台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 レストランで昼食後、続いて一行はサヨンの故郷を訪ねます。渡辺はま子が歌った『サヨンの鐘』、李香蘭が主演した同名映画を耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 『サヨンの鐘』は1938年(昭和13年)、実際に南澳で起きた事故を基にして制作された歌であり、映画でした。

 南澳の山間部にあるタイヤル族の部落、リヨヘン社に警丁として赴任していた田北正記に召集令状が届き、出征で南澳の街に向かうため、山を下りることになりました。教育所の先生も兼任していた田北氏の見送りや荷物運びのため、11人の若者が同行して部落を出発しましたが、そのなかにサヨン・ハヨンという17歳の少女が含まれていました。
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 1938年(昭和13年)9月27日、一行がタビヤハン社の南渓に架けられた仮設橋を渡っていた際、サヨンは足を滑らせ、折からの台風で増水していた激流に姿を消しました。捜索の結果、約1.6キロ下流でサヨンが運んでいたトランクが見つかりましたが、サヨンの姿を発見することはできませんでした。事故の翌々日の台湾日日新報がその模様を伝えています(台湾大学所蔵。元の紙面がかすれているため、デジタル化したものも判読が難しい状況になっています)。

 そして、捜索は打ち切られ、およそ2ヶ月後の11月26日には、孝行娘として評判だったサヨンを悼み、地元青年団によって慰霊祭が行われています。これは蕃地と呼ばれた山地では異例のことだったそうです。総督府からも理蕃課長が出席、州知事からは弔慰金が贈られ、台湾日日新報にもその記事が掲載されました(11月30日付)。ただ、後年流布する「川に落ちたサヨンは、さようならーと叫びながら濁流に呑まれていった」というようなエピソードはこの報道の時点では触れられていないため、事実なのかどうかは分かりません。

 さらに、12月6日には蕃地巡視途中の藤田傊治郎・台北州知事が墓参。下はサヨンのお墓の写真です。このお墓が現在どうなっているかは今回の宜蘭ツアーでは調査しなかったため不明です。

 しかし、後にサヨンのエピソードが軍国美談として一人歩きを始め、戦意高揚などに一役買ったことなどを考えると、戦後はその存在が脅かされた可能性は高いと思われます。ただ、サヨンの住んでいたリヨヘン社は、後に平地へ移住してしまっており、部落自体が放棄された可能性もあります。
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 国際情勢が風雲急を告げてきた3年後のこと。1941年(昭和16年)4月15日の報道で、この年2月に台北市公会堂で開かれた高砂族青年団皇軍慰問学芸会において、サヨンの故郷リヨヘン社の若者たちがサヨンの遭難した哀歌を披露し、臨席していた長谷川清・第18代台湾総督をいたく感激させた、とあります。

 その後、長谷川総督はサヨンの「篤行」を表彰するための物品を理蕃局に選定させたところ、記念品としてふさわしい鐘が見つかったことから、サヨンの実兄バット・ハヨンとサヨンが生前姉のように慕っていた女子青年団長の松本光子の二人を総督府へと呼び、弔慰金とともに記念の鐘を贈りました。そしてこの鐘が「サヨンの鐘」のいわれとなるのです。
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 そもそもサヨンの事故発生直後は、総督府側も、実質総督府の監督下にあった台湾日日新報も、この事故を軍国美談に仕立て上げ、理蕃政策や戦意高揚に利用するというアイデアは持っていなかったのかもしれません。事故が発生した1938年(昭和13年)から長谷川総督がサヨンのエピソードを耳にする1941年(昭和16年)の3年間、慰霊祭や藤田台北州知事の墓参を除けば、わずかな関連記事が報道されているのみでした。

 しかし、1930年代後半から中国大陸で続いていた支那事変、米国との開戦の可能性による戦意高揚の必要性、皇民化運動の引き締め強化、台湾総督が長谷川の前任の小林躋造から再び武官になったことなど様々な要因や思惑が絡み合い、サヨンは「愛国乙女」となり、事故が「軍国美談」に仕立て上げられていった感は否めません。

