万円ということですが、台湾だけでなく香港などからも、毎月通ってくる常連さんがいらっしゃるそうです。

 その後、館内を見学し、加賀屋を後にしました。

 続いては台北市芝山巌にある「六士先生の墓」を訪ねます。芝山巌は日本時代「台湾教育発祥の地」として知られていました。

 日清戦争の結果、清朝が日本に台湾を割譲したのが1895年(明治28年)5月。早くも翌月には、当時文部省学務部長心得の任にあった伊沢修二が台湾へ渡り、この芝山巌の地に「芝山巌学堂」を開いたのが日本統治下における台湾教育の嚆矢とされています。

 しかし、伊澤が日本内地へ帰国中の1896年(明治29年)1月1日、元旦の拝賀式に出席するために芝山巌を下山していた6名の教師が、未だ鎮圧されていなかった抗日匪賊に襲われ遭難。同行していた用務員を含む7名が惨殺されました。

 その後、抗日匪賊が未だ跋扈する危険を顧みず、台湾の教育に殉じた犠牲的精神を顕彰するため「六士先生の墓」が建てられ、伊藤博文の揮毫による「学務官僚遭難之碑」も建てられました。

 また、1930年(昭和5年)には、この地に「芝山巌神社」も創建され、ふもとから本殿跡へ続く長い階段は、数年前に森喜朗元首相が訪台した際、李登輝元総統とともに上がられました。李元総統は当時を懐かしがって「私は平気で上がったんだけど、森さんは身体が大きいからヒイヒイ言いながらだったなぁ」と笑い話をされることがあります。

 戦後、ご多分に漏れず、墓や石碑は国民党によって横倒しにされたり破壊されたりしましたが、民主化の波とともに、台湾の教育に命をかけた「六士先生」に再びスポットが当てられ、墓や碑の修復が行われました。

 一行は六士先生の墓に線香を手向け、献花して先人の偉大な精神に敬意を評しました。
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 また、芝山巌神社の境内があった場所には、前述の通り、伊藤博文揮毫の「学務官僚遭難之碑」と戦後に建てられた石碑が左右に建てられています。
 「学務官僚遭難之碑」はもちろん日本時代、台湾の教育に命を捧げた六士先生を顕彰するもの。もう一つの石碑は、戦後の国民党時代に建てられたもののため、六士先生を襲った匪賊を「義賊」として称える内容が記載されています。
 ある一つの出来事も、「書き手が誰か」によって見方が変わることを示す好例です。
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 夜は台北市日本工商会にご協力いただき、名だたる企業のトップの方々を交えての晩餐会。皆さんお忙しいところにお出掛けいただき、台湾在住の日本人としての視点や、企業トップとしての意見などをお話しいただき、有意義な会になったことと思います。

 バスは士林夜市経由でホテルへ。朝早くからの始動だったようですが、研修は2泊しかないため、皆さんエネルギッシュに台湾を満喫されています。
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by ritouki | 2012-11-01 23:57 | イベント
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 8月6日、曾野綾子さんは産経新聞の「正論」欄で「私は一人の台湾人のために靖国神社に参る」と書きました。この記事については、当日のブログでも紹介しました

 曾野さんが書いた「私は一人の台湾人のために毎年靖国に参る。その方は、当時日本人としてフィリピンで戦い、日本人として戦死し、その遺体さえついに待ちわびる父母の元に帰らなかった。その父は、最期まで長男の死を認めず、葬式も出さず墓も作らなかった」という内容は、読む人が読めば李登輝元総統一家のことを指しているとわかるものでした。

 そしてやはり曾野さんはPHPの月刊誌『Voice』に連載の「私日記」で同様のことを記されていました。8月15日の日記が掲載されたのは10月10日発売の11月号。購入したはいいものの、忙しさにかまけ、今になってやっとページを開きました。
 8月15日の箇所には「(前略)私は岩里武則というお名前の台湾人のご家族の代参のつもりもかねている」と書かれています。
 靖国神社に祀られる岩里武則命は台湾名が李登欽、まぎれもなく李登輝元総統の御兄上です。当時は李元総統ご自身も岩里政男という日本名をお持ちでした。

