台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

<   2011年 09月 ( 8 )   > この月の画像一覧

ありがとう台湾!

 金美齢先生がデザインしたTシャツを着て、東日本大震災発生後、物心両面の支援の手を差し伸べてくれた台湾に感謝の気持ちを伝えよう、というプロジェクト団が訪台。
b0199170_222051.jpg

b0199170_222369.jpg

 日台関係の象徴ともいえる李登輝総統と、最大紙・自由時報の呉阿明会長を表敬訪問しました。
b0199170_22215.jpg

b0199170_235530.jpg

[PR]
by ritouki | 2011-09-28 22:02 | イベント
b0199170_1584899.jpg

 澎湖ツアー→苗栗の慰霊祭と、飛び回っていた今週のラストを飾るのは、ラストを飾るのは林口にある映画『賽德克巴莱(セデックバレ)』のセット村。
 板橋駅からシャトルバスに揺られること50分あまり。林口のなーんも無いところに突如現れるのがこちらです。

 土埃が舞うセット村は、まるで映画のワンシーンのよう。「霧社」の地名通り、霧に包まれているかのようでした。
 週末の今日、昼は観光客でかなり賑わったそうですが、夜の部は人も少なく、ライトアップがかえって幻想的で楽しめました。
 一応、12月までの限定公開(映画セットなので長期の保存に耐えられないため、12月になったら状況を見て判断するとのこと)なのでお早めに。
[PR]
by ritouki | 2011-09-26 22:58 | イベント
b0199170_1312376.jpg

 昨日までの澎湖ツアーから帰国した翌日、朝から苗栗県にある獅頭山へ行って来ました。広枝音右衛門警部の慰霊祭が執り行われるのです。

 広枝警部の指揮する海軍巡査隊は昭和20年2月、フィリピンのマニラにおいて米軍に対して総攻撃せよ、との命令を受けます。しかし、物質ともに上回る米軍への総攻撃は玉砕と同義といえるものでした。そこで、広枝警部は部下の台湾人たちに向かい「命を大切にして、生きて台湾へ帰るように」と話し、自分は「責任は私がとる」と2月23日に自決されたそうです。

 お蔭で命拾いして台湾へ帰ることができた部下たちが、昭和51年に苗栗の南庄郷にある獅頭山勧化堂に、広枝警部の位牌を作って祀ったのが発端です。

 しかし、残った部下たちも年々年老い、現在では劉維添さんが最後の生き残りとなって毎年の慰霊祭を行なっています。そんな、劉さんの気持ちに動かされたのが、本会会員でもある台北在住の渡邊崇之さんです。

 台北で経営コンサルタントや企業進出の手助けをする会社を運営している渡邊さんは今年、台湾在住の日本人や友愛会のメンバーにも声を掛け、慰霊祭への参列ツアーを企画してくれました。私もちょうどお誘いいただき、初めて獅頭山へお伺いしたわけです。

 劉さんはちょっと背中が曲がりつつも、非常に矍鑠としておられ、上司であった広枝警部の位牌に対して「今年はたくさんの方々がお参りに来てくれました」と報告されていました。
b0199170_1312288.jpg

 その後、会議室へ移動して1時間あまり劉さんから広枝警部の思い出や、フィリピンでの状況、そして戦後に広枝警部を祀るようになった経緯などをお伺いしました。もともと、広枝警部自身と苗栗は関係がなかったそうですが、劉さんたちは、自分たちがいなくなっても、この勧化堂にお祀りしておけば未来永劫供養してもらえるということで、こちらにお祭りすることに決めたそうです。
b0199170_1312052.jpg

 その後、堂内の食堂で精進料理をいただき、午後は獅頭山のふもとにある南庄の街を散策します。台湾人でも聞いたことのないような小さな街ですが、今日は休日ともあって老街の人出はなかなか。