 リヨヘンには「愛国乙女サヨン遭難之地」の石碑が建てられたり、サヨンが濁流に呑まれた橋のたもとに慰霊碑が建てられました。また、藤田州知事が贈った哀悼の歌が刻まれた石碑が、鐘楼の隣に建立されるなどしましたが、いずれも写真が見つかるだけで建立の年代は明確に判明しませんでした(下の鐘の写真は『民俗臺灣』第39号より)。
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 長谷川総督が鐘を贈ったことが大きく報道されると「サヨンの鐘」のエピソードは一人歩きを始めます。サヨンの事故が内地でも報道されると、それを目にした人気歌手の渡辺はま子が曲にすることを希望。そして西条八十と古賀政男のゴールデンコンビによる「サヨンの鐘」が完成し、開戦前夜ともいえる1941年(昭和16年)11月に発売されると、曲のヒットとともにサヨンの美談もいっそう広がっていくことになります。

 曲がヒットすると続いては映画化の話が持ち上がります。ただ、映画自体は、片倉佳史さんの著書『台湾に生きている日本』によれば台湾総督府が資金提供や窓口を買って出たことで撮影されたものということです。総督府側には、映画によって「少女の善行、徳行、そして愛国心をさりげなく全島に普及させる」という思惑の隠れた宣伝映画だったということになるでしょう。

 サヨンの故郷リヨヘン社は、1941年(昭和16年)から台湾総督府が始めた山地名改称の一環として、1942年(昭和17年)に「鐘ヶ丘村」と改称されました。リヨヘン社はもともと山間部にある部落でしたが、後に平地へ移住し、現在では南澳郷武塔村と名を変えています。社団法人台湾山岳会の機関誌『台湾山岳』第13号(昭和18年12月発刊)には、当時の地図が掲載されており、位置関係が分かります。
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 サヨンの鐘はリヨヘン社が平地へ移住した後、何者かに盗まれてしまいました。しかし、それを伝え聞いた門脇朝秀さんが新しく鐘を贈りました。整備されたサヨン記念公園には新しく贈られた鐘を戴く鐘楼と鳥居が建てられています。

 また、現在でも「愛国乙女サヨン遭難之碑」は武塔村に残されていますが、碑の表面は削り取られ、かろうじて読み取れる程度です。一説には、戦後国民党によって碑文を削られた後、川に捨てられていたものを、地元の人々が再び引き上げて建立しなおしたものだとか。
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 今日の野外スケジュールはこれにて終了。一行は、武塔村にある民宿「三枝の宿」で原住民料理の夕食を堪能。明日は台北へ戻ります。
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by ritouki | 2012-07-15 23:58 | イベント
 羅東を午前9時に出発。蘇澳と花蓮港を結ぶ蘇花公路を通り、南澳へ向かいます。眼下に広がる雄大な太平洋の姿を楽しみながら南澳に到着。まずは雑誌などでもよく紹介される「建華冰店」に立ち寄り、かき氷のおやつ。このお店の看板メニューは2つあり、ひとつはかき氷の上にアイスをのせたもの。もうひとつはなんと「生卵入り」!確かにプリンなどのデザートには卵をよく使いますが、かき氷に生卵とは!肝心の味は・・・非常に微妙でした。
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 氷を削る機械は日本時代から使われているもの。削った氷の上にピーナッツなどのトッピングを添えて出来上がりという、いたくシンプルなものですが、素朴な味がかえって印象深く残ります。
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 気を取り直し、すぐ近くにある南澳泰雅文化館へ。南澳は山が多く、住民の多くはタイヤル族で占められているそう。館内にはタイヤル族の男にとって一人前の証である刺青を入れる道具や、午後訪れるサヨンに関する展示がありました。

 続いては南澳神社跡へ。大型バスでは近くまで行くことが出来ないため、途中から徒歩で神社へ。36度の気温と直射日光ではあっというまに汗が吹き出してきます。小高い丘に住宅が集まった風景は、以前訪れた台東の風景とうりふたつ、どちらも高砂族が多く暮らす街です。