 「最期まで長男の死を認めず、葬式も出さず墓も作らなかった」というお父上の李金龍さんは、1995年(平成7年)4月19日早朝、台北市内の仁愛病院で李元総統ご夫妻ら家族に見守られながら98歳でこの世を去りました。故郷の三芝では90歳を過ぎてもなお公益関連の事業に熱心で、地元の名士として慕われていたということです。
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 その李金龍さんは1991年(平成3年)3月、95歳のときに日本を訪れています。それから数えること16年後の2007年6月8日、奥の細道を歩くため訪日された李元総統は日光へ。歓迎会場となったレストラン「明治の館」には栃木県日台親善協会(当時)の計らいにより、16年前に日光で歓迎された御父上の写真が飾られており、李元総統もしばし見入っていました。
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 スピーチに立った李元総統は「親父が日光を訪れた時は90歳を過ぎていました。私はまだ90歳になっておりませんよ。まだまだ歩けます!また来ます!」と力強く語り、会場から万雷の拍手を浴びていたことを覚えています。

 日光を訪れた前日の6月7日、李元総統は曾文恵夫人、孫娘の李坤儀さん、黄昭堂・台湾独立建国連盟主席、三浦朱門・曾野綾子ご夫妻を伴い、靖国神社を参拝。60数年ぶりにフィリピンで散華された御兄上と再会されました。
 そして翌日には、御父上が元気で日光を訪問された際の写真をご覧になりました。御父上、御兄上と、すでに世を去った肉親の面影に深く思いを馳せられたことと思います。

 李登輝元総統は、来年1月15日で90歳を迎えます。講演や視察に同行しても、声色はパワフルで足腰もまだまだお元気そう。仄聞するところによると、再びの訪日を熱望されているとか。訪日が実現する暁には、お身体にご負担のかからないよう配慮することはもちろんですが、静かな環境で日本を堪能していただけるよう、日本側も抑制した対応をしていかなければならないでしょう。
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by ritouki | 2012-10-31 02:06 | イベント
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 つい数日前、台湾総督府(現台湾総統府)や台湾総督官邸(現台北賓館)の全館開放日に合わせ、参観に行って来ました。恥ずかしながら、台湾総督官邸は初めての見学。しかし、そこには日本時代の重厚な、荘厳な、国家の威信を文字通り体現した異世界が広がっていました。

 総督府の設計は長野宇平治がコンペに提出した案に、森山松之助が修正を加えたものになりました。長野は日銀本店などを手掛けた建築家、森山は白アリ被害で改修を余儀なくされた台湾総督官邸の改修設計をはじめとして、台湾各地の庁舎を多数手掛け台湾建築界の旗手となっていきます。そして、この二人とも先ごろ復刻されて話題となった東京駅を設計した明治の大建築家、辰野金吾の愛弟子なのです。

 総督府や官邸にかぎらず、台湾にはいたるところに日本時代の建築物が現役で、もしくは用途を変えることで新たな生命を吹き込まれ、今日も活躍しています。古き良き面影を残す建物を大切に守り、今日も使い続けてくれている台湾の人々に感謝することは言うまでもありません。しかし、その一方で、戦後台湾を占領統治している中華民国政府の統治の仕方にも目を向けなければなりません。

 逆説的に言えば、蒋介石一派が「大陸反攻」をスローガンに、中国大陸をいつの日か奪還する夢物語のなかで台湾占領を行なってきたために、台湾は一時的に羽を休めるだけの補給地にしか過ぎず、台湾の発展をこれっぽっちも考えなかったことが、日本時代の建築物がこれだけ残された原因のひとつになっているのは間違いありません。

 戦後の国民党政府には、台湾を発展させるだけの余力がなかったともいえるでしょう。あらゆる財源を「大陸反攻」のために注ぎ込んだため、新たな建設が出来ず、ちょうどいいから残っている建物を利用したという言い方もできます。

 李登輝元総統が地方視察の際に「大陸反攻のため、国民党はあまりにも中央集権化してしまい、地方の疲弊はかなりひどい」と漏らしたのも、当時の影響が未だに残っている表れでしょう。

 また、首都台北に地下鉄(MRT)が初めて開業したのが1996年です(木柵線)。同じく「アジアの4小龍」と呼ばれた香港は英国統治時代の1979年、韓国のソウルは1974年、シンガポールは1987年と、一番遅いシンガポールに比べてもかなり開きがあることが分かります。また、タイのバンコクに地下鉄が開業したのが2004年ということを考えると、人口250万の台北でこれだけ公共交通機関の整備が遅れたというのは、やはり前述したとおり、国民党政府が台湾の発展に本腰を入れていなかった証左ともとれるのではないでしょうか。