 そんな中、小さな坂に目が止まりました。この坂にはなんと「乃木坂」という名称が付けられているのです。
 明治30年(1897年)、視察でこの街を通りかかった第3代・乃木希典総督は、人々の交通が不便なのを見て、私財50円を投じて坂を整備させたとか。そして、この坂は乃木坂と名付けられたということです。

 ただ、案内板にはなぜか「乃木崎」という表記になっています。確かに中国語には「坂」という字が存在しません。日本語の「さか」という発音に似た「さき=崎」を充てたのでしょうか。なにゆえ「崎」の字が充てられたのかは継続調査の必要がありそうです。
b0199170_1311524.jpg

 と、そこへ登場したのは劉さん。実は、劉さんの奥様の実家がこの南庄の街なかにあり、日本家屋がキレイに保存されているので見ていらっしゃい、と声を掛けて下さったのでした。
 先ほどまでは慰霊祭ということで多少堅い心持ちだったのでしょうか。慰霊祭も無事終わり、ホっとした笑顔を見せてくれました。
b0199170_1311765.jpg

b0199170_1544826.jpg

[PR]
by ritouki | 2011-09-25 23:30 | イベント
b0199170_110492.jpg

 澎湖本島の西端、蛇頭山にある「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」。

 明治41年(1908年)、東南アジア諸国へ遠洋航海した帰途、寄港中の馬公港沖で原因不明の爆発を起こして沈没し200名以上が死亡した。

 慰霊碑が望むのは日本時代も現在も海軍基地が置かれている測天島。
[PR]
by ritouki | 2011-09-23 01:09 | イベント
 震災後、言葉では表せないほど有形無形の支援をしてくれた台湾に対し、感謝の気持ちを届けるために6人の日本人スイマーが一昨日に与那国島を出発。サメが出るとも言われる海を交代で泳ぎながら50時間かけて台湾の宜蘭に到着しました。

 台湾にどのように感謝の気持を伝えればよいか、日本人が知恵を絞って様々なイベントが開かれるのは嬉しいことです。
 震災発生から半年、多大な支援をしてくれた台湾に感謝の気持を伝えることを考える時期を迎えています。
b0199170_1616241.jpg

[PR]
by ritouki | 2011-09-20 16:15 | イベント
b0199170_3353515.jpg

 台湾総統府。夏空をバックに。
b0199170_3353858.jpg

 司法院。日本時代は台北地方法院・高等法院でした。
b0199170_3371213.jpg

 今も昔も台湾随一の名門女子校、台北市立第一女子高級中学(高校)。日本時代は台北第一高等女学校。写真は日本時代の様子。
 校訓は「正しく 強く 淑やかに」。この石碑は現在も校内に置かれています。
b0199170_3412688.jpg

[PR]
by ritouki | 2011-09-10 03:35 | イベント

今日、台北へ戻ります。

b0199170_2441623.jpg

 10日ほど、日本へ帰省していました。
 実家があるのは栃木県足利市。相田みつをの故郷として知られています。そのため、市内のお菓子やさんの包装には相田みつをの書が使われており、足利銘菓となっています。駅の看板にもこの通り。
b0199170_2441885.jpg

[PR]
by ritouki | 2011-09-05 17:44 | イベント

馬場町記念公園

b0199170_442438.jpg

 今日は馬場町記念公園へ行ってきました。馬場町とは日本時代の地名で、現在の萬華付近にあたります。日本時代には、ここに軍事訓練を行う「台北練兵場」がありました。

 戦後、白色恐怖の時代には、国民党による政治犯の処刑場となっていました。二二八事件の発生当時、台湾人の弾圧を指揮した陳儀は、後に共産党に寝返ったことが発覚し、この場所で処刑されています。

 1998年、当時の陳水扁・台北市長がこの場所を記念公園とすることを決定。整備が進められて「馬場町記念公園」として完成しました。
[PR]
by ritouki | 2011-09-01 19:03 | イベント