 こんもりと茂った山のふもとにバス停があり「南澳神社」の表示。さっき地元の人に道を尋ねた時も「南澳神社」というだけですぐに通じました。地図にもそのように表記されており、本殿はないものの、現在でも地元の人々には「南澳神社」の名前で通っているようです。
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 本殿は戦後間もなく取り払われ、その後は孫文の胸像が置かれていたようですが、それも近年になって撤去されています。行政院文化部が運営する「国家文化資料庫」には、孫文の胸像があった頃の写真がありました。
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 南澳神社の創建は1936年(昭和11年)10月7日。南澳神社の名前で呼ばれていますが、正式名称は「南澳祠」でした。「祠」とは規模の小さな神社を指し、僻地や人口の少ない山地に設置されたようです。また、通常の神社にあるような狛犬や神馬、石灯籠などは置かれず、本殿と参道だけという簡素な形式がとられているのが大半です。南澳祠創建の模様は台湾日日新報でも報道されており、台湾大学図書館には昭和11年当時の写真が収蔵されていました(出典は『高砂族の教育』台湾総督府警務局)。

 南澳祠の御祭神は天照皇大神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、北白川宮能久親王で、例祭日は台湾にある多くの神社と同様、北白川宮能久親王が薨去された10月28日とされていました。
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 当時神社だったものを明確に示すものは残されていませんが、南澳の街を見下ろす高台に位置し、神社にまっすぐ伸びる階段や、本殿へ昇る階段を見ると、ここに間違いなく神社が存在したことを確信させてくれます。これはまさに日本人の私たちだけが持つ感性と言ってもいいのではないでしょうか。階段の両脇には、誰が植えたのか2本の椰子の木があたかも鳥居のように屹立していました。
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by ritouki | 2012-07-15 19:37 | イベント
 夜は宿泊する羅東「幼獅大飯店」のオーナーご夫妻のご招待による晩餐会。奥様は竹中さんの出身校、蘭陽高女の先輩にあたるということで特にご紹介いただいたホテルです。

 連絡の行き違いでちょっともたつきましたが、無事に全員揃って晩餐会スタート。と思いきや、テーブルに座るオーナーにどこか見覚えが。思い出したのは、竹中さんが「ご主人も早稲田出身で・・・」というひとこと。そう、オーナーの陳さんは校友会でも何度かお目に掛かったことのある大先輩でした。

 また、このツアーには、竹中さんの蘭陽高女の先輩にあたる山浦幸子さんも参加。戦後初めて故郷の蘇澳を訪れる山浦さんは、再会した蘭陽高女の仲間たちや国立蘭陽女子高級中学(=蘭陽高女の後身)の曹学仁校長らに息子さんやお孫さんをうれしそうに紹介していました。
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 晩餐会も無事に終わり、参加者はホテルまで歩いて帰宅。というよりも、お目当ては途中にある「羅東夜市」。台北の士林夜市と比べても遜色ない規模の大きさの羅東夜市は、宜蘭県が誇る観光スポットのひとつです。ただ、観光化されてしまっている台北の一部の夜市と比べると、羅東夜市はローカル色が濃く、むしろこちらのほうが夜市の「原型」なのではと感じます。残念ながらお腹はすでにいっぱい。でも皆さん、めいめいにデザートやドリンクを仕入れてホテルへと帰って来ました。
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 久しぶりの再会を喜んだ蘭陽高女のお仲間たちのおしゃべりは尽きず。カメラを向けると「美人にとってくれなきゃダメよー」と厳しい要求が飛んできます。

 ホテルへ戻った後も、オーナーの陳さんは若い参加者に宜蘭について色々とご教示いただいた様子。次回は私もゆっくりと羅東夜市を楽しみたいと思います。
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by ritouki | 2012-07-14 23:59 | イベント
 暑さしのぎに束の間の冷泉を楽しんだ一行は、バスで南方澳へ移動。昼食を地元の有名海鮮レストラン「富美活海鮮」で楽しみ、午後の日程へ。
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 まずは豆腐岬へ。この変な名前の岬は、日本時代に防波堤が作られた際、太平洋の荒波を防ぐのに長方形の防波堤が有効だったことから、コンクリートによる四角い二つの防波堤が築かれ、それが水の中の豆腐に似ていることからその名が付けられたようです。
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 現在では防波堤の設置も進み、当時の面影はありませんが、水は澄んでおり、地元の子供たちやおっさんが海水浴を楽しんでいました。

 また、この場所は昨年9月19日、東日本大震災に対する台湾からの大きな支援に感謝して、与那国島から台湾まで110キロを泳いで渡った日本のスイマーたちが到着した場所でもあります。ゴールの際は、台湾側からも200人近い人々が沖合数百メートルまで出迎え、一緒にゴールしたとか。