 先日開催された「片倉佳史さんと行く台湾ツアー」では、新竹編として新竹神社跡を訪れました。戦後、この場所は中国からの難民や密入国者を収容する施設として使われ、現在では、主に東南アジアからの不法滞在者が収容されています。

 神社が不法滞在者収容施設になってしまったことも驚きですが、片倉さんの説明によると、中国人の思考は至極「合理的」であり、この場所に以前なにがあったか、は問題ではなく、使えるのであれば使う、という割り切られた考えの持ち主だとか。

 つまり、今日の台湾で私たち日本人が無性に郷愁を感じる赤レンガの総督府をはじめ、数多くの日本時代の建築物が残されているのには、中国人の合理的な考え方と、蒋介石一派の「とにかく中国大陸を取り返すんだ、台湾なんか腰掛けなんだからどうだっていい」という徹底的にエゴイスティックな思想も大きな要因の一つになっているのだと思うのです。
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by ritouki | 2012-10-16 15:06 | イベント

台北賓館の自由参観

 台湾総統府の前に伸びる凱達格蘭大道を挟み、南側の外交部(外務省)と対峙して建っているのが「台北賓館」。国賓をもてなす晩餐会や、中華民国の建国記念日である「国慶節」を祝うパーティなどが開かれる、いわば迎賓館ですが、その前身は、日本時代の1901年(明治34年)に建設された「台湾総督官邸」です。

 戦後は「台北賓館」の名称に変わり、1963 年からは外交部所管の迎賓館として使われたため、長らく一般には公開されませんでしたが、2006年からは月に一度、自由参観日が設けられ内部の見学をすることが出来るようになりました。

 実をいうと、5年以上も台湾に住みながら、台北賓館に足を踏み入れたのは今日が初めて。そこには日本時代の重厚な設計と、瀟洒な内装を今に残す異空間が広がっていました。
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 1899(明治32)年、児玉源太郎・第4代台湾総督の命により建設が着手された台湾総督官邸は1901年(明治34年)に完成。設計したのは総督府技師の福田東吾と野村一郎でした。しかし、日本内地とは異なり、想定外だった台湾特有の手強いシロアリ被害によって改築を余儀なくされ、1911年(明治44年)から再び工事が行われました。この際、建物を取り囲むかのようなベランダも増築され、現在の姿になったそうです。

