台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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※東北大震災のため、3月12日から予定していた桜植樹の訪台ツアーは中止となりました。

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 産経新聞には、各国の特派員が不定期にエッセイを寄せる欄があって「台湾有情」をはじめ「ガンジスのほとりで」、「ソウルからヨボセヨ」、「ポトマック通信」、「赤の広場で」、「北京春秋」など、読者心をくすぐるタイトルがつけられています。
 今朝の紙面では、台北の山本勲支局長が台湾の桜事情に触れ、日本から台湾への桜寄贈は本会が「本家」と紹介して下さっています。
 本会が台湾へ寄贈するのは、台湾の気候に適しているとされる「河津桜」。今年ですでに4000本近くが台湾各地に植えられています。
 先日、本会主催ツアーの一環として訪れた新竹市立動物園では、数年前に植樹した桜が、枝はまだ小ぶりなものの見事な花を咲かせていました。
 仄聞するところ、李登輝元総統も桜をこよなく愛されているとか。ともあれ、日本から台湾へ送られた桜が、日台交流の象徴として人々の目を楽しませてくれることを祈ります。
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by ritouki | 2011-03-07 06:53 | イベント

澎湖島へ 4日目 

 3日間、たっぷり堪能した澎湖とも今日でお別れ、、、などと悠長なことは言っていられません。
 午前8時50分、馬公空港発の便で澎湖を離れるため、朝もはよから帰り支度でバタバタです。宿泊した長春ホテルは、スタッフの方々が色々と心遣いしてくれ、快適に過ごせました。これから李登輝学校をはじめ、ちょくちょくお世話になると思いますのでどうぞよろしく。

 ホテルから空港までは、前もってフロントに伝えておけばホテルの車で送ってもらうことが出来ます。この時期はほとんど観光客がいないため、私たちの場合は貸し切り状態、出発までのんびり過ごせました。ただ、送迎希望者が増える夏場などは、他のグループの時間に合わせるために、必ずしもご自分たちの希望の時間通りにならないこともあるでしょうからご注意ください。

 オーナーの郭さん自らがハンドルを握って馬公空港まで。恐れ入ります。。。
 途中、市街地を抜ける際には、シェラトンホテル建設中の看板が。ただ、どう見ても工事が途中でストップしているような気配。尋ねてみると、漁業以外にこれといった産業のない澎湖では、観光は基幹産業。三通も解禁されたことで、中国からの観光客を当て込んだのか、中国資本が入ってきて高級ホテルを建設しようとしたり、カジノ構想があったり、と色々ときな臭い動きが進んでいるようです。

 例えば、カジノ構想について取り上げると、澎湖にカジノを設置するか否かで島の民意が二分し、2年前の2009年9月に住民投票が行われました。結果的に、反対が56.44%で、賛成の43.56%を上回り、カジノ設置構想は否決されましたが、実際の票数だけを見ると、反対17,359票vs賛成13,397票で、その差は4千票ほどしかないのです。有権者数3万人ちょっと、という母体から見れば、4千という数は小さくないかもしれませんが、結果だけをとらえると、将来この数字が逆転してもおかしくない差には感じます。

 この「カジノ設置構想」の発端は、確かに政府主導で行われたものですが、そもそもは、澎湖島を「国際観光リゾートエリア」として発展させるための構想だったわけで、今後、若年世代の流出、漁業の衰退が進み、観光だけに頼る割合が増えてきた場合、澎湖の人々のカジノに対する考え方が変わっていく可能性はあります。もちろん、私個人としてはカジノを設置することによる負の副産物のことをどうしても考えてしまいます。現地の人々の生活や経済情況を顧みず、ただ、のどかで鄙びた、自然に囲まれた澎湖のままでいて欲しい、というのは無責任かもしれません。でも、出来ることであれば、乱開発や建設ラッシュなどに見舞われず、豊かな自然が静かな環境のままで残されている澎湖の方が、私には魅力的に映ります。

 閑話休題。
 馬公空港は台北松山空港をひと回り小さくしたような空港です。
 ところで、皆さん「澎湖」と聞くと、すぐに思い出すのは↓ではありませんか?実は、このダブルハート(中国語では「雙心石滬」)があるのは澎湖本島ではなく、七美島なのです。
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 「澎湖に行けばダブルハートが見られる!」と勘違いされている方も多いのではないでしょうか?(かく言う私もそうでした)
 人間、「無い」と聞くと余計見たくなるもの。今回は天候や日程の関係で断念しましたが、ぜひ夏にはダブルハートを見に行きたいと思います。
 七美島は澎湖県に属する島、と言っても、馬公からは船で行く(所要約1時間)か、飛行機で行く(所要約15分)か。飛行機利用の場合は「徳安航空」という小さなプロペラ機を運営する航空会社の便で出掛けるとのことで、何か時刻表のようなものがないかと航空会社のカウンターを探しましたが見つからない!小さな空港内を2,3度行ったり来たりしてやっと見つけたのは、華信航空のカウンターの一角に、まるで出店のように掲げられた小さな「徳安航空」の看板。しかもまだ開いていません。恐らく、当日の便のチェックイン時にしか人が来ないのでしょう。聞くところによると、一便の定員は20名に満たないそうですから、どれほど小さいな機材で運行されているか推して知るべし、というところでしょう。

 さて、2階の出発ロビーでお土産屋さんを冷やかし、ブラブラしていると搭乗時間となりました。ロビーでチケットをもぎられ、階段で1階へと降りていきます。そして徒歩で飛行機へ。これまた小さい飛行機ですね。背もたれに入っていた「安全のしおり」によると56人乗りのようです。フライト時間はわずか30分、飛び上がったと思ったらあっという間に眼下に台南の田園地帯が見えてきました。こんな短時間でもスチュワーデスさんはドリンク配るんですね。無理しなくてもいいのに。。。
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 これまた何もない台南空港へと到着。あっというまに荷物も受け取り、高鉄駅もしくは台鉄の駅へ行くバスを探してみたものの、案内が見つからず。カウンターにいたお姉さんに聞いてみると、路線バスはあるけど「あと2時間くらい来ない」ということで、タクシーで高鉄駅へ移動することになりました。
 なぜ、台北へ帰らずわざわざ台南経由で?と思われるかもしれませんが、5月の李登輝学校では、8日に台南の烏山頭で行われる八田與一の慰霊祭へ参列し、そのまま台南空港から澎湖へと移動するのです。そのため、逆ルートではあるものの、一応下見ということで台南までやって来たわけです。

 冷たい強風が吹き付けた澎湖と異なり、台南は25度を上回る初夏のような好天。まさに台湾の南部にやって来た、という感じがして来ました。新しく開通した、高鉄台南駅と台南市内を結ぶ「台鉄沙崙支線」にも搭乗。日本時代の駅舎が残されている「保安車站」へ寄り道。田舎の駅前、という形容詞がピッタリの駅前広場の木陰では、ランニング姿のおっちゃんがまだ昼前だというのにビールを飲みながら中国将棋。なんとものどかな風景です。
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 そして、台鉄に揺られること20分ほど。もうここは高雄です。せっかく南へ来たのだから、と「橋仔頭製糖工場」の跡地を下見。三井財閥創設の台湾製糖株式会社が1901年に開いたこちらの工場では、1910年から本格的に砂糖の生産を開始。第二次大戦後もその役割は変わりませんでしたが、国内産の砂糖は次第に輸入品にその座を奪われ、それに伴う生産コスト上昇により、1999年でその役割を終えました。
 現在では、工場の敷地内は整備され、テーマパークとして市民に開放されており、ところどころで結婚写真を撮影している光景にも出くわしました。背の高い椰子の木が整然と並ぶ小道は、台湾大学を彷彿とさせます。
 工場内も自由に見学出来ますが、残念ながら砂糖生産過程の説明が多少ある程度。大人数ならガイドさんの手配もしてくれるようですが、工場内部についてはもう少し整備が必要なようです。
 日本時代から使われていた社屋も、現在では展示館として再利用されています(↓3枚目の写真)。この建物、どこかと酷似していると思いませんか?台北の二二八紀念公園にある「二二八紀念館(日本時代はNHK台北支局)」とそっくりですね。
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 とにもかくにも、これにて下見は終了。時間も迫って来たので、これから新左営へ移動し、高鉄で台北へと戻ります。
 製糖工場の敷地内から駅へ向かう途中、ふと遠くに黄色い絨毯を敷き詰めたような風景が。先日、フリーライターの片倉佳史さんにお目に掛かった際、「玉里(花蓮県)の菜の花畑がキレイだった」と伺っていたので、「もしや菜の花畑では?」と思い、近づいてみると、なんと3月だというのに満開のヒマワリ畑。ここではもう一足先に夏が来てしまったようです。
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by ritouki | 2011-03-05 19:15 | イベント