 さらに、海に向かって右側の崖に小学校があり、その下の砂浜から西郷隆盛が上陸したと推測されており、南方澳の一角に住んだと言われているそうです(東京新聞の迫田記者からこっそり教えてもらいました)。ともあれ、こんな鄙びた海辺ですが、もうちょっと調べてみる価値がありそうです。続報はブログ上に掲載します。

 その後、一行はお寺めぐり。南方澳は海の街。漁業で生計を立てる人々にとって、海の安全は何よりも大切なもの。そのため、海の守り神である媽祖様を祀る廟が至るところに建立されています。
 
 金媽祖廟には1階から3階までそれぞれに媽祖様が。1階には普通の媽祖様、2階にはヒスイの媽祖様、3階には金の媽祖様が鎮座しています。李登輝元総統も1990年にこの廟を訪れています。台湾では時に神様が進香(ありがたい神様が地方に出張し、地元の人々以外にも御利益を分け与えること)することがありますが、1階には出張用の車輪がついた媽祖様が脇に控えてらっしゃいます。
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 また、金媽祖廟から歩いて5分ほどのところにある進安宮にはなんと地元名産のサンゴで作られた媽祖様が。ヒスイ、金、サンゴと、とにかく絢爛豪華な媽祖様のオンパレードでした。道すがら、進香にやって来た神様が地元へお帰りになる行列にも出会いました。
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 そして締めくくりは海軍基地の中にある媽祖廟。海軍にとっても海の安全は第一、軍事基地の中に祀られている神様は台湾でここだけです。

 ゲートで媽祖廟参拝の申請をすれば一般人でも基地の中へ入ることができます。廟の撮影も可能ですが、軍港や基地に向けて撮影することは禁じられています。

 この廟の管理運営もすべて兵隊さんの手によってなされているそうです。
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 この後、一行はバスで今夜宿泊する羅東の幼獅大飯店へチェックイン。このホテルの女将さんは竹中さんの蘭陽高女時代の先輩だとか。今夜はオーナーご夫妻のご招待による晩餐会です。
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by ritouki | 2012-07-14 23:58 | イベント
 「蘇澳温泉・蘇澳冷泉祭り・サヨンの鐘の地をめぐる」宜蘭ツアー2日目。

 実は今回のツアーには『植民地台湾の日本女性生活史』(田畑書店)の著者である竹中信子さんにご同行いただいています。竹中さんは湾生、つまり日本時代の台湾生まれ。祖父の竹中信景氏は蘇澳冷泉の開発に尽力したことでご当地蘇澳では広くその名を知られていて、お孫さんである竹中信子さんが訪問するとまるでVIPのような扱いを受けるとか。
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 全員が揃ったところで、蘇澳冷泉へ出発。気温は36度、台北とほとんど変わりありませんが、盆地の上にアスファルトと高層ビルで囲まれた台北に比べると、緑の多い宜蘭はちょっと涼しく感じます。と書いてみたもののやっぱり暑い!

 ちょうど「蘇澳冷泉文化節」というイベントが開かれており、会場では蘇澳鎮の林騰煌・鎮長(郡長)をはじめ多くのスタッフの方々が出迎えてくれました。地元の小学生たちの演奏に耳を傾ける竹中さん。竹中さんの生まれは台北ですが、一歳で蘇澳に移ってから敗戦で内地に引き揚げるまでずっと蘇澳育ち。毎年一度は蘇澳を訪れているそうで、戦後67年を経ても故郷であることに変わりはありません。
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 前述のとおり、竹中さんの祖父、竹中信景氏は「蘇澳冷泉開発の父」として知られています(※)。もともと、冷泉には大量の炭酸が含まれていて、水に落ちた昆虫が死んだりすることから地元の人々には有毒な水として恐れられていました。

 しかし、日本の統治が始まる数年前、軍事行動で台湾を訪れていた竹中信景氏が蘇澳を通過した際、冷泉を飲んでみたところ「元気百倍」になり、この水に深い関心を抱きました。その後、日本の台湾統治が始まると、間もなく竹中氏は蘇澳に定住し、冷泉の研究と開発に着手しました。

