台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 本会が主催する李登輝学校台湾研修団で、台湾の原住民をテーマに何度か講義していただいたマサ・トホイ先生を覚えている卒業生の方も多いと思います。

 マサ先生はタイヤル族で、桃園県の石門水庫(石門ダム)からさらに小舟で対岸に渡った岬にお住まい。もう2年以上お目に掛かっていませんでしたが、博士課程で台湾を研究している友人が訪ねるというので同行させてもらうことにしました。私たちと会うときは、わざわざ小舟に乗って、ダム北側にある息子さんが経営する原住民料理レストランまで来てくれます。

 マサ先生は昭和7年生まれの御年80歳。久方ぶりにお目に掛かりましたが、大変お元気そうでした。2日前に友人から「マサ先生に会いに行く」と聞き、先生には何も言わずにくっついて来たので「先生、覚えていてくださるかなぁ」と一抹の不安がありましたが、会うなり「いつも文章読んでますよ」と言われて感慨もひとしお。長らくご無沙汰したことを申し訳なく思いました。

 お年はとっても頭脳は明晰。日本時代の思い出から地理、人名まで諳んじてスラスラお話ししてくれます。日本時代の教育については「日本は植民地教育だといっても、その教育には精神があった。徹底的に日本人にしようという気概があった。だから、今でも日本の教育はよかったと思っている」と語ってくれました。

 先生のお話しを伺っていると、2時間半はあっという間に過ぎてしまいました。またの再会と先生の健康を祈ってお暇しました。
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by ritouki | 2012-07-31 20:54 | イベント
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 夏目漱石の小説『三四郎』が舞台としたのは東京大学構内にある「心字池」。後に小説にちなんで三四郎池と呼ばれるようになりました。

 東大が三四郎池なら、台大には「醉月湖」があります。キャンパスの北西、新体育館のそばにあるこの湖は学生のみならず、市民の憩いの場となっており、夕方や休日には湖の周りを散策する人の姿が多く見られます。

 この湖はその昔「牛湳池」と呼ばれていました。台大キャンパスの西側には清朝時代、瑠公圳と呼ばれる用水路が流れており、この用水路の調整池の役割を果たしていたようです。

 瑠公圳は日本時代には「堀川」と呼ばれ、用水路沿いの道は「堀川通り」と呼ばれました。

 戦後、この用水路は1970年代に埋め立てられ、道路となりました。これが現在の新生南路・新生北路です。

 この湖がなぜ「醉月湖」と呼ばれるようになったのでしょうか。
 1973年3月、改修が終わったばかりのこの湖で学生によるボートレースが開催されることになりました。
 それまで、この場所は湖というよりも池に近く、動物学部で実験に使われるだけの用途しかなかったようです。1972年末から1973年にかけ、台湾大学は改修に着手し、現在の規模に生まれ変わりました。そこで、当時学生会主席を務めていた心理学部の蘇元良が学校側の同意を取り付け、3月19、20日にボートレースを開催することになったのです。

 当日は新店にあるボート遊びのメッカ、碧潭からボートを借り受けてきてレースを行いました。参加した学生は400人以上、レース当日は湖の周囲を学生が取り囲み、大変な熱気だったとか。

 このボートレース開催に際し、学生会ではポスターを製作して学生に告知する必要がありましたが、その際、これまで雑草に囲まれただけの池から、美しく整備された湖をどう呼ぶかで頭を悩ませました。その過程のなかで、メンバーだった歴史学部の鄭梓から「醉月湖」という名前が飛び出しました。ロマンあふれるその名前に一同は即座に同意、こうしてポスター上に初めて「醉月湖」の名前が登場し、以後、正式な名称として使われることになったのです。
 ボートレース当日の写真が「臺大校友双月刊第63期号」に掲載されています。
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by ritouki | 2012-07-30 20:08 | イベント
 日本の鉄道ファンにとって台湾は垂涎の地であるということを聞いたことがあります。日本時代から台湾を南北に貫く縦貫鉄道が開通していた台湾では、当時の駅舎が今でも多く残されていたり、引退した車両が大切に保存されています。また、在来線の台鉄に乗車するとどこか懐かしいような車両に巡りあうこともあり、鉄道の方はからっきしという私でも、日本の鉄道ファンが台湾に惹かれる理由を垣間見られたような気になります。

 台北市内には日本時代に敷設され、戦後まで活躍したものの、現在ではすでにその姿を消した「萬新鉄路」という路線がありました。台北市西部の下町、萬華から南部の新店までおよそ10.7キロを結んだ私鉄です。もともとは産業鐡道として作られ、石炭や木材、セメントや肥料などを運ぶためのもので、旅客運送は主目的ではなかったようです。