澎湖島へ 3日目 その5

 林麟祥さんと別れ、下見を残している馬公市西側の海岸近くへ出掛けます。明日は朝一番のフライトで台湾本島へ戻るので、実質最後の下見です。
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 まずは「第一賓館」です。日本時代の昭和18年(1943年)に完成し、皇族方や高級軍人、高官の招待所として使用されました(昭和17年完成、と記載されているパンフレットもあり)。設計は澎湖庁総務課に勤務していた建築技師の末安猛によるもの。当時の大田政作・澎湖庁長の指揮の下、昭和15年(1940年)から工事が始められました。現在では澎湖県指定の古跡となっています。
 それまでは市内中心部にあった「松島公園」に隣接する貴賓館が皇族方の招待所として使われて来ましたが、周囲の環境が喧騒すぎるため、招待所にそぐわないとして建設が進められたものです。

 結果的に、日本時代の招待所としては、敗戦までの2,3年しか使われませんでしたが、昭和24年(1949年)に、蒋介石が初めて澎湖視察にやって来た際、指揮所として使われたのがきっかけで、その後は蒋介石が澎湖を訪問した際の滞在場所となりました。

 澎湖県庁発行のパンフレットによれば、1958年に勃発した金門島を中心とする国民党と共産党の戦闘(いわゆる「八二三砲戦」)の期間中、蒋介石と蒋経国はこの第一賓館へ籠り、前線の指揮をしたとか。
 館内には現在も、当時の作戦立案に使われた資料をはじめ、歴史的、軍事的意義の高い品物が残されているそうです。また、李登輝総統も澎湖視察に訪れた際には、この第一賓館に滞在しています。

 訪れた第一賓館の広い庭はキレイに整備され、ガジュマルの木立が迎えてくれました。ただ、残念ながら扉は閉まっていて中に入れず。案内もないので、一般公開されているのか否かさえ不明でしたが、散歩で通りかかった地元の方に尋ねてみると、改築工事のため、現在は閉鎖中だとか。

 建物は和様折衷で、室内の床は高床式。周囲を廊下が走り、中央に客間があります。また、厨房、洗面所などは周りに配置されているそうです。
 外壁は「咾咕石」と呼ばれる、城壁によく用いられる石が使われており、屋内は木造建築です。屋根には黒瓦が葺かれていますが、建築から60年以上が経過していることや、澎湖の厳しい気候に晒されていることから、近年ではたびたび改築工事が行われているようです。

 庭には「民族救星」のプレートが付いた蒋介石の像がありました。「羊頭狗肉」です。
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 引き続き、海岸そばの古刹「観音亭」へと向かいます。
 観音亭は清朝時代の1696年(康熙35年)、遊撃薛奎によって創建された仏教寺院です。パンフレットによると、祀られているのは、「南海観音菩薩」だそうです。
 日本時代に澎湖庁が発行した『澎湖事情』(昭和11年/台湾大学図書館所蔵)にも記載があり、「(前略)廟内に古代の十八羅漢及び鐘鼓等があったが、清佛戦役の際、佛兵の掠奪さる所と為ったといふ(後略)」とされ、日本時代に入った昭和2年(1927年)に工費2万円を投じて大改修が行われました。改修後、観音亭付近は「馬公第二公園」と呼ばれていました。

 廟には細かな装飾がほどこされています。その精緻さは見事なほど。庭からは「レインボーブリッジ」を見渡すことができ、夜にはライトアップもされます。
 4月に入ると、週に数度、ここで花火も打ち上げられるそうで、5月の李登輝学校が楽しみです。宿泊予定の長春飯店からは徒歩で10分ほどの距離です。
 また、天気が良ければ対岸にある西嶼島を望め、清朝時代の「台湾八景」に謳われた「西嶼落霞」を愛でることが出来ます。
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 この観音亭が面する澎湖湾は、その昔、媽宮城を囲んだ北門の外にあります。
 もともと、清朝が置いた澎湖島庁は「暗澳郷(現在の馬公市文澳=市の東部)」にあったものを、1885年(光緒11年)に清仏戦争において、仏軍に占領された苦い経験から、澎湖島庁を媽宮(当時の地名、後の馬公)に移すと同時に、築城するべき、との意見が巻き起こりました。そのため、1887年12月(光緒13年)から築城を開始、2年後の1889年10月(光緒13年)に媽宮城が完成し、澎湖島庁が移転します。
 城壁には、東西南北に加え、小西、小南の計6門が設けられ、東西南北それぞれに以下の通り、名称が与えられました。「東門=朝陽門」、大西門、「小西門=順承門」、「南門=迎薰門」、「北門=拱振門」、「小南門=即叙門」です。

 台北にも清朝時代、台北城があり、日本時代初期にはまだその城壁が残されていました。その後の開発で城壁は取り壊されましたが、現在も「北門」や「小南門」は残されていますし、「小南門」はMRTの駅名にまでなっています。また、西門町、東門市場などの名称はすべてこの城壁の名残りと言えます。
 さらに、台北で生まれ育った日本語族の方にお話を伺っていると、当時はもちろん、現在でも城壁で囲まれていた地域のことを「城内」と呼んでいます。また、新光三越そばにある兆豊銀行の支店名は「城中分行」。こんなところにも台北城の名残が残されています。
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 閑話休題、日清戦争の折り、日本軍は澎湖に上陸すると、わずか3日で媽宮城の占領に成功しました。
 台湾が日本の統治下にはいると、澎湖庁政府は港湾機能強化と、馬公市街の拡充のため、明治40年(1907年)から媽宮城の撤去を開始。
 現在では残されているのはこの「順承門」とその付近の城壁のみです。
 また、「順承門」そばの地域は日本時代、「金亀頭」と呼ばれ、水交社(海軍将校の親睦団体)が置かれていました。資料が見つからないため、ここからはあくまでも推測ですが、日本時代、この付近には軍人やその家族が多く暮らしていたのではないでしょうか。
 そして日本が敗戦によって台湾および澎湖を放棄して去ると、ここに住み着いたのは外省人が住みついて「眷村」となりました。
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 台北でも、総督府に勤務していた役人や台北帝国大学の教師たちの官舎が、戦後、外省人の住まいになったのと同様です。
 この場所を、バイクで走っても人に会うことはなく、誰も住んでいないようにも見受けられます。また、一角は改修されて文化スペースとして再利用しようとする動きがみられるなど、台湾本島に限らず、澎湖でも「眷村」は過去の遺物となりつつあるようです(後に、林麟祥さんに聞くと、再開発のため、県政府が外省人連中に金をやり、新築の高級マンションへ引っ越させたのだとか)。

 戦後、国民党が一党独裁のために用いた「白色恐怖」の嵐は、台湾本島と比べると、澎湖ではそれほどでもなかったようです。というのも、黄天麟先生や林麟祥さん曰く、インテリ層や民衆のリーダーとなるような指導者層はみな台湾本島へ行ってしまい、むしろ台湾本島でやられた人の方が多かったとか。
 次回、天麟先生や林さんに再会した際にもっと詳しいお話しを伺いたいと思います。

 とにかく今回の下見はこれで終わり。夜は初日にもお邪魔した「長進餐廳」で再びウニの卵焼きやら新鮮な海鮮を堪能。明日は台南経由で帰ります。
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by ritouki | 2011-03-04 23:12 | イベント

澎湖島へ 3日目 その4

 これでようやく馬公市内から離れた場所にあるスポットの下見は無事に終了しました。残るは馬公市内の下見のみです。
 市内へ戻って来てからランチを済ませ、黄天麟先生の自宅へ戻ると朗報が待っていました。日本時代の澎湖で生まれ育った日本人(湾生)と台湾人の親睦団体である「日本台湾馬公会」の特別顧問を務める林麟祥さんと連絡がつき、間もなくこちらへ来て色々なお話しを伺えることになったそうです。
 天麟先生はご自身が中学卒業までしか澎湖島にいなかったので、少年時代の記憶しかなく、もっと詳しい説明が出来る人を、ということでわざわざ連絡をとって下さったのです。
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 午後2時過ぎ、颯爽とやって来た林さんは挨拶もそこそこに色々な資料を取り出して説明を始めます。
 林さんは長らく澎湖県庁に勤め、主計畑を歩かれたとか。そして、何よりも驚かされるのはその日本語。言うまでもなく台湾の日本語族には、私たち日本人よりも美しい日本語を話す方々がたくさんいますが、日本人観光客もあまり訪れないこの澎湖で、林さんのちょっとべらんめえ調の江戸弁が維持されていたのは驚きです。さらに、林さんは頭脳明晰、博覧強記。リタイヤされた今では郷土史編纂の監修もされているそうで、何か質問をすると即座に年号や地名が飛び出してきます。

 午前中、下見に出掛けた風櫃の話に触れると、「あぁ、あそこには3つの碑が建ってたでしょ?手前から軍艦松島、真ん中がフランス、一番奥がオランダ。何年か前に松島沈没のことを取材に、日本からスポーツニッポンの記者が来た時も、私が案内したんだ」と、記憶もバッチリです。

 また、昨日、馬公市内にあった「澎湖神社」や「千人塚」の痕跡を探しに行ったけど見つけられなかった、という話をすると、「確かにもう跡は残ってないね。だけど、石碑だけは書き換えられちゃったけど、通り沿いにまだ残っているよ」との答え。
 数多くのHPや台湾で販売されているガイドブック、地元観光局が発行するパンフレットなど、下調べをしても見つからなかったその痕跡が残されている、というのです。「じゃあ後で”澎湖開拓館”を見に行くついでに行きましょう」とのことで、案内していただくことに。