 そして、冷泉には毒性がなく、皮膚病や胃腸の病気に効能があることだけでなく、ラムネの材料として使えることも発見しました。竹中氏は私財を投じて工場を建設し、ラムネやサイダーの製造を大々的に展開、台北や花蓮港にまで販売していることを伝える記事が大正9年4月22日付の台湾日日新報漢文版に掲載されています。ラムネの製造販売は戦後も続いたようですが、現在では地元名物として細々と製造されているにすぎないようです。
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 竹中氏の研究により、冷泉が温泉と同じように身体に良い効能があることが分かると、冷泉の開発も進み、現在の冷泉公園の前身も作られていきました。

 冷泉を見下ろせる場所に「冷泉先駆者紀年」の碑と、その経緯を記した石碑が置かれています。近くの道は「冷泉路」と名付けられ、時代は移り変われど、冷泉が地元の人々に愛されていることに変わりはないようです。
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 ※竹中信景氏が「冷泉を発見した」と記述されている資料もありますが、冷泉そのものの存在はすでに地元の人々に知られており、冷泉の研究および開発を推進した先駆者という表現の方が真実に近いと思われます。
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by ritouki | 2012-07-14 23:50 | イベント
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 今日から16日まで、「日本と台湾を考える集い」が企画、「共栄ツアーズ」が受託催行、本会がバックアップした「蘇澳温泉・蘇澳冷泉祭り・サヨンの鐘の地をめぐる」宜蘭ツアーです。

 広大な宜蘭平野と雄大な山々、蘇花公路を走るバスから眺める太平洋など様々な顔を持つ宜蘭ですが、実は私はあまり宜蘭に詳しくありません。全台湾の中で、最も訪れた回数の少ない街といってもいいかもしれません。今回のツアーでは、温泉の街・礁溪、冷泉の街・蘇澳、文教の街・宜蘭、政治経済の中心・羅東を周る盛りだくさんのツアーのため、宜蘭のことをもっと知ることが出来るでしょうか。

 初日夜、日本各地からのツアー参加者は礁溪駅そばの「山泉大飯店」に集合。そのため、午後2時過ぎにMRT台北市政府駅の上にあるバスターミナルから首都客運に乗って礁溪へ出発。バスは約10分に1本が出発していますが、羅東行きや宜蘭行き、礁溪を経由するものやしないものが混在しているので、電光掲示板の表示などに注意しましょう。

 台北市内からは雪山トンネルを通って礁溪まで50分ほど。ホテルの目の前で停まってもらい、一眠りする暇もなく着いてしまいました。夜の集合までまだ時間があるので、在来線に乗って15分ほどの羅東駅へ。

 羅東駅そばには羅東林業文化エリアが広がっています。ここは日本時代、太平山で伐採された材木を運搬するのに使われた羅東森林鉄道や木材の貯蔵池でした。もともと、伐採された木材は蘭陽渓に放流するやり方で下流まで運搬していましたが、1924年に運搬のための森林鉄道が開設されたのです(下の画像は昭和8年に台湾総督府営林所が発行した『営林所の事業』掲載のもの。台湾大学図書館所蔵)。
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 森林鉄道の終点は「竹林駅」。森林鉄道は1989年にその役割を終え、2004年に羅東林業文化エリアに生まれ変わり、市民の憩いの場になっています。
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 当時の駅舎は文化エリアの玄関として現在も使われ、当時活躍した機関車たちが展示されています。
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 夜、ホテルに集合した参加者は礁溪駅前のレストランで宜蘭料理を堪能したり、礁溪温泉を楽しんだり。明日午前は蘇澳で開催中の冷泉文化節に参加し、羅東へ移動します。
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by ritouki | 2012-07-13 22:08 | イベント
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 国立台湾大学の前身は1928年(昭和3年)に設立された台北帝国大学。現在でも台大総合図書館には、帝大時代の膨大な蔵書が収められています。

