台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 仁愛路沿いに建つ「台大医学人文博物館」は、もともと台北帝国大学医学院の校舎のひとつ。
 1907年の建築で、設計者は当時、台湾総督府営繕課に勤務していた近藤十郎。台北帝大付属病院や、現在は紅楼と呼ばれて親しまれている西門町の「八角堂」の設計者としても知られています。
 台湾総督府や台北帝大付属病院の建築がどことなくバロック式の東京駅に似ていると思われる方もいるでしょう。それもそのはず、これらの建物の設計者はみな、東京駅を設計した名建築家、辰野金吾の流れを汲む、いわば弟子たちなのです。
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 近藤十郎氏が設計したこちらの博物館は、バロック式ではなく、ルネッサンス式のため、赤レンガ建築とはちょっと趣が異なります。
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 右が「台大医学人文博物館」つまり台北帝国大学医学院、左は現在の国立台湾大学病院。新と旧のコントラストが冬空に映えます。
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by ritouki | 2011-12-27 23:04 | イベント
 いよいよ総統+立法委員のダブル選挙まで一ヶ月を切ってきました。
 台湾は旧正月で動く社会なので、日本のような年末年始の慌ただしさとは無縁ですが、来年の旧正月の元日(いわゆる春節)は1月23日ということで例年よりちょっと早め。

 また、国立大学では、学生たちにとって正念場の期末試験が1月の第3週を目途に行われます。ということは、金曜日に試験が終わった翌日には投票日というわけで、中南部出身で台北に学んでいるなど、実家と離れて住んでいる学生にとっては試験が終わったらすぐに帰省して投票しなければなりません。
 
 投票権を持つ20歳以上の大学生が生まれたのは1990年代前半。戒厳令の残滓が残っていた時代とはいえ、自由と民主そして経済的豊かさの中で育ってきた彼らにとって、政治への興味はお世辞にも高いとは言えません。今回の選挙で初めて投票権を得た若者たちを、中国語で「首投族」と表現します。なにやら危険な香りがしますが、中国語で「首」は初めてを意味し、「投」はもちろん投票のこと。なかなかウマいネーミングを考えたものです。

 今回の選挙は、台湾人が一斉に民族大移動を始めて規制する旧正月の前週にあたります。実家から遠くはなれて働いている人々、特に中国で働く台商と呼ばれる台湾人ビジネスマンにとっては、仮に投票のために台湾へ帰ってきた場合、日曜夜には中国へ戻り、翌週末には再び旧正月で台湾へ戻ってくるという二度手間になります。昨今の不景気では飛行機代も馬鹿になりません。これは例えば「台北で働いているけど実家は高雄」などのように台湾内部でも同じことが言えます。学生にとっても条件は同じ。むしろ経済的余裕がない学生の場合、新幹線に乗らずに高速バスで規制するとなると何時間もかかります。

 首投族の投票率や投票行動が選挙結果の行方を左右しかねない、とも言われていますが、それ以前に、彼らの投票機会を奪いかねない現政権による選挙日程の変更は、さすが選挙に勝つためならなんでもござれの老舗の手腕を感じます。

 台湾新幹線も選挙期間中、帰省客の増加を見越してダイヤを増発。チケット販売の混乱も予想されることから、早めの予約・購入を呼びかけています。いよいよ新幹線も選挙モードです。
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by ritouki | 2011-12-15 21:53 | イベント

産経新聞朝刊から

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 退院されて静養中の総統は日本からの御見舞客が訪問されるのをことのほか喜ばれるとか。
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by ritouki | 2011-12-15 06:38 | イベント
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本日午前10時から、台北市内の「台湾国際会館」で新刊発表会が行われました。タイトルは『撲火飛蛾 一個美國傳教士親歷的台灣白色恐怖』(允晨文化)。タイトルにある「撲火飛蛾」とは「飛んで火に入る夏の虫」のことです。