 天麟先生ご夫妻と林さんも、再会は久しぶりだったようで話は弾み、あっという間にご夫妻が台北へ帰る飛行機の時間が来てしまいました。二晩お世話になった天麟先生のお宅ともお別れ。私たちはホテルの下見を兼ねてもう一泊、馬公市内に滞在します。

 ご夫妻を見送ると、早速、林さんのバイクの後ろをくっついて「澎湖開拓館」へと向かいます。ところがところが、残念なことに着いてみると澎湖開拓館は改装のため、来月まで閉館中。風が強く、ほとんど観光客が訪れる見込みのない今の季節に改装やリニューアルをすることはよくあるそうです。

 そこで林さんの発案でこれも市内中心部にある「澎湖生活博物館」を見学することにしました。閉館時刻が迫っているので林さんと一緒に駆け足で館内を廻ります。定年後はラジオ局の総経理も歴任されたという林さん、朝は6時ごろから近くの小学校の校庭で運動しているので足取りも元気です。
 館内の展示では、やはり海と共に生きる澎湖の人々の風俗や生活、文化などが紹介されています。このミニチュアの船は、お祭りの際に御神輿のように使われ、本来ならばお祭りが終わると焼いて奉納されるそうです。
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 また日本時代の澎湖に暮らす人々の生活に密着したものも多く展示されており、こちらも李登輝学校本番の際には見学を欠かせないスポットになりそうです。
 1階に展示された馬公のジオラマは、3階から撮影しないと入りきらないくらい巨大なもの。人と比べるとその大きさが分かるでしょう。鳥の目から見た馬公を見ることが出来ます。
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 さて、澎湖生活博物館を後にして、いよいよ澎湖神社の石碑というものを見に行くことにします。博物館の前の通り「新生路」を馬公市内中心部側である北西へ100メートルほど。「中正公園運動場」のスタンド部分と新生路が接する、僅かばかり設けられた林の中に、その碑はひっそりと建っていました。
 思い出してみると、この碑が建つ場所の前をバイクで何度も往復していたくせに、全く気付きませんでした。ただ、この場所は、知っている人でなければ見つけられないだろう、というくらいひっそりとした場所なのです(地図の赤丸部分)。
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 林さんに案内してもらった石碑は、例に漏れず、国民党によって表面の碑文が削り取られ、「澎湖縣忠烈祠」と書き換えられていました。裏側も同様で「中華民国三十六年十二月 縣長 徐升平 立」と文字が刻まれています。

 台北在住のフリーライター、片倉佳史さんによれば、こうした日本時代の石碑を流用したり、中途半端に破壊して残しておく手口は国民党がよく用いる方法で、これによって「新しい統治者は誰か」ということを民衆に知らしめるのが目的だそうです。そのため、日本時代の史跡が完全に破壊されず、中途半端にその名残を留めているという皮肉な結果にも繋がるとか。

 パンフレットによれば、澎湖県忠烈祠は戦後の1947年12月31日、澎湖神社を改修するかたちで建てられました。その後、この場所は港に近く、強風が吹き付けるため、潮風の浸食を受けて建物が損傷を受けたため、1981年に忠烈祠が別の場所へ移転されると、この地にあった建物や碑はすべて取り払われてしまいました。
 確かに(『澎湖事情』澎湖庁発行/昭和11年/台湾大学図書館所蔵)にある澎湖神社の説明には「境内は馬公灣頭の高丘上、廣濶なる地域を占め、碧灣を俯瞰し眺望絶佳である」と述べられており、その分、澎湖特有の強風をまともに受けることになったのでしょう。結果的に、この碑のみが澎湖神社の姿を今に伝える唯一のものとして残っています。

 澎湖神社の御祭神に大國魂命、大己貴命、少彦名命、北白川能久親王を祀り、境内には別に琴平社がありました。神社の建立は、昭和天皇ご即位大礼を記念し、昭和3年2月11日の紀元節を選んで地鎮祭が行われ、同年9月29日には棟上式、11月8日に遷座祭が行われ、澎湖の「総鎮護」として市民から親しまれたそうです。
 下の2枚の写真は『走過從前』(澎湖県立文化中心/1994年/台湾大学図書館所蔵/P.95)に掲載されているものです。上は日本時代のもの、石灯籠が整然と並ぶ参道は見事です。下は国民党により、建築物のほとんどが取り払われてしまった後のもの。神社本殿が忠烈祠となり、鳥居は中国式の「拝楼」と呼ばれるものに流用されてしまっている様子がわかります。
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 また、澎湖神社に隣接して「千人塚」がありました。日清戦争で澎湖島上陸の際、戦死病歿した比志島混成枝隊の軍人軍属972名を、明治28年(1985年)6月25日に合葬した場所で、正式には「澎湖島陸軍墓地」と呼ばれました。丘の上に立つ墓碑には「混成枝隊陸軍々人軍屬合葬之墓」と記されていました。
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by ritouki | 2011-03-04 21:45 | イベント

澎湖島へ 3日目 その3

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 「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」の隣りには、これもまたきちんと整備された台座に、どこか西洋風の碑が建てられています。こちらの碑は日本時代から「萬人塚」と呼ばれ、1885年の清仏戦争の際、澎湖で命を落としたフランス軍兵士を慰霊するために建立されたものです。

 1910年(明治43年)、井田麟鹿が著した『澎湖風土記』(台湾大学図書館所蔵)の「遺蹟」の項には次のような説明がされています。
 「萬人塚 風櫃尾蛇頭の北海岸にあり、光諸11年、仏軍の此島に占據せし時、士卒疫死する者多く、遺骸を此に瘞め、方尖形の碑を建て、孤魂寄る所を得せしむ。今、人呼て萬人塚と云ふ」。
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 台湾本島と澎湖島を実質支配していた、鄭成功の孫である鄭克塽らは、1684年、清朝によって追い払われ、台湾が清朝の版図に加えられました。そのため、1884年に勃発した清仏戦争のとばっちりを受けることにもなります。翌年、クールベ提督率いる軍艦5艘を擁したフランス海軍は台湾本島の占領を試みて上陸を図りますが、清朝軍の前にあえなく撃退。仕方がないので、中国大陸と台湾本島の間に位置する澎湖に目をつけて攻め込みます。
 戦いは2,3日で終わり、フランス軍はここ風櫃から澎湖上陸および占領に成功。クールベ提督は1500名の兵士に軍港建設を命じます。ところが、マラリアや赤痢の蔓延により、兵士997名が病死。さらにクールベ提督まで病に犯され、媽宮港(名称は当時)に停泊中の軍艦バヤール号上で命を落としてしまいます。

 翌年、兵士の亡骸はこの風櫃の地に葬られ、この慰霊碑が建立されたのです。碑の隣りには、「紀念1885年於澎湖馬公的殉職法國海軍將士們!(1885年、澎湖馬公で殉職された兵士たちを記念する)」と書かれたプレートも置かれています。どうやら、元々の石碑に刻まれている文字が、長年の風化で判別しにくくなっているため、同じ文言を刻んだプレートを置いたようです。
 『走過從前』(澎湖県文化中心/1994年/台湾大学図書館所蔵)では、日本時代の碑の姿を偲ぶことが出来ます(↓のモノクロ写真)。
 さらに澎湖県文化局が発行した『歴史建築影像』(2002年/台湾大学図書館所蔵)では、1984年頃の、付近がまだ整備される前の碑の写真を見ることが出来ます(↓のカラー写真)。
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 また、クールベ提督の亡骸は、ルイージュエン中尉およびルィーデルト主計官とともに、現在の馬公市内に葬られ、3つの墓が建てられました。さらに、士官クラスの軍人の軍服や遺髪も同時に埋葬されたそうです。これらの墓と萬人塚はフランス本国からの送金によってその祭祀維持がなされていましたが、昭和3年(1928年)12月30日、台湾総督府の管理下へ移管されました(『澎湖事情』澎湖庁発行/昭和11年/台湾大学図書館所蔵より)。
 1964年、フランスが台湾と断交すると、すべての埋葬物や遺体は掘り出されて本国へと送還されました。また、墓碑も取り払われてしまい、現在では、クールベ提督の墓碑の台座部分のみが、その痕跡を留めており、この地に散ったフランス海軍兵士たちの歴史を今に伝えています。
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 さぁ、かなり充実した風櫃エリアの下見ですが、残るはオランダの足跡のみです。
 こんな小さなエリアにもかかわらず、オランダ、フランス、日本が歩んだ歴史が残されています。澎湖は、中国大陸と台湾本島の間に位置しており、台湾海峡を航行する船にとっては重要な補給地だったようです。そのため、列強各国はいち早く澎湖に着目しており、そのためにこの小さな澎湖島が大きな歴史の舞台になったのでしょう。
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 フランス軍上陸のエピソードと前後してしまいますが、この澎湖島に最初に目をつけたのは、バタビア(インドネシアの首都ジャカルタのこと)に本拠地を置いていた東インド会社でした。
 1622年、オランダは艦隊を派遣し、澎湖島を占領、要塞を建設しました。これが澎湖における最初の西洋式要塞とされています。ただ、現在は要塞の跡は見当たらず、わずかに看板に当時の要塞のようすが示され、プレートなどで説明がなされているに過ぎません。