 そのため、古い資料を探していると帝大の蔵書印や蔵書票に出会うこともしばしば。その中でも、この蔵書票はあんまりお目にかかったことがありません。帝大時代の蔵書たちと数十年、時には100年以上の時間を隔てて出会うことにも何かしらの縁を感じます。
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by ritouki | 2012-07-12 22:44 | イベント
 7月9日、在留カード制度のスタートによって、これまでの外国人登録証では「中国」とされてきた台湾人の国籍欄の記載が、やっと「台湾」に是正されました。林建良先生が言うように「マイナスの状態から、やっとゼロになった」わけで、まだまだ理想には遠いものの、大きな前進といえるでしょう。当日はテレビのニュースでも流れたようです。
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 この「正名運動」は、2001年6月、当時の林建良・在日台湾同郷会会長が外登証の国籍欄改正を求めて「正名運動プロジェクトチーム」を発足したのを嚆矢としています。この「正名運動」は後に台湾にも波及し、民進党政権の時代には中正国際空港が桃園国際空港へ名称変更されるなど、本土化を大きく推進する起爆剤となりました。

 それから12年、日本の外登証改正問題については、本会をはじめ、在日台湾同郷会など多くの団体の協力や、個人の方々の署名、国会議員の方々の国会による質疑などにより、ついに出入国管理法の改正を経て、在留カードの国籍欄に「台湾」と記載されるに至ったのです(正名運動12年間の歩みはこちら)。

 在留カード制度の法的本拠となるのは、2009年7月8日に可決成立した「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する等の法律案=3月6日内閣提出法律案)」。

 改正された出入国管理法(=法律第79号)は可決翌週の7月15日に公布され、3年以内に在留カード制度が施行されることとなっていましたが、それがこの今年7月9日に陽の目を見たということです。

 この外登証改正12年の足跡を振り返ると、スタートしたのが2001年6月ですから、民進党政権発足の約1年後ということになります。そして、出入国管理法が改正されたのが2009年7月、台湾の政権が再び国民党の手に移ってからやはりおよそ1年後のことでした。

 この間、前述のとおり数えきれない方々の有形無形の努力と協力があったことは言うまでもありませんが、特に駐日代表(駐日大使)を務めた羅福全氏(2000年〜2004年)と許世楷氏(2004年〜2008年)のお二人の尽力は特筆すべきものがあります。

 お二人の経歴に共通するのは、台湾独立運動に関わったことでブラックリスト入りし、長年祖国の土を踏むことがかなわなかったこと。そして、羅大使は早稲田大学修士→米ペンシルベニア大学博士を経て国連大学へ、許大使も早稲田大学修士→東京大学博士の後、津田塾大学で長年教鞭を取っており、学問の世界に身をおいていたことです。

 お二人とも大使在任中は、留学、独立運動、学術世界で培った人脈と見識をフルに発揮し、李登輝元総統をして「1972年の断交以来、日台関係は最高の状態」と言わしめました。台湾人観光客のノービザ制度、日台相互の運転免許証承認、5度に亘る李登輝元総統の訪日実現(2001年、2004年、2007年、2008年、2009年)など、日台関係は大きく前進しました。もちろん、今回の在留カード国籍欄への「台湾」記載の実現も、お二人による陰日向の尽力があってこそです。
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 ところが、今般の在留カード制度発足を受け、台湾の外交部が発行する「Taiwan Today(日本語版)」には「前任の馮寄台代表の任期中にようやく、日本の与野党の協力のもと、2009年の入管法の改正に合わせた法的整備が実現した」と記載。あたかも国民党政権の時代になってやっと改正が実現されたかのような書き方です。

 2001年から2009年までの期間、そのほとんどで外登証改正のために努力を続けてきたのは、民進党政権であり、民進党によって派遣された羅福全、許世楷の両大使であり、日台双方の心ある人々なのです。馮寄台氏の貢献がゼロだとは言いませんが、こうした読者をミスリードする記事の書き方は、お膳立てが出来たところを掠め取っていく泥棒猫のようなものです。

 「歴代の駐日代表(駐日大使)もこれを是正するよう日本政府に求めてきたが」といった単なる羅列ではなく、きちんと民進党政権時代の功績を評価して欲しいところですが、“中華民国”外交部には望むべくもないことでしょうか。少なくとも、外登証改正のために署名をして下さった皆さんや、ご協力をいただいた多くの団体の方には、正名運動に成功に本当に貢献したのは誰かを心に留めておいて欲しいと願います。