 正面入口には赤絨毯が敷かれ、国賓を接遇する厳粛な雰囲気を漂わせています。玄関ポーチから上を見上げると、銅細工と思われる照明が目に入りますが、よく見ると、先端には16枚の花びらをかたどった菊の御紋が見えます。
 戦後、台湾を占領した国民党政府は、日本時代に残されたものをことごとく破壊しましたが、その反面、「使えるものは使う」ということで、総統府をはじめとする建築物は引き続き使われることになりました。しかし、桜や菊など「日本」をイメージさせるものは削り取ったり、わざわざ中華民国の国花である梅に差し替えたりしたことを考えると、この照明がこの場所に残されているのは不思議です。
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 玄関を入ると、参観は左側の階段をのぼり、まず2階を見るのが順路となっています。初めて台北賓館を訪れた人たちは、白壁に輝く金の装飾に思わず見とれてしまうことでしょう。階段をのぼりきった広間の天井や壁にも、金で上品に装飾された意匠が目に入ります。
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 2階は主に居室として使われたそうですが、床はヒノキの寄木張り、それぞれの部屋に設置された暖炉にはイギリスから輸入したヴィクトリア様式のタイルが使われるなど、国家の威信をかけたとも言える最高級の造作であったことが分かります。窓の上には彫刻が施されていますが、こうした細かな部分でも、戦後に台湾を占領した国民党の中国人はきっちり手を加え、中華民国のシンボルである梅が入っています。
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 また、2階東側には鉄製のヨーロッパ式を意識した螺旋階段が設置され、バルコニーに出られるようになっています。
 1923年(大正12年)4月16日、台湾を行啓された皇太子殿下(当時は摂政、後の昭和天皇)は軍艦「金剛」で基隆に到着。列車で台北へ移動し、この台湾総督官邸にお泊りになられました。夜には、台北市民総出ともいえる提灯行列が行われ、皇太子殿下はわざわざバルコニーに出られ、万歳の声をあげる民衆に応えられました。
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 クスノキを材料とした階段の手すりにも彫刻が施されています。また、廊下にはすべて赤絨毯が敷かれ、あたかもタイムスリップしたと錯覚したかのようです。
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 2階中央にある「第一の間」は日本時代、畳敷きの居室でしたが、この部屋には興味深いものが展示されています。部屋の真ん中に置かれた装飾箱の四面には、富士山・渡月橋・厳島神社・日光の神橋が彫刻され、上部は大理石、四方はタンチョウ鶴と亀の模様が施されています。四方に開く扉の内側には何も残されていなかったそうですが、内側の上部には78種類の鳥の彫刻がなされているとのこと。
 当時の資料はまったく残されておらず、第7代・明石元二郎総督の時代にはすでにこの部屋に置かれていたこと以外、誰が制作したか、何のために使われたのかさえ不明だとか。一説によると「勅書を保管するためのものではないか」と言われているそう。当時の写真では、この箱の上に風神と雷神の像が置かれていました。しかし、戦後、雷神の像は行方不明となり、風神の像は破損しているものの、台湾中部の南投県にある国史館に保管されています。
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 1階は、現在でも晩餐会などに使われる大広間や応接室などが並んでいます。応接室の欄干には、日本時代、魔除けのためか鏡がはめ込まれていましたが、戦後は梅をかたどった彫刻が鏡をさえぎるようにはめ込まれています。南国の暑さに涼を吹き込む天井のファンにも、迎賓館の役割を果たす建築物ならではの装飾が施されています。
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 大広間からはバルコニーに出ることができ、ちょうど建物の裏側にあたる敷地には台北市の中心とは思えない見事な庭園が広がっています。
 以前、ジャーナリストの片倉佳史さんに聞いた説明によると、総督官邸に宿泊するほどのVIPが外出し、当時まだ撲滅しきれていなかった熱帯病に感染したり、抗日ゲリラの被害にあっては一大事と、なるべく総督官邸内に留め置くようにしたとか。そして、官邸内部でも南国台湾の風情を味わえるように、ヤシの木やガジュマルなど、台湾特有の樹木を植えることで台湾の雰囲気を醸し出すようにしたということです。庭園の向こうに見える台湾大学医学部附属病院がなければ、誰も首都台北の景色とは思えないのではないでしょうか。
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 また、庭園の一角には「和館」と呼ばれる日本式の家屋があり、こちらは総督が寝起きするために設えられた完全に日本式の建物だそうです。この和館から庭園の築山を眺めると、あたかも日本庭園のように見え、内地の気分を味わえるようになっているとか。残念ながらこの日は、和館の開放はされておらず、内部を見学することは出来ませんでした。

 台北賓館は台湾総統府の全館開放日と合わせ、毎月上旬の週末に開放されます(開放時間は8:00 〜16:00)。スケジュールは台北賓館のHPでご確認下さい。なお、台北賓館の参観に身分証は必要ありませんが、総統府の見学には必要ですのでご注意下さい。
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by ritouki | 2012-10-13 22:59 | イベント
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 李登輝元総統は本日午前10時から、台湾大学農業経済学系(学部)の大講堂で「我的人生哲学(私の人生哲学)」と題した講演を行いました。

 昨年11月中旬に大腸癌の開腹手術を行ったことで、一時期その体調が心配されましたが、術後の経過は大変順調で、今年4月に高雄および屏東を皮切りにした台湾全国を視察する「生命之旅」を始められました。

 「総統を退任した後、地方に出掛けていない」という想いによって始まった地方視察では「大陸反攻に固執した国民党の中央集権化の影響で、地方経済が疲弊している」と台湾経済の先行きを憂いながらも「地方にはまだまだ埋もれた人材がいる」と市井の人々のひたむきな姿に希望を見出していました。

 5度にわたって行われた「生命之旅」では、晴れ男の李元総統には珍しく、雲林や彰化で台風に見舞われました。9月上旬の南投・台中を巡る視察では、炎天下で疲れた表情を見せながらも、熱心に人々の声に耳を傾ける姿に心打たれました。

 「生命之旅」にはまだ台湾北部や東部が残されていますが、とりあえず今年の視察予定は南投・台中をもって終了。年末までは、積極的に大学をまわり、学生たちに向かって講演を行うとのことでした。