 というのも、オランダ人が澎湖へ上陸した際、当時、澎湖を支配していた明朝はオランダ側に台湾本島を譲る代わりに澎湖からの撤退を要求。これを聞き入れないオランダと明朝の間で戦端が開かれました。結局、2年後の1624年、劣勢だったオランダ側は明朝側の要求を聞き入れて澎湖から撤退、台湾本島へと移りました。その際、台南に同様の西洋式要塞を建設するため、澎湖にあった要塞の資材をすべて移送したともいわれています。また、土台の部分は地下に眠っており、一見しただけでは分からないという情報も。
 
 「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」やフランス軍の萬人塚から少し高台に上がったところにある、こちらのオランダ要塞跡ですが、歩道や案内版の整備が進めば、さらに詳しく当時の状況を学べることになるでしょう。
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by ritouki | 2011-03-04 20:21 | イベント

澎湖島へ 3日目 その2

 「風櫃」が半島の南端なら、次なる目的地「蛇頭山」は北端にあたります。馬公から向かっていくと、風櫃の少し手前を右に入っていきます。その先の漁港を過ぎ、少し上り坂の道を進み始めるとそこはもう蛇頭山。横から見ると蛇の頭のように見えることからの命名だそうです。蛇年のくせに蛇が大嫌いなため、蛇の頭なんて名前を聞くだけでおぞましい・・・。ちょっとした山道をしばらく走ると、急に目の前が開けて海が見えてきました。右手には一般人にはなかなか入ることが出来ない軍港、正面には馬公市の街並みが望めます。
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 そして、人気のない寂しい細道を抜けてきたにもかかわらず、目の前には似つかわしくないほど立派に整地され、整備された碑の姿が飛び込んで来たのです。
 一番手前にある記念碑は「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」です。離れて見ると、碑の周囲が船を象っていることが分かります。この碑はもともと日本時代の1910年(明治43年)、この地に建てられました。歴史的経緯が複雑なので、整理して順次説明したいと思います。
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 まずは「軍艦松島」について。
 2004年、台湾史研究で著名な中央研究院の許雪姫女史が中心となって編纂され、行政院文化建設委員会が発行した『台湾歴史辞典』(遠流出版)の記述を引用してみます(原文は中国語)。
 「軍艦松島は、1890年に建造され、日清戦争では主力艦として活躍。排水量は4,278トン、主砲は32口径のキャノン砲。
 日清戦争では黄海海戦に投入され、連合艦隊の旗艦として活躍。その後、基隆、澎湖島、東港などにおいて、台湾平定のため、陸軍部隊の作戦行動を支援。
 1905年、日露戦争勃発後は「三笠」などの最新鋭艦とともに戦闘に投入されて勝利に貢献。
 1907年、艦の老朽化により松島は練習艦隊に編入され、翌年、姉妹艦の「橋立」、「厳島」とともに海軍兵学校第35期生の東南アジア卒業訓練遠洋航海に使われる。サイゴン、シンガポール、コロンボ、バタビア、マニラを経由し、帰途、澎湖島馬公港へ寄港。
 1908年4月30日夜半、蛇頭山北部の海域に停泊中、不意に火薬庫が爆発し、松島は沈没。艦長以下、多くの官兵が死亡、負傷した。
 この惨事により、1911年10月9日、馬公において砲管をかたちどった「松島艦遭難記念碑」が建立されている」。

 続いて、この軍艦松島の爆発事故とはどういったものでしょうか。
 1936年(昭和11年)に澎湖庁が発行した『澎湖事情』の「名所舊蹟」で、爆発事故について詳しく説明されています(原文はカナまじり文ですが、読みやすいように直しました)。
 「明治41年4月30日午前4時8分、帝国軍艦松島は馬公港碇泊中艦内の火薬庫爆発し、空しく港底に沈没した。事急にして施すに術なく乗組員460余名中難に死する者、実に223名に及び、候補生はその大半を失った。
 松島艦は(中略)前年12月25日横須賀を抜錨し、南洋各地を巡航すること90余日、鵬程9,580余里を蹴破し、帰朝の途次、此の地に於て奇禍に遭ったのである。依て此の悲しむべき出来事を記念すべく、全国より寄附金を募集して約18,000圓を得、明治44年、同艦28珊砲身を模擬して碑を鋳造建設し、以て記念したものである。碑銘は海軍大将、伊東祐亨の揮毫である(後略)」。

 上記2つの説明で言及されている「記念碑」とは、この蛇頭山にある慰霊碑を指すのではなく、こちらの慰霊碑建立の翌1911年(明治44年)、馬公市内の第一漁港向かい側に建立された「松島公園」内の記念碑を指しています。ここ蛇頭山は、殉職者をまとめて合葬した地であるため、この慰霊碑が建立されているのです。
 
 4月30日の爆発事故発生を受け、5月8日には馬公要港部が松島艦罹難者追悼会を挙行。5月22日には、水交社(現在の金亀頭付近)において、松島艦殉難官兵の葬儀が執り行われ、東郷平八郎大将、片岡七朗中将らが出席。7月31日、松島艦は正式に帝国海軍から除籍されています。

 戦後、台湾が日本の統治から離れると、蛇頭山の慰霊碑も放置されていましたが、澎湖の事情をよく知る林麟祥さんによれば、十数年前、行政院文化建設委員会の調査により、この慰霊碑の歴史的意義が認められたこと、公園として整備することで観光地にすることが可能であることなどから交通部直轄の観光協会から予算が出され、一帯が整備されたそうです。後記しますが、周辺にはフランス軍の慰霊碑やオランダ軍の城館跡もあり、確かに歴史的価値は高そうです。
 慰霊碑の台座部分はこの整備の際に新しく作られたものですが、上部の碑は日本時代のものを使っているといいます。
 春霞のためかはっきり見えませんが、対岸の軍施設内の港には艦が停泊しているのが望めます。
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 この松島の爆発事故原因に関して、澎湖の人々にまことしやかに語り継がれている噂があります。
 「日本政府は事故原因について長年調査を進め、ついにその犯人を突き止めた。犯人は松島の機関長を務めていた人物で、父親は中国人(東北部出身)、母親は日本人の子供として日本で生まれた。父親は、日本に反抗したため、関東軍によって処刑された。機関長は父親の仇を討つため、海軍で奉公する自分の立場を利用し、戦艦を爆破する機会を伺っていた」というものです。
 ただ、この噂については資料がなく、「爆発事故の原因は不明」というのが公式見解のようです。

 それでは、この蛇頭山の軍艦松島慰霊碑とは別に、馬公市内にあった松島慰霊碑について説明したいと思います。戦後、松島公園のあった一帯は住宅地として整備されたため、現在ではその跡は一切残されていません。
 蛇頭山の慰霊碑建立の翌1911年(明治44年)、海軍中将・伊地知彦次郎ら6名が発起人となり、当時の「澎湖公園」内に松島の28珊砲の砲身を利用して鋳造した慰霊碑が建立され、そばに2つのスクリューが置かれました。松島の主砲をかたどった慰霊碑は「忠魂碑」とも呼ばれ、この場所で毎年、海軍主催による慰霊祭が挙行されていたそうです。
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 また、隣接して「松島記念館」も建設され、皇族方の接待所としても使われていました。慰霊碑建設基金の余財を利用して建設されたそうです。グラウンドや音楽堂、劇場の「馬公会館」も併設されており、後に「松島公園」と呼ばれるようになりました。さらに、碑の隣りにはミニゴルフ場も作られ、海軍の軍人専用で使われていました。

 ただ、松島記念館付近は市の中心部だったことでやや喧騒であり、皇族方の休憩所としては不適切なことから、後の1943年(昭和18年)、馬公市西部の海をのぞむ観音亭付近に建設された「第一賓館」にその役割を取って代わられました。第一賓館は今日の夕方、下見予定です。
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 澎湖県観光局が発行したパンフレットによれば、1913年(大正2年)、時の媽宮区長であった陳柱卿氏が沈んだ松島艦を引き揚げています。陳柱卿氏は日本時代に発行された『台湾人士紳図文鑑』(いわゆる紳士録のこと)にも掲載されており、漢文(中国語のこと)と日本語に精通、媽宮区長や信用組合の理事、神社改築委員長などの公職を務めましたが、本職は薬種問屋、雑貨商を経営し、澎湖海産株式会社の取締役だったようです。

 主砲を模した慰霊碑ですが、海中から松島艦の主砲だけを先に引き上げ、慰霊碑として建立したという説明(『澎湖事情』澎湖庁/昭和4年/台湾大学図書館所蔵)や、新たに主砲のレプリカを鋳造して慰霊碑として建立(澎湖県庁発行のパンフレット)のように、いくつかの情報が錯綜していることを付記しておきます。