著者は米国人宣教師として1965年末から1971年までを台湾で過ごしたマイロ・タンベリー氏。白色恐怖が吹き荒れていた時代、国民党の軟禁状態に置かれていた彭明敏・台湾大学教授の脱出を成功させた立役者です。
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新刊は今年2月に米国で発刊された『Fireproof Moth: A Missionary in Taiwan's White Terror 』の中国語版。発表会にはタンベリー氏はもちろん、彭明敏教授も駆けつけました。
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1965年末、布教のためメソジスト派教会から台湾神学院に派遣されたタンベリー氏は彭教授と親交を結びました。前年に「台湾台湾自救運動宣言」を発表しようとして国民党に逮捕された彭教授は、当時すでに国際的に名を知られた国際法学者だったこともあり、アムネスティをはじめとする国際団体からの抗議によりなんとか釈放されたものの、24時間監視の軟禁下に置かれました。

白色恐怖の真っただ中に身を置いたタンベリー氏は、ある日突然誰かが忽然と姿を消したり、逮捕されたまま戻って来ないという状況を目の当たりにします。さらに、彭教授の切迫した状況を知ったタンベリー氏は、彭教授を台湾から脱出させようと画策を始めるのです。

この脱出計画に日本人、つまり台湾独立建国連盟の宗像隆幸氏が大きく関わっていることは宗像氏の著書『台湾独立運動私記 三十五年の夢』などに詳述されていますが、台湾国内にいてカギを握っていたタンベリー氏についてはほとんど知られていませんでした。

1970年、タンベリー氏は宗像氏と香港の私書箱を使って秘密裏に連絡を取り合い、偽造パスポートを使って彭教授を国外脱出させることに成功しました。しかしながら、この手引きをしたことが当局に発覚し、1971年、タンベリー夫妻は逮捕、強制退去されてしまいます。

昨日の自由時報の報道によれば、タンベリー氏は米国に帰国したものの、その後20年あまりにわたって米国政府からパスポートの発給を拒否され、米国外へ出ることが叶いませんでした。しかし、タンベリー氏はこのことについて一切恨み事を言うことなく、彭教授でさえ、30数年を経てやっと知ったということです。
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タンベリー氏が再び台湾を訪れることが出来たのは民主化が進んだ2003年のこと、38年ぶりでした。今回の回顧録は当時を振り返ると同時に、なぜ彭教授を脱出させようと決意したかの顛末が描かれています。

会場には多くの聴衆が詰めかけ、タンベリー氏の言葉に耳を傾けました。最初の挨拶は流暢な中国語で。しかし、何十年も使う機会がなかったということで途中から通訳を交えて英語でスピーチ。英語→台湾語の講演は私には非常に難儀でした(笑)。

白色恐怖の時代の凄惨さに言及すると、タンベリー氏の表情は当時を思い出したかのように憂いを湛えたものとなり、宗教家として圧政に苦しむ台湾の人々に対し、いかに心を砕いていたかを物語りました。
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by ritouki | 2011-12-10 14:28 | イベント
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 日本の高校生が修学旅行で台北を訪れています。
 今夜、蔡焜燦先生が生徒たちを前に「台湾人と日本精神」と題して講演。朝早くの出発で疲れているはずの生徒たちが、身動ぎ一つせずに蔡先生の言葉に耳を傾けている姿が見られました。
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by ritouki | 2011-12-07 22:09 | イベント

『美しく齢を重ねる』

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 うちの親分の新刊です。「何気ない言葉が時として人と人の絆を作り、その人の人生に大きな影響を与えることもある。」
 これまで、多くの方々からたくさんの声を掛けていただきました。そして、台湾で学ぶことについて迷っていた背中を押してくれたのも黄昭堂主席の一言でした。
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by ritouki | 2011-12-06 01:23 | イベント
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 11月30日から12月3日までの予定で訪台した本会の役員団(田久保忠衛団長)が、先月手術を受けられたばかりの李登輝元総統をお見舞いした。
 当初は訪台団と李登輝元総統との面談が予定されていたが、手術によりキャンセル。しかし、日本からの訪台団の熱情と王燕軍・李登輝事務所主任のはからいにより、12月1日に面会が実現したもの。詳報を本会メールマガジンでお伝えしているので下記に転載する。
 写真は初日夜の晩餐会で李登輝元総統の術後経過を説明する王主任。