 今日は、母校でもあり、かつては教鞭をとっていた台湾大学農業経済学系での講演。聴衆として集まった学生は300人以上。席が足りなくなり、通路にまで学生があふれる満堂となりました。
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 以前から、李元総統は、特に学生や若者と話すことが出来るのを何よりも喜ばれると仄聞します。台湾の将来を担う学生たちに対し、ご自身の哲学を伝えることで、何かしらの糧として欲しいという願いによるものでしょう。
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 「私はいま90歳、皆さんはいま20歳くらい。しかし、私が20歳から経験した70年間と、これから皆さんが経験する70年は全く違う。変化は地球規模で起きている。そのことを念頭に置いて対処していかなくてはなりませんよ。」

 そう締めくくった李元総統は立ちっぱなしの講演90分、その後も質疑応答で30分近くしゃべりっぱなし。90歳を過ぎ、ますます元気になっていくように見えるのはあながち錯覚ではないかもしれません。
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by ritouki | 2012-10-05 17:44 | イベント
 南国台湾とはいっても、10月ともなればさすがに秋の訪れを感じます。午後6時にはすでに夕闇が迫り、日によっては肌寒くて上着を必要とするほど。

 ただ、昼間はまだ20度以上ありますが、湿度が低いためにカラッとしており、快適な季節の到来です。
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by ritouki | 2012-10-04 21:12 | イベント
 台湾のレシートには「宝くじ」がついていることはよく知られています。細長いレシートの上部に番号が書いてるのが長年のおなじみでしたが、今年から「電子レシート」なるものが登場しました。電子レシートの登場によって、今までは手作業でチェックするしかなかった当たりはずれの確認作業が格段に進歩したのです。

 電子レシートにはバーコードが記載されており、このバーコードをスマートフォンの対応アプリでスキャンすることでレシート番号を記録します。2ヶ月ごとに当選番号が発表された際には、当選番号のデータを自動的にダウンロードし、記録してあるレシート番号を照合することで瞬時に当たりはずれをチェックしてくれるというものです。

 電子レシートは、セブンイレブンやモスバーガー、SOGOデパートや三越で導入が始まっています。電子レシートをもらったらその場でスキャンすればOK。従来式のレシートの場合、手入力で番号を入力します。若干面倒ですが、レシートをもらったすぐに入力することを習慣づけると、それほど苦ではありません。むしろ、当選番号が発表された後、手作業でチェックする手間を考えればお手のものです。入力済みのレシートは、クッキー缶などにどんどん入れておきます。そうすると、だいたい下から日付順に重なるようになっていくわけです。

 当選番号が発表されたら、アプリが自動的に照合して当選しているレシートを教えてくれます。入力した日付も表示されているので、だいたい目星を付けてクッキー缶を漁れば、1分もかからず発見!今まで数十分かけて手作業でチェックしていたことを考えると、時間と手間が格段に省けます。
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 いくつかアプリを試してみましたが、今のところ一番使いやすいと思ったのはこちらの「電子發票王」。他にもいくつかあるので、ご自分の使いやすいアプリを探すのも楽しいかもしれませんね。

 最後にひとつ。そもそも、なぜレシートに「宝くじ」を付ける、という発想が生まれたのでしょうか。その答えが「脱税防止」だということはけっこう知られているのですが、どうしてでしょう?

 お店やレストランが脱税をするのに最も手っ取り早い方法は、売上げをちょろまかすこと。簡単に言えば、実際に売れた金額をカウントしなければ、そのぶん帳簿上の売上金額が減り、課税率が下がるので、結果的に税金の支払を逃れられるというわけです。
 では、このちょろまかしを防ぐためにはどうすればよいか。つまり、お客さんが物を買ったり、レストランで支払いをした際に「必ずレシートを欲しがる仕組み」を作ればよいというわけです。レシートに「宝くじ」の番号が付いているおかげで、たとえ10元の新聞の購入でも、お客さんは必ずレシートを要求します。これによって、売上は自ずと漏れなくレジに打ち込まれることになるというわけです。

 手間を掛けずに脱税を防げ、庶民はささやかながらも宝くじ気分が味わえるという、なんともスマートな方法ですが、当選金額はなかなかのもの。特等は1千万元(日本円で約3千万元弱)、当選金額が一番低いのは200元(約600円弱)ですが、こちらは下4桁の番号で当選が決まるので、250本に1本は当たる計算。旅行者でも当選金が受け取れるので(高額当選の場合は要確認)、台湾でのレシートは捨てないようにしましょう。もし不要な場合は、空港や街角にある寄付箱に入れることをオススメします。ボランティア団体がチェックし、当選金は慈善活動などに使われるということです。
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by ritouki | 2012-10-02 21:47 | イベント