 慰霊碑や、大人の背丈3人分もあったスクリューですが、前出の林麟祥さんによれば、敗戦間近に金属供出のため日本内地へ送られてしまいました(これについて、終戦後に日本人によって内地へ持ち帰られた、とか、解体されて港へ捨てられた、という噂があります)。

 残された台座などですが、資料によれば、1952年、馬公市街地の区画整理のため、松島公園跡地は整地されたことで、一切が取り払われてしまいました。当時の絵葉書で、わずかに碑の雄姿を見ることができるのみです。
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by ritouki | 2011-03-04 19:17 | イベント

澎湖島へ 3日目 その1

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 昨日の下見でちょっと疲れ気味だったため、今朝は8時起床とゆっくりめのスタート。昨日の朝食べたお店が思いのほか美味しく、再び散歩がてら朝食店へ。今日はちょっと時間が遅かったので、出勤途中に朝食を買い求める長蛇の列に遭遇です。

 朝食後はまた天麟先生ご夫妻と市内をぐるぐる散歩。プラハが「百塔の街」と形容されるなら、澎湖はまさに「百廟の街」。島内いたるところに廟が設けられており、天麟先生の奥様によると、澎湖の人々の間では、「あなたはどこの生まれ?」と聞かれたら、廟の名前で答えるのだとか。すると相手も廟の名前を聞けば、大体どこら辺かが分かるといいます。

 廟に祀られているのは、漁業や航海の守り神である媽祖が多いそうですが、全てではないそう。一説には、数百年前、現在の中国大陸福建省南部から船で澎湖や台湾への移住を目指した人々が、無事に到着したことを感謝して媽祖様を祀ったのだそうです。もちろん、一年中強風が吹き付ける澎湖では農業での収入確保はあまり望めないため、人々は、海を生活の糧を得る場所に選んできました。そうした際に、海での安全祈願や豊漁を祈って媽祖様を信仰するのは至極当然といえるでしょう。

 港のそばに鎮座する「天后宮」は台湾最古の廟です。初日の夜、廟はすでに戸じまりされていましたので、今朝は中を見学してみました。台湾の廟というと、赤や黄色の派手な装飾が特徴ですが、古色蒼然の内部は、むしろ木材の色をそのまま生かしたような細工で、他の廟とは趣がちょっと違います。また、2階部分もあり、以前は上ることが出来たそうですが、現在は修復作業が進行中のため上ることが出来ません。
 
 ここで、壁面に埋め込まれた石板を指差す天麟先生。彫られた名前の中に「黄廼勲」という名前が見えますか?この方が天麟先生のお父上です。澎湖生まれの澎湖育ちだったお父上は、澎湖庁の役人として澎湖でその生涯を終えました。天麟先生ご自身は少年時代に澎湖を離れて台南へ。台大卒業後は米国へも留学し、現在は台北在住ですが、やはり魂は澎湖人。故郷が、自分のルーツがこうして残っているのは素晴らしいことです。
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 朝の散歩を終え、今日の下見へ出発します。今日は馬公近郊の下見。
 まずは馬公から見ると南の「風櫃濤聲」へ向かいます。馬公の南部はアルファベットの「E」を左右に引っ繰り返したような形になっています。「風櫃濤聲」は「E」の一番下の横棒の先端にありますので、近郊とはいっても、市内からだと17キロほどの距離です(下の地図の赤丸のところ)。2日目なのでバイクにも慣れ、ビュンビュン飛ばしますが、やっぱり風が強い!時折り吹く横からの突風にはハンドルをとられそうになります。だんだん地形も細くなってくるので、両脇に砂浜が見え隠れするようになって来ました。
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 そして、やっとこ「風櫃濤聲」へ到着。今の時期は観光客が非常に少ない時期ですが、ここには先客がいました。海岸に、まるで溶岩が固まったかのような岩場が出現しています。浅間山のふもとの「鬼押出し園」に来たみたいです。
 「風櫃濤聲」の風櫃とは、「ふいご」のこと。鍛冶場で火をおこす際に空気を送り込むための道具です。この岩場では、強い突風が吹くと、風が狭い岩場の間を吹き抜けるために、ブォーッという反響音が聞こえますが、それがまるでふいごの音のように聞こえたことからこの名がついたそうです。また、同時に風で吹き上げられた海水の水柱も見ることができます。

 ひとしきり「風櫃濤聲」を確認して下見は完了。隣りの砂浜でサンゴを拾ってから再びバイクにまたがります。
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by ritouki | 2011-03-04 18:36 | イベント

澎湖島へ 2日目 その4

 さぁ、これでやっと本日の下見が終了しました。
 澎湖は雨が少ないそうですが、この季節は風が強くて寒いため、早めに遠いスポットの下見を済ませてしまい、明日は馬公市近郊の下見をする予定です。
 ガス欠になるのでは、と恐れおののいていましたが、幸いにもガソリンスタンドにたどり着くことが出来、無事に市内に戻ってきました。時計を見るとまだ5時前。空も明るいし、このまま帰るには、ちょっと早すぎます。そこで、ちょうど市内中心部にあったと思われるものの、現在ではどうなってるか定かでなく、資料もほとんどない「千人塚」を探しに行くことにしました。

 「千人塚」とは「澎湖島陸軍墓地」の俗称で、1985年(明治28年)、澎湖占領の際に戦没した軍人軍属を葬った墓所のことです。
 『澎湖島大観』(井原伊三太郎/著 昭和7年発行)によれば、1985年(明治28年)2月の戦闘で戦死病歿した枝隊の軍人軍属は972名、白砲中隊126名、台湾守備歩兵第17聯隊第一中隊150名の合計1,248名でした。そのうち、混成枝隊所属の軍人軍属を、戦争終結間もない6月から段階的にこの地に埋葬し、丘の上に立つ墓碑には「混成枝隊陸軍々人軍屬合葬之墓」と記されていたそうです。

 「千人塚」があったのは、現在の馬公国民中学(中学校)のあたりと聞いていましたが、敷地が広大で、どの辺なのかよく分かりません。天麟先生をはじめ、何人かの方に場所を伺いましたが、「馬公国中のところだ」とか「いや、中学校の道を挟んだ東側だ」と幾つかの証言があって、確定できません。出来れば、何かしら当時の痕跡が見つけられれば、と思っていましたが、これだけ広大すぎると雲をつかむような話です。

 その時、ふと思いつきました。「日本時代の地図を見れば、どこが千人塚か一発で分かるのでは??」。そして、地図がある場所といえば図書館です。ふと目に飛び込んで来たのは図書館の看板。なんとバイクを停めてウロウロしていたのが、図書館の駐車場だったのです。何たる偶然、意気揚々と図書館へ。ただ、あいにく図書館は間もなく落成する新図書館への引越準備作業中で閉館中。それでもめげずに、中にいた司書の方に「馬公の日本時代の地図を見せてもらえませんか」と尋ねてみます。
 すると意外にも、「この図書館には日本時代の地図はありません」との答え。にべもない・・・。そこで、ダメモトで「実は日本時代にこの付近に『千人塚』があったはずなんですが、それがどこにあったか調べたいんです」と言うと、司書の崔さんが作業の手を休めて資料を出して来てくれました。澎湖生まれの崔さんによれば「千人塚があったのは、お向かいの馬公国中のところ。もう痕跡は残っていないはずですよ」とのこと。

 色々と日本時代の写真や資料を出してくれる崔さん。その中の一冊、『澎湖島大観』に千人塚の写真が掲載されていました。写真がふんだんに掲載されているこの本は、当時の澎湖の生活や名所などがたくさん納められており、非常に有用な資料に感じました。

 この翌日、天麟先生の紹介でお目に掛かった林麟祥さん(日本台湾馬公会特別顧問)にも色々とお話しを伺いましたが、その途中、「もし、日本時代の澎湖を調べるなら、文化局図書館にある『澎湖島大観』という資料を見るといいよ」と教えてくれました。「その資料なら、昨日見せてもらいました」と答えると、林さん曰く「あれは複製本だったでしょう?原本は私が図書館に貸したんだよ」。世間は狭いものです。

 日本時代、澎湖島内での写真撮影は厳しく制限されていました。というのも、澎湖が江田島、呉に続く第3の重要軍港だったからにほかなりません。にもかかわらず、『澎湖島大観』の著者、井原伊三太郎は澎湖へやって来て無許可でパチパチ撮っていたものですからたちまちしょっ引かれ、ブタ箱にぶち込まれたそうです。釈放後、改めて許可を申請し、撮影したのがこの本だとか。確かに表紙部分には「陸軍要塞司令部 海軍要港部認可」とのお墨付きが書いてあります。

 そういえば、明治43年に発行された井田麟鹿の『澎湖風土記』にも、緒言で「地形港湾等に就ては、本書猶ほ盡さざる所多し。是れ要塞地帯法に違背するの恐れあるが為め、余儀なく之を省略し、地形の如きは山川の部に於て単に詩的に之を述ふるに止めたり。同一の理由に依り、戦紀に対照すべき詳図も之を省けり。故に戦紀を読む人をして隔靴掻痒の感あらしむ可し。看者之を諒せよ」と記してあります。