 「李登輝元総統はお元気だった 本会役員訪台団がお見舞いに参上」

 鮮やかな逆転満塁ホームランという感激だった──。病み上がりでまだまだ本調子ではなかったが、本会の「役員訪台団」(田久保忠衛団長)一行はお元気な李登輝元総統とお会いできた。

 本会初となる「役員訪台団」は、台湾側カウンター・パートの李登輝民主協会との交流などのため、11月30日から昨日まで台湾を訪問した。本来なら初日に李登輝元総統と懇談の予定だった。ところが、出発直前、本会役員の訪問であっても、他も一切お断りしているのでご遠慮いただきたいとの連絡が入った。そのため参加取り消しを申し出る役員が3人も出たほどで、参加者は一様にガッカリした。

 初日の夕食会に、手術に立ち合い、報道陣説明など術後のフォローをしてきた李前総統事務所の王燕軍主任と秘書の方2人をお招きした。術後の様子などをお聞きするためだ。その席で、主任からはお会いできない旨が改めて伝えられた。

 しかし、李元総統はかなり回復されているとも仄聞していたので、訪台団は、窓から手を振っていただけるだけでもいいからお顔を拝せないだろうかと、一縷の望みを託し改めてお願いした。すると、主任は主治医と相談するからと会場を離れた。主任が会場に戻ってきた。顔がほころんでいる。「OKが出ました。明日の午後4時、お会いできます」と告げる。参加者からは「やったー!」と歓声が挙がり拍手が起こった。酒が進んだのはもちろんだ。

 12月1日、烏来の高砂義勇隊記念碑を参拝した一行は予定を早め、台北市内の静養先に向かった。この日はちょうど術後1ヵ月目に当たっていた。

 予定の時刻となり静養先に伺った。李元総統は部屋の入口近くで待ち受け、「田久保さん、ようこそ」などと一人ひとりの名前を呼びながら握手をしつつ招き入れられた。これにはビックリするとともに、手の温もりを通じてお元気な様子を直に確認できた。

 面会は15分の予定で、主治医の診察予定時間を30分繰り下げ、私どものお見舞いの時間を作っていただいたそうだ。

 お疲れのときの李元総統の顔は白い。もともと色白ではあるが、血の気が引いたような様子となる。しかし、顔は白くない。むしろ赤みがさしていた。顎鬚(あごひげ)をたくわえられていたせいか、これまでの印象と違ったが、お元気な感じだった。

 李元総統は「よくいらっしゃいました。ありがとう」と述べ、定期健診で大腸癌が見つかったときのことから話し始め、内視鏡による手術ではなく開腹手術を即断したことなど事細かにお話になった。それは、饒舌とも言えるほどだった。ガンの手術で患部を切除した後は、今までどうやっても治らなかった足や腰の痛みがなくなったとも話された。予定の時間をオーバーし、主任から主治医の診察時間が来ていることを告げられ、ようやく話を打ち切られたほどだ。

 田久保団長は、自分も結腸ガンやその転移により4回の手術を受けたことを話し、「先生の手術は、私から言えばイボのようなもんです」と笑わせつつ李元総統を励まし、「これだけお元気になられ、小田村会長以下われわれも本当に安心しました。ますますご健康にご留意ください」と挨拶して部屋を出た。
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by ritouki | 2011-12-04 23:08 | イベント

黄昭堂主席の告別式

 今日午前は黄昭堂・台湾独立建国連盟主席の告別式。午後は追悼ミサが行われました。
 本会役員団も参列し、主席のご冥福をお祈りしました。

 下は、国民党のブラックリストにより、長年台湾へ帰国できなかった独立派が、李登輝総統の民主化推進により続々と帰国する様子を報じた新聞。許世楷氏や金美齢氏の帰国を大きく報じるとともに、「最後の大物」黄昭堂氏も間もなく帰国、と報じています(1992年10月16日付の中国時報)。
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 こちらは黄昭堂主席、34年ぶりの台湾帰国を伝える新聞(1992年11月26日付の中国時報)です。
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by ritouki | 2011-12-03 20:29 | イベント
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 お手伝いいただいた皆さん、ご来場いただいた皆さん有難うございました!
 おかげさまで大成功!!
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by ritouki | 2011-12-02 23:49 | イベント