 旅客運送の開業は1925年(大正10年)1月25日ですが、それ以前から貨物運搬としての路線自体はすでに存在していたようです。ただ、開業とはいっても路線沿線の土地買収が難航し、当初予定していた全線開業ではなく、始発の萬華駅から水源地駅(現在の公館付近)までという限定開業でした。ちなみに萬華駅で、官線とよばれた縦貫鉄道に乗り換えができました。
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 萬新鉄路は台北帝大の教職員宿舎が多く集まるエリア(現在の汀州路付近)を走っていたため、後にこの路線は帝大の教職員や学生にとって重要な足となりました。台北帝大最寄り駅だったのは「水源地」駅。現在のMRT公館駅からみるとだいぶ西側、羅斯福路の一本南側にある汀州路に位置していました。萬新鉄路は1965年3月、貨物運搬業務の激減や、バス路線の充実化によって衰退してその役割を終えました。水源地駅の隣にあった職員宿舎は近年になって修復され、人気のカフェとして生まれ変わっています。
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 萬新鉄路は調べてみるとまだまだ面白い発見があります。さらに踏み込んだ記事は改めて別の機会に書こうと思います。
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by ritouki | 2012-07-29 20:08 | イベント
 台南市(合併前は台南県)の南部に位置する新化。
 この地に残されていた新化武徳殿の修復がこのほど完了し、お披露目が行われたという報道がありました。しかし、単にお披露目がされたわけではありません。

 1936年(昭和11年)に武徳殿前で撮影された一枚の写真をもとに、区長や市議員らが日本時代の壮丁団(※)に扮し、76年前と同じ場所、同じアングルで当時を再現するという趣向を凝らしたのです。
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 修復の過程で最も懸念されたのが、修復したことでもともとの武徳殿の面影が失われてしまうことでした。そのため、関係者が日本や台湾に残されたあらゆる武徳殿に関する資料を集めたところ、幸運にも地元史を研究する康文栄さんから、1936年に撮影された新化壮丁団が武徳殿の前庭で撮影した集合写真の提供を受けることが出来たということです。

 お披露目の式典には、台南市政府の関係者や区長、市議員、ボランティアら25人が軍服に着替えて撮影。武徳殿の復刻に一役買った写真を再現しました。
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 新化武徳殿の建設は、資料が残っていないため詳細は分かりませんが、地元住民の証言などにより、1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)の間と推定されており、1936年(昭和9年)に一度改修されたことがわかっています。

 戦後は外省人の住処になっていましたが、2005年に無人化、2009年の大型台風で損傷したため修復が行われていました。

(※)壮丁団 治安維持のために組織された隣組のような制度「保甲」の中で結成された自警団のこと。警察の指揮・監督下で治安維持の補助的役割を果たしました。
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by ritouki | 2012-07-28 23:10 | イベント
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 「三貼」とはバイクの3人乗り、「四貼」なら4人乗りのことです。台湾でもちょっと地方へ行くと当たり前のような光景になっていますが、さすがに首都台北では夜市に繰り出す時間帯でもない限りあまり見かけなくなりました。ところが、今日は久しぶりに公館でそんな光景に遭遇。父ちゃん母ちゃん姉ちゃんに弟でしょうか。夕暮れ時だったのでこれから晩御飯?
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by ritouki | 2012-07-27 23:46 | イベント
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 1992年、国民党政権のブラックリストが解除されるまでの間、海外留学中に台湾独立運動に参加したり、蒋介石・蒋経国親子を批判するような言論を行った台湾人はパスポートを剥奪され、故郷に帰国できないという仕打ちを受けました。パスポートを失った彼らは、政治的庇護を受け、不安定な滞在資格で海外にとどまらざるを得ませんでした。

 羅福全・元駐日代表も、そうした苦境に立たされても妥協するどころか、自分の主張を曲げることなく台湾のため、奥様の毛清芬さんとともに声を上げ続けてきた一人です。1964年2月28日、米国留学中だった羅福全夫妻はワシントンDCの中華民国大使館前で行われたデモに参加したことでパスポートを剥奪されました。その後は米国国籍の申請をすることもなく、祖国の庇護も受けられないという無国籍に近い状態になったわけです。

 1973年、羅氏は国連地域開発センターで国際比較研究の職を得ましたが、研究や学会のため、海外へ頻繁に出張せざるを得ませんでした。そこで、国連事務局が羅氏に発給したのが「国連パスポート」でした。その後、このパスポートは羅氏とともに、中国を含む世界各国を駆け巡ることになります。
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 1992年4月、台湾の中央研究院が国連大学で教鞭を執っていた羅氏を学会に招きました。しかし、羅氏はブラックリストに名前が掲載されており、中華民国パスポートを所持していなかったため、台湾への入国が認められない状態でした。