 現在でも、軍施設の撮影は禁じられており、近くで撮影する場合はその向きに注意するべき旨がパンフレットに書いてあったりします。
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 ともあれ、千人塚や隣接していた澎湖神社の痕跡を探すのは難しいと判断。確かに手元の資料もまだ些少です。「日本時代の澎湖の資料が見たい場合はどこに行けばいいですか?」と崔さんに尋ねると「台湾大学図書館なら日本時代の資料はたくさんあるんじゃないかしら」との答え。なんと灯台もと暗し(結果的に翌日、林麟祥さんから澎湖神社の痕跡を教えてもらえました)。日本時代に発行された絵葉書では、当時の様子を見ることが出来ます。
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 その後、図書館を後にして帰宅。潮風にあたりながらバイクに乗っていたためか、ちょっと潮焼けしたようです。一日中バイクに乗ったり歩いたりで結構疲れましたしお腹も空きました。

 天麟先生の奥様が、朝市場で買い求めたイカや土魠魚のお味噌汁、タコ団子など心づくしの手料理を用意して待っていてくれました。土魠魚のお味噌汁は、全く臭みがなくて身がプリプリ!台北で食べると、たまに魚臭さが気になるお店もありますが、ここでは全く臭みなし。今朝まで泳いでいたのですから当然です。ちなみに奥様によると、大根と一緒に料理すると魚の臭みがより抑えられるとか。
 天麟先生ご夫妻には、一宿一飯どころか、それ以上に大変お世話になりました。どうも有り難うございます。
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 後日談ですが、台北在住のフリーライター片倉佳史さんに日本時代の澎湖の地図の話をすると、なんと日本時代末期、米軍が作成した馬公の地図を送ってくれました。”米軍”とは盲点でした。これは十数年前に米テキサス大学が公開したもので、終戦間近の1945年に作成されたものです。
 
 片倉さん曰く「米国は最初、蒋介石に台湾の地図を作らせようとしたものの、当時の中華民国軍にそんな能力はなく、やむなく米国が自分で航空機を飛ばして撮影した」のだとか。これだけ精巧に作られてしまってはひとたまりもありませんね。ただ、地名がすべて日本語読みのローマ字表記(例えば、馬公は”MAKO”と表記されています)のが特徴です。現在では、澎湖のことをよく知り、かつ日本語を解する人しか読みこなせないでしょう、とは片倉さんの分析です。

 テキサス大学では他にも台湾や日本を含め、膨大な地図が公開されていますので、見ているだけでも楽しめます。台湾編はこちら。日本やその他の国も、リンクをたどって行けば比較的容易に見つかります。
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by ritouki | 2011-03-03 23:34 | イベント

澎湖島へ 2日目 その3

 さてさて、続いての下見スポットは白沙島の「通梁古榕」です。「榕」とは榕樹=ガジュマルのこと。台北の街なかでもよく見かけ、強い日差しが注ぐ真夏には、日陰を作り、涼を与えてくれます。通梁村の保安宮という廟にあるガジュマルの古木で、その樹齢は約360年と言われています。

 ガジュマルは成長すると、ヒゲのような枝(気根)が地面まで垂れ下がり、その部分がまた根付いていきます。廟の前の広場を覆い尽くしたガジュマルはまるで巨大な藤棚のよう。聞くと、たった一本の幹から派生した枝が成長し、まるで屋根のように拡がっているのだとか。ガジュマルの枝は地面に根付くと幹のように太く成長するので、そこらじゅうに幹があるように見え、どれが本当の幹なのかよく分かりません。

 でもご安心ください。本当の幹には赤い布が巻かれていることですぐに分かります。手前には賽銭箱も置かれ、このガジュマルが神木として大切にされているのを感じます。

 こちらのガジュマル、日本時代に発行された絵はがきにも、澎湖の名所として描かれていることから、当時すでにその名を馳せていたのでしょう。
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 台湾本島でも、夏の盛りにはガジュマルが作り出した木陰に人々が集まって語らう光景をよく目にします。また、ガジュマルの下に屋台を出したりして、ガジュマルが店の代名詞になっているような所もあります。台湾の人々にとってガジュマルは日常生活に溶け込んだ樹木と言えるでしょう。
 こちらの「通梁古榕」では、保安宮とは別に、賽銭箱がガジュマルの根の前にも置かれ、神木として崇められています。周りには食堂やお土産屋さん、そしてこれも澎湖名物の「サボテンアイス」の売店が立ち並んでいます。寒すぎてとてもアイスには手を出す気になりませんでしたが、味はラズベリーに似た酸味で甘すぎず美味だとか。濃い紫色でちょっとどぎついですが、5月の李登輝学校の際にはぜひ試してみたいと思います。
 
 これで一応、白沙島の下見は終了。途中、澎湖水族館があったり、「通梁古榕」より規模は小さいですが、同じように廟の屋根のように大きく成長した「雙榕園」と呼ばれるスポットがありましたが、時間の関係で割愛。馬公島へ戻り、二つの日本軍上陸記念碑を探しに行きます。

 パンフレットなどに名前は載っていますが、正確な場所についてはどれもあまり詳しく記されておらず(恐らく、この碑を見に訪れる台湾人の数は多くないのでしょう)、見つけるのに難儀の予感がします。午後になって太陽が隠れ、気温も下がって来ました。

 お目当ての石碑は、馬公市の東に隣接する湖西郷にあります。そのため、馬公市内を経由すると遠まわりになるので、途中で東へショートカット。軍民共用のためか鉄条網がいかめしい馬公空港の裏側をひたすら飛ばします。ただ、道はそれほど入り組んでいないので、何とか迷わずに「龍門」までたどり着けました(下の地図の赤丸)。ここからは足で碑を探します。
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 最初に探すのは、「龍門裡正角日軍上陸紀念碑」と呼ばれるもの。
 1910年(明治43年)、井田麟鹿が著した『澎湖風土記』によれば日清戦争最中の「明治28年3月23日午前11時30分、裏正角に上陸を開始し、翌24日正午、媽宮城を占領す」と記されています。

 また、1936年(昭和11年)4月に澎湖庁から発行された『澎湖事情』では「名勝舊蹟」の章に「(略)比志島混成枝隊が伊東司令長官の率ゆる聯合艦隊の掩護の下に上陸した地點である。碑は谷口要港部司令官、竹下元澎湖郡守、上瀧元街長其の他有志相圖り寄附金を以て大正13年3月23日建設したものである。(後略)」とあります。

 「上陸記念碑」というからには海岸に近いところだろう、とアタリをつけてバイクを走らせると、ちょうどアスファルトの道が途切れて農道へ繋がるところに看板を発見しました。ここは現在、湖西郷ですが、日本時代は「湖西庄良文港裏正角」と呼ばれていました。ちなみに現在の地名は「裡正角」となっていますが、日本時代の文献では「裏正角」と記されています。どちらも同じ意味かつ読み方ですが、日本の統治が終わってから「裡」を用いるようになったようです。ただ、その理由は判然としません。
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 碑は海の方向へ正面を向けて建っています。ただ、不思議なことに2つの碑が。というのも、日本時代に花崗岩で作られた元々の碑は、日本の敗戦後、ご多分に漏れず、国民党によって表面の碑文が削り取られ、「臺灣光復紀念碑」として流用されました。それが↑の写真です。つまり、「臺灣光復紀念碑」は元々の上陸記念碑そのものなのです。

 そして碑の台座は破壊され、上部の碑だけが右側に移され、元の碑の位置には小さな「土地公」を祀る廟が建てられていたようです(「土地公」とは、その土地を守ってくれる神様のことです)。

 この翌日、土地の古老、林麟祥さんに伺ったところによれば、十数年前、澎湖にも地方分権の波が押し寄せ、郷土の歴史改竄に対する抗議の声が上がり始めました。国家の最高研究機関である中央研究院の学者や地元の研究者の抗議により、元々碑があった場所には、本来の姿の碑が復元され、その場にあった土地公廟は、すぐそばに移されたということです。碑は現在、県の古跡指定を受けています。

 ただ、もう一つ不思議なことが。昭和7年に撮影された写真(下2枚目)と比べると、元々の碑文には「明治二十八年 混成枝隊上陸紀念碑」と彫られているにもかかわらず、新しく復元された碑文は「混成枝隊」ではなく「混成支隊」と彫られています。辞書によれば、「枝隊」も「支隊」も同じ意味、用法のようですが、なぜ忠実に再現しなかったのか、理由があったのか、次回林麟祥さんを訪ねたとき伺いたいと思います。(写真は昭和7年に発行された『澎湖島大觀』井原伊三太郎/著より。所蔵は台湾大学図書館)
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 いよいよ気温は下がり、かなり寒くなってきましたが、最初の記念碑がスムーズに見つかったので気分は揚々です。碑から海岸へと続く坂道をちょっと下りてみると、彼方には長い砂浜が目に入って来ました。恐らく夏は青い空と白い砂浜が人々を楽しませてくれることでしょう。潮が引いた浅瀬には、おばさんが入りこんで何やら獲っていました。恐らく岩海苔を獲っていたのだろうと思います。100年以上も昔、この地から日本軍が上陸したことを思うと歴史の悠久さを感じます。