 【追記】7月12日付の中国情報サイト「サーチナ」の記事にはもっとひどい表現がありました。10日付の台湾紙・聯合報の記事を引用するかたちで「日本に50年間住んでいる76歳の連根藤さんが、9日朝早くに東京都入国管理局に行き手続きをした。(中略)この制度が施行されたのは、5月に台湾に帰った台北駐日経済文化代表処の馮寄台元代表のおかげ」と露骨に国民党のお先棒を担いでいます。ただ、引用元と思われる聯合報の記事を確認すると「歴代の駐日代表が日本政府に改正を求めて努力してきたが、3年前の馮寄台代表の時代に法改正がなされた」と表記されているのみで、「歴代駐日代表が改正を求め、馮寄台代表の時代に改正が実現した」という表現で「馮寄台代表のおかげ」というニュアンスは全く入っていませんでした。
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 サーチナの翻訳によってその意図が改変されていますが、担当者が翻訳する際、故意に自分の主観を入れたか、無知ゆえに翻訳の筆が滑ったか、サーチナの姿勢として故意に国民党に阿る表現にしたかのどれかだと思われます。

 【追々記】その後、サーチナが引用した記事元は聯合報ではなく、中国時報の記事(配信は中央社)だということが判明しました。サーチナの誤記だと思われます。
 連根藤氏による「馮寄台代表のおかげ」という発言は、メディアからの「馮寄台代表のことにも触れてください」という要望に応えた中でのものでした。
 3年前に法改正がなされた際も、馮代表は外登証改正問題について深い関心を持っていたのは確かだったそうで、それを思い出して「馮代表の努力に感謝する」と述べたとのこと。連氏の意図が、記事の内容に反映されていない結果となったようです。詳細は本会メールマガジン第1634号をご参照下さい。
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by ritouki | 2012-07-11 11:22 | イベント
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本日発売の週刊誌『女性自身』がグラビアページで6ページを使い、澎湖特集を掲載しています。レポーターはお笑いコンビの「フォーリンラブ」のお二人。取材は6月9日から4日間にわたって行われました。

 初日は午後3時過ぎに予定どおり馬公空港に到着。県政府観光処、県長への取材協力御礼を兼ねた表敬訪問の後、馬公老街でちょっと撮影し、定番の長進餐廳へ。今夜は王県長主催の宴席です。
いつも通り、名物のウニを堪能。その前に、バービーさんとハジメさんの撮影を行いました。
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 2日目は澎湖島取材の2日目は南海めぐり。
 朝早くから船に乗って澎湖本島の南に浮かぶ七美島と望安島へ出掛けます。南海めぐりの船ツアーは通常この2島コースと、さらに火山噴火でせり出した雄大な玄武岩が見られる桶盤島、日本時代のトーチカが残る虎井島を加えた4島コースがあります。

 2島コースは、澎湖本島からいきなり最も遠い七美島を目指すので、1時間以上船に揺られることになります。天候や波の具合にもよりますが、かなり揺れるので慣れない人は船酔いに苦しめられるかも。なんとか無事にたどり着いて、早速取材&撮影開始です。

 七美島といえば、なんといってもダブルハート(雙心石滬)、何度見てもやっぱりいい風景です。ちょうど干潮の時間帯を目指して来たので2つのハートがクッキリ浮かび上がっていました。

 その後、小台湾や七美人塚で撮影後、港から数百メートルのところにある食堂「越南大骨麺」へ。オーナーは七美出身、奥さんが12年前にベトナムから嫁いで来たと同時に食堂を開店したとか。台湾の代表的グルメである「担仔麺」をベトナム風のスープで作るというオリジナルメニューが人気です。
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 撮影は順調だったのですが、いかんせん乗船の時間までの時間が限られており、フォーリンラブのお二人は、撮影を終えるとアツアツの麺を持ち帰りにしてもらい、後で堪能していました。

 澎湖本島へは午後3時すぎに戻り、続けて市内の食堂を取材。夕方には澎湖を代表するレストラン「花菜干」を訪れて取材。食料が貴重だった時代、澎湖の人々は野菜や海産物をとにかく干したり塩漬けにすることで保存食にしていました。店名の「花菜干」も、カリフラワーを干したものを指しています。干したタコと豚バラ肉を醤油で煮込んだメニューは、味付けが本当に醤油だけなのかと思うほどコッテリして深い味わい。ビールのつまみに最高です。

 今日の撮影も終わり、夜はスタッフ全員で「668海鮮餐廳」へ。