 こうした事情に関心を持ったNHKは、羅氏を取材するとともに、駐日代表処にパスポート発給を再度申請してはどうかと勧めたそうです。羅氏の無国籍状態の報道が、奇しくも国民党のブラックリストという非道を天下に晒したのです。羅氏は駐日代表処にパスポート発給を申請。まだブラックリストが解禁になっていませんでしたが、当時の林金莖代表は発給を許可。これにより、羅氏は1992年5月に再びパスポートを取得して台湾へ戻りました。ただ、帰国した際、桃園空港で2時間の事情聴取を受けたそうです。

 2000年(平成12年)3月、民進党は総統選挙で勝利をおさめ、台湾初の政権交代が実現しました。そして、陳水扁総統が駐日代表(駐日大使に相当)に指名したのが、国連大学で長年研究生活を送っていた羅氏でした。羅氏同様、何十年も台湾へ帰国できない「ブラックリスト組」からは、黄昭堂氏や金美齢氏をはじめ多くの台湾独立運動参加者が国策顧問などの要職に就いています。

 2004年、陳水扁総統の2期目がスタートすると、駐日代表は許世楷氏に交代しましたが(許氏もブラックリスト組)、羅氏は台湾へ戻り、亜東関係協会の会長に就任。亜東関係協会は国交のない日台間の外交を、政府に替わって取り仕切る窓口機関(日本側の窓口は財団法人交流協会)です。ポストは替わっても、対日外交の重要な舵取りを任されたわけです。

 その後、羅氏は亜東関係協会会長も退任し、現在では台湾安保協会会長などを務めるかたわら、本会が開催している日本李登輝学校台湾研修団でも講師を務めていただくなどしています。

 そんな羅氏が携わった日台外交の成果をとりまとめた新刊が発売されました。台湾にとって、日本および米国との対外関係は要であり、国際社会における生存空間を確保するカギとなります。しかし、そこには常に中国による圧力という壁が立ちはだかり、日米台間の関係を複雑かつ敏感にしています。
 
 この本は、国連での勤務や日台外交の最前線に携わった立場から、東アジアの国際関係や対中外交の戦略について語るとともに、在任中の日台外交を振り返りながら実務外交の重点を語った内容になっているとか。8月5日には台北市内のホテルで新刊発表の座談会も開かれる予定です。

 『 羅福全與台日外交』 主編 張炎憲/陳美蓉 出版社 呉三連台湾史料基金会
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by ritouki | 2012-07-26 00:18 | イベント
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 以前読んだ産経新聞に「今年はおしゃれステテコが流行!」という記事が掲載されていましたが、半信半疑でした。しかし、台北市内のユニクロでは本当にステテコが販売中!流行っているかどうかは別にして、ステテコがこんなにおしゃれになって売られているというのは本当のようです。

 うろ覚えの産経新聞の記事を検索してみたところ、ステテコ流行発信の旗手はユニクロ。今年は4タイプ80色柄以上のステテコを、国内だけでなく海外10カ国でも販売する、とか。

 いくら流行していると言われても、ちょっと穿くのには勇気がいりそうです。ステテコと聞くと、どうしてもカンカン帽に腹巻きのセットが必要な気がします。
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by ritouki | 2012-07-19 19:14 | イベント
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 台北帝国大学の流れを汲む台湾大学の総合図書館で資料探しをしていると「台北帝国大学」の蔵書印が捺された古い書籍に出会うこともしばしば。

 『早稲田文学』は1891年(明治24年)に創刊されましたが、その後しばし休刊。1906年(明治39年)に復刊され、自然主義文学を標榜する牙城となりました。

 画像の第2次創刊号の右側には「昭6.3.25」のスタンプが。台北帝大の創立は1928年(昭和3年)3月ですから、創立から約3年後に所蔵されたということを示していると思われます。
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by ritouki | 2012-07-18 19:05 | イベント

日本時代からの絆は今も

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 今回のツアーには、日本時代の宜蘭地方で名門女子高と呼ばれた「台北州立蘭陽高等女子学校」出身の竹中信子さんともうひとり、やはり蘭陽高女出身の山浦幸子さんにも加わっていただいています(写真右)。山浦さんは蘭陽高女での竹中さんの先輩にあたります。ツアー途中の何気ない会話で判明したのは、山浦さんの出身はなんと私と同じ栃木県足利市。世間というのは狭いもので、悪いことは出来ません。