 それでは続いて「林投日軍上陸紀念碑」へ向かいます。こちらは前掲の地図でいうと「裡正角」から西へ数キロ戻った地点にあります。出発時にガソリンを満タンにしたにもかかわらず、かなり心細くなってきました。よく考えてみれば、往復80キロ近く走っているのだから当たり前です。地図で確かめると、かなり馬公市側へ戻らないとガソリンスタンドが無いようなので、早いところ石碑を見つけて給油したいところです。
 とかなんとか言ってる内に、林投村界隈へ。廟の横っちょにある看板怪しいな~と思って正面へまわってみたらドンピシャリ、発見しました。
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 ここからクネクネ曲がる細い道へ。途中、工事現場にぶつかってやむなく迂回。迷うのでは、とちょっと心配しましたが、原っぱの真ん中のちょっと小高くなった場所に石碑があるのを見つけました。先ほどの「裡正角」の上陸記念碑と比べると、こちらの碑については情報が不足しています。澎湖県の観光紹介サイトでも、こちらの林投の記念碑の説明と裡正角の記念碑の説明が全く同じだったりして混乱しているようです(裡正角の記念碑と同時に建立された可能性はあります)。

 また、台湾大学に所蔵されている、澎湖庁が明治、大正、昭和期に発行した『澎湖事情』や『澎湖風土記』などにも、「裡正角」の記念碑は記述されていますが、こちらの碑には触れられていないのです。さらに、「裡正角」の記念碑は建立日や建立者、その経緯等が詳細に記録されているのに比べ、こちらの林投の碑は情報が曖昧です。

 とにかく少ない情報を整理すると、1895年(明治28年)3月23日、日本海軍聯合艦隊は「裡正角」から澎湖上陸に成功しましたが、その前に、こちらの林投から上陸を試みたようです。1895年3月15日、佐世保を出発した混成枝隊は沖縄→台湾の東海岸→南端を経由してから北上、3月20日には澎湖の八罩島(現在の望安島)沖へ到達し停泊しました。

 その後、伊藤祐亨司令長官率いる日本軍は12隻の軍艦を率いて林投からの上陸を試みますが、清軍側の要塞「拱北砲台(劉銘伝が1886年に築いた砲台。現存するが、軍事管制区域内のため一般開放されておらず)」の反撃に遭い上陸が叶わず。そのため、伊藤司令官は作戦を変更し、4隻の軍艦を龍門に派遣、海上から大砲による援護砲撃を行い、混成枝隊は裡正角からの上陸に成功したのです。

 その後、日本軍は西へ向かい、太武山へと進軍しますが、損害を少なくするため、裡正角から上陸した混成枝隊と林投から上陸した海軍陸戦隊の挟み撃ちで清軍を攻撃しました。文献には「後日」林投にこの記念碑が建立された、との記述しかなく、正確な日付が判明しません。
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 裡正角の上陸記念碑と同様、こちらの記念碑も戦後、国民党によって碑文が削られ、現在では「抗戦勝利紀念碑」の文字に書き換えられています。元々の碑文は「明治二十八年海軍聯合陸戰隊上陸紀念碑」と刻まれていたそうです。こちらも県の古跡指定を受けています。

 碑は花崗岩で、台座は猫公石だとか。戦後、この碑の整備を担当していた国軍も撤退し、郷所(村役場)も経費の面から維持整備が出来ず、10年ほど前までこの記念碑は草に埋もれ、荒れるに任せていたそうです。

 その後、この地の郷代(町内会長のようなもの)を務めていた歐野崎さんが奔走し、村役場に掛け合うと同時に、郷議員(村会議員)の蔡清續さんが議会に訴え、県政府から200万元の整備予算を獲得したとのこと。そして記念碑や周辺の修復・整備が行われ、工事は2001年5月に完了したとのことです。

 今回、歐野崎さんにも蔡清續さんにも出会うことはありませんでしたが、いつかお話しを伺ってみたいものです。
 そして、特にこちらの林投の碑について特筆すべきことは、碑文がすでに国民党によって「抗戦勝利紀念碑」と書き換えられているにもかかわらず、案内版には「林投日軍上陸紀念碑」とされていることです。この点は、前述した林麟祥さんが言うように、「歴史の改竄は許さない」とする地元澎湖の人々の気概によるものなのかもしれません。
 台湾大学図書館所蔵の『走過從前』(澎湖県立文化中心/1994年)には日本時代の碑の様子が偲ばれる写真がありました。
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by ritouki | 2011-03-03 21:05 | イベント

澎湖島へ 2日目 その2

 市場での買い物を終え、家へ荷物を置くと、続いては近くのホテル「長春大飯店」へ向かいます。ホテルのオーナー、郭長流さんも黄天麟先生ご夫妻のいいお友だち。日本語族なので、日本語も達者です。昨夜、連絡をとった際には遅い時間だったので、改めて今朝お訪ねした次第です。

 聞くと、健康診断のため、お昼の飛行機で「台湾へ行く」のだとか。澎湖の人々は皆さん、台湾本島のことを「台湾」と呼ぶんです。
 澎湖へは台湾本島よりも早くに、中国大陸から人々が渡りはじめ、オランダやフランス、そして日本もいち早く目をつけていました。そのため、文化水準の向上も台湾本島より早く、澎湖人を誇りとする人々にとってはもしかしたら「澎湖が本家」という自負があるのかもしれません。(下の画像は台湾最古の廟である「澎湖天后宮」。海の守り神である媽祖を祀っています。古くは「媽宮(台湾語ではマークン)」とも呼ばれ、それが日本時代に「馬公」という地名になる元になりました。「打狗(台湾語でターカウ)」が「高雄」になったのと同じですね。文献によれば、1604年にはすでにこの廟が建立されていたとの記述があるそうですから、400年前にはもう廟が建立されていたことになります)。
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 出迎えてくれた郭さんは、ひとしきり日本時代の思い出話をされた後、一冊の本を取り出して見せてくれました。ちょっと古風に綴じられたノートに筆書きで何やらたくさん書いてあります。これは、郭さんのお父上が亡くなる前後に、その生い立ちを記して子々孫々まで残しておこうという意味で、郭さんが記述したそうです。
 後半には、ご自分のホテル経営に関して報道された新聞記事などがすべて綴じ込まれ、スクラップブックのようにもなっています。このノートによって、郭家の歴史が残されていくというわけですね。
 ちなみに郭さんのご子息は以前、東京大学に留学し修士号を取得。現在は国立台湾海洋大学の水産養殖学部で教授をされています。
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 さて、それではいよいよバイクを借りて澎湖の下見に出発。今日明日と時間が限られているので、まずは一番遠い、西嶼灯台(漁翁島灯台)を目指します。下の地図で言うと、オレンジ色の馬公市内を出発して北上、橋で繋がれた白沙島を経由して西嶼の先端へ向かいます。馬公市内から片道40キロ弱の道のりです。
 3つの島を結ぶ公共バス路線も存在しますが、時間がかかるうえ、バスでは行けない場所も多いのでバイクが一番便利です。

 また、バイクを借りる際には、「台湾の」免許証の提示が必要です。日本からの観光客の方には、交流協会やJAFで手続きをすれば台湾で運転出来る制度が整備されていますので、そちらをご利用下さい。
 台湾でも田舎の方へ行くと、台湾の免許証なしで貸し出してくれることもありますが、万が一、事故を起こした際、保険の適用が受けられないばかりか、処罰されますのでくれぐれもご注意ください。
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 それでは一路、西の端っこへ。市街地をあっという間に飛び出し、県道203号線をひたすら走ります。道は結構広く、交通量も少ないのでまるで高速道路のよう。
 両側には畑が広がりますが、そこには一面「銀ネム」と呼ばれる草が鬱蒼と生い茂っています。パッと見には、まるでアメリカの原野の光景みたいです。後で天麟先生に聞くと、この草は戦後に持ち込まれたもので、夏は緑色なのでまだマシだけど、冬になると枯れて灌木のようになり、荒涼とした風景を生み出します。農家の人にとっては雑草なのでこの上ない迷惑な存在だとか(台湾にとっての国民党と一緒ですね)。

 そういえば、澎湖ではお店やレストランに「菊島○○」などと名付けているのをよく見かけます。昔、澎湖には島中に菊の花(日本の菊とはちょっと異なり、色が濃くてむしろガーベラに似ている「天人菊」。現在では澎湖の県花になっています)が咲き誇っていたため、澎湖のことを「菊島」とも称しました。ただ、現在では銀ネムの影響で、菊の存在が脅かされ、かなり減ってしまったようです。

 そうこうしているうちに、まずは馬公と白沙島を結ぶ「澎湖跨海大橋」を通過。まっすぐの道路がどこまで続きそうです。夏は最高の景色でしょう。これは、白沙側から撮影したものですが、この左手はるか先には風力発電の風車が澎湖の強風を受けてたくさんまわっています。
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 バイクは快調に飛ばし、馬公を出発してから1時間程度で西嶼島の西端へ到着。ちょっと道を間違えたりしながらも、遠くに「西嶼灯台」が見えてきました。