 山浦さんは6歳の時、お父上が台湾総督府へ勤めることになり渡台。その後、台湾をわが故郷として暮らしていましたが、日本が大東亜戦争に敗れたことで日本内地へ引き揚げざるをえませんでした。敗戦の翌年1月か2月ごろ、御兄上がスマトラに出征していた関係で優先的に引き揚げ船に乗船出来たそうですが、今回、蘇澳の街を訪れたのは実にそれ以来、67年ぶりのことでした。
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 戦後、何度か台湾へ遊びに来る機会があり、その際にはいつも蘭陽高女の友人たちが色々と世話をしてくれたそうですが、南部などへの旅が多く、結局はこれまで「故郷」の蘇澳を訪れずじまい。今回やっと念願が叶い、幼少時代から青春までを過ごした懐かしの地を訪れることが出来ました。

 山浦さんは息子さんとお孫さんの3人で参加。竹中さんから今回の旅を誘われたとき、足が悪いこともあって「ちょっと無理かなぁ」と思い、断念しようとしていたところ、お孫さんから「ばあちゃん、オレがついてくから行こうよ」と言われたのだとか。そして「お前(孫)が行くならオレも行く」と息子さんにも言われ、お嫁さんにも「行ける時に無理してでも行ったほうがいい」と背中を押されたことで台湾行きを決心したそうです。

 戦後初めて訪れた母校の蘭陽高女は現在国立蘭陽女子高級中学と名を変え、当時の校舎も周囲の風景も一変していましたが、再訪したときには泣けて泣けてしかたがなかったとか。昔懐かしい仲間たちとも再会を果たし、時間は一気に日本時代へとタイムスリップ。女学生時代に戻ったかのようにおしゃべりは尽きません。時にはおでこを突き合わせてナイショ話?まさに出発直前のその瞬間まで皆さん肩を抱き、手を取り合って別離を惜しんでいました。
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 いくら時は経てども、若き日々の絆は今も変わらず。「湾生」という言葉は、日本時代の台湾で生まれ育った人を指す言葉ですが、この言葉ひとつでは決して形容できない人生模様がひとつひとつ存在することを感じました。

 山浦さん曰く「最後に蘇澳に来られたからもう思い残すことはない」なんて物騒なことを言っていましたが、まだまだ元気元気。来年もぜひ台湾へいらっしゃるのをお待ちしています。
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by ritouki | 2012-07-17 23:40 | イベント
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 ツアー最終日。南澳郷武塔村を後にして無人駅の台鉄武塔駅から乗車。途中、蘇澳新駅で乗り換えれば台北までは2時間弱です。

 午後はフリータイム。同行していただいた竹中信子さんと、やはり日本時代の蘭陽高女出身で竹中さんの先輩にあたる山浦幸子さんを龍山寺にご案内。その後、名物のマンゴーかき氷を楽しみ、華西街夜市を散策してホテルへ戻りました。
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 夜は6時から台北市内のレストラン「呂桑食堂」で、阮美姝さんご招待による晩餐会。台北から合流したメンバーも加わり、その後は阮さんのご自宅へお邪魔して阮さんの白色テロ体験を伺うことになりました。

 結婚式を挙げた数日後、自宅を訪れた官憲が体調不良で臥せっていたお父上の阮朝日氏(台湾新生報社長)を連行。そのままお父上が帰宅することはありませんでした。お父上は囚われているだけだと信じ続け、何度も警備総司令部に問い合わせても「そのような人はいない」という虚しい回答が届くのみ。それどころか「必要ならば軍を出動させてお父上を探してあげよう」という甘言で籠絡しようとしたとか。

 十数年後、日本で王育徳氏が書いた『台湾 その苦悶する歴史』を手にとった阮さんは、そこに「阮朝日氏は連行されて間もなく銃殺された」との記述を発見し、初めて父が処刑されたことを知ります。

 その後、白色テロで被害にあった人々や、突然家族を失った人たちを訪ね歩き、聞き書きをすることで真相解明を数十年続けてきました。

 白色テロが終息し、台湾の人々が自由にものを言えるのようになるのはずっと後、李登輝総統の登場を待たなくてはならなかったのは周知のとおりです。
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 228事件や白色テロの真相解明は李登輝総統から陳水扁総統の時代まで続きましたが、詳しい部分についてはまだまだ判明していないというのが実際のところです。

 年々少なくなる白色テロの被害者たち。それに反比例して、台湾の歴史を知らない若い世代も増えています。日本が戦後の復興と高度経済成長を享受していた頃、かつて歴史をともにした台湾がこのような状況に陥っていたことはほとんど知られていませんでした。

 もう時間がたっぷり残されているわけではありませんが、こうした人たちの声を少しでも多く集めていきたいと思います。
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by ritouki | 2012-07-16 22:44 | イベント