 ところがところが・・・ここでトラブル発生。灯台の手前には軍の施設があり、バリケードが置かれています。不審に思いながら(思われながら?)、近づいていくと、門のところで警備の兵隊さんが出てきました(ライフル持ってます)。

 ちょっと怖気づきながらも「灯台を見に行きたいんですけど・・・」と尋ねると、若い兵隊さんは「ここは立ち入り禁止ですよ。灯台へ行くならちょっと戻って小道を左へ入って下さい」と教えてくれます。「はて、そんな道あったかな?」と思いながらもUターン。随分手前のY字路を入ってからはずっと一本道だったため、そんな脇道は見当たりませんでした。
 かなり手前まで戻ったにもかかわらず、小道が見つからないので、とりあえずは先に「西嶼餌砲」の見学に行くことにします。
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 「餌砲」とは文字通り、餌=おとりにする大砲を意味します。つまり、このコンクリート製のニセ大砲、傍から見ればただのハリボテですが、飛行機で上空から見れば、まるで大砲が鎮座しているように見えるため、米軍にとってはクワバラクワバラ、という訳です。レーダーや偵察衛星技術の発達した現在では意味をなさないかもしれませんが、第二次大戦中はけっこう威力を発揮したとか。Googleマップで見た上空からの航空写真、確かに大砲が置いてあるように見えます。

 こちらの「西嶼餌砲」、小道の横に看板が立っているものの、道端から眺める限りは何も見えず、野原の道なき道を数百メートル歩かないとたどり着けません。近くには、同時期に使われていたと思われる見張り小屋が廃墟と化していました。ここは港を見下ろす高台に位置するので、眼下に広がる漁港と海を見渡すことが出来るのです。

 さすが澎湖は海に囲まれ、海と共に生きる島だけあって、家々に埋もれるように廟が鎮座しているのが至るところに見られます。祀られている神様の中で特に多いのが、漁業や航海の守り神である媽祖。危険と隣り合わせの海と共に生活する澎湖の人々の信仰が垣間見られる景色です。
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 先ほど入口まで行った軍の施設が遠くに見え、レーダーが回っているのが分かります。本来ならば、あの施設の向こう側に「西嶼灯台」が見えるはずで、この後、小道を行きつ戻りつ、若い兵隊さんの教えてくれた「脇道」を探すのですが、どうにも見つからず。観光客がほとんど来ないこの時期にカメラをぶら下げた日本人があっちへウロウロこっちへウロウロ、どう考えても怪しい・・・。拘束されても困るのと、「西嶼灯台」はどうしても下見しなければならないものではないため、諦めて次のスポットへ向かうことにします。
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 ただ、もったいないので、ここで「西嶼灯台(漁翁島灯台)」の紹介だけ。西嶼灯台の建設は清朝時代の1778年(乾隆43年)。国定古跡(二級)の指定を受けていますが、灯台としての役割は今も続いています。
 雨こそ降らないものの、毎日が曇り空で風も強いこの季節では望むべくもありませんが、北風が止む4月頃からは、この場所から地平線に沈む美しい夕焼けを愛でることが出来ます。

 この西嶼の夕日は清朝時代の「台湾八景」の一つにも選ばれています(日本時代の「台湾八景」とは異なります)。
 「台湾八景」がいつから巷間に伝えられたのかは定かではありませんが、初めて文献に登場したのは清朝時代の1694年(康熙33年)に著された『臺灣府志』とされ(1696年/康熙35年という説もあり)、以下の8つです。

1 安平晚霞(台南/夜の安平港)
2 沙鯤漁火(台南/沙鯤から見える漁火)
3 鹿耳春潮(台南/鹿耳門にたゆとう春の潮)
4 鶏籠積雪(鶏籠とは現在の基隆/雪を戴く大屯山)
5 東澳暁日(「東溟」とは清朝時代、諸羅縣と称された、現在の嘉義あたりを指すとされていますが、実際にどの場所なのかはよく分かっていないとか。一説には、次の句の「西嶼」と対比させるための想像上の場所、とも言われています。ただ、嘉義近辺での暁日=朝日といえば、すぐに思い出すのが阿里山のご来光ですね)
6 西嶼落霞(澎湖/西嶼の夕日)
7 斐亭聴濤(台南/台湾府城の斐亭で聞こえる潮騒)
8 澄台観海(台南/台湾府城の澄台から眺める海)

 8つのうち、台湾本島が7つをしめ、その中でも「鶏籠積雪」以外はすべて台南の風景です。これは当時、都が台南に置かれていた関係とされています。【参考文献『清代台灣八景與八景詩』劉麗卿/文津出版/台北市/2002年】

 それでは気を取りなおして次のスポットへ行きましょう。
 続いての下見は「西台古堡(西嶼西台とも呼ばれます)」。ここはいわば要塞で、清仏戦争終結後の1887年ごろ、清の李鴻章が台湾巡撫(知事のようなもの)として配下の劉銘傳を派遣し、近海に出没する海賊取り締まりのために築いたものです。入り口にある「西嶼西臺」の文字は李鴻章の揮毫によるものだとか。

 石で造られた要塞にはトンネルが「山」の字型に張り巡らされ、海を見下ろす高台には大砲が据え付けられていました(現在はもちろん模造品です)。この要塞は、指揮官や兵が寝起きする宿舎や司令塔を兼ねるとともに、弾薬や兵器の貯蔵庫としても使われていました。最大で5,000人が駐留していたこともあるとか。戦闘が始まれば、兵たちはトンネル内に籠って銃眼から射撃したり、大砲を撃ったりするわけです。現在では国定古跡(一級)の指定を受けています。
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 西台古堡を後にして、続いてはいよいよランチです。朝が早かったのと、バイク移動とはいえ、なんだかんだで動きまわったのでお腹が空いてきました。お目当ては「清心飲食店」。誰に聞いても「ここだけは行っとけ!」と言われた伝説(?)のレストランです。場所は、馬公側から見ると、白沙島から西嶼島へ渡ってしばらく進んだ右手。大きな看板が出ているので余程のマヌケでない限り見つけられます。

 到着したのは13時すぎ。2階へ上がって注文。胡椒エビやエビの天ぷらはプリプリ!そして「海鮮チャーハン」の美味たること得も言われず。海鮮たっぷりに加え、しっかりとした味付けでペロッと食べちゃいました。そして最後は「魚丸湯(つみれのスープ)」。これも海鮮のダシが出ていて最高、締めにピッタリです。
 そして案の定、食べるのに夢中で料理の写真を撮るのをすっかり忘れて完食。ふと見ると、店内の柱も貝殻で装飾されていました。

 階下には、著名人がこの店を訪れた際の写真がズラリ。中でも目をひくのは蒋経国・元総統。蒋経国はこの店がお気に入りで、澎湖を訪れた際には必ず立ち寄ったとか。また、この店のオーナー、呂九屏さんが澎湖の新鮮な食材を送った返礼の総統箋も飾られています。宛て名は「呂酒瓶さんへ」。オーナーの名前「九屏(ジョウピン)」の発音は「酒瓶」と同じため、「酒瓶さん」と呼ばれて親しまれているそうです。
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 さぁ、お腹もふくれたので、外は寒いけど再び出発。続いては「大菓葉の柱状玄武岩」へ向かいます。清心飲食店からバイクで10分弱。分かりにくい看板に騙されそうになりながらも到着。見上げるような玄武岩の柱は確かに圧巻です、、、が、なんだかちょっと違う。というのも、ガイドブックや地図などに掲載されている写真では、岩の前のくぼみに雨水がたまり、その水面に玄武岩が映し出されて幻想的に見えるというもの(逆さ富士のような感じ)。でもまぁ、分別のある大人なので現実はこんなもの、と分かってます。ただ、玄武岩と遠くに霞む海が同時に飛び込んでくる風景は圧巻です。
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 これで西嶼島部分の下見は終わり。次は白沙島の下見へと移ります。
 帰り途に見つけたのは、廟とセブンイレブンが隣同士で建っているというシュールな光景。裏を返せば、廟がそれだけ澎湖の人々の日常に根付いているということでしょうか。
 ちなみに、澎湖のコンビニはセブンイレブンしかないそうです。
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 ここで後日談。「ガイドブックやインターネットでもたくさん紹介されているのに、どうして『西嶼灯台』へたどり着けなかったんだろう???」ということで、調べてみたら判明しました。航空写真で見てみると一目瞭然!真ん中の建物が軍事施設です。私たちはバイクで右側から一本道を軍事施設に向かってやって来ました。そして、施設の入口で「ここじゃないよ」と言われてUターンしたのです。ところで、軍事施設の上部に「へ」の字のように土色の轍がついているのが見えますか?恐らくはこれが灯台へと繋がる小道。事実、轍は左側の灯台入り口までしっかり繋がっています。なーんだ「脇道」ってこんな近くにあったんですね。兵隊さんに怖気づいて逃げるようにUターンしたのが敗因だったのかも。
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by ritouki | 2011-03-03 19:39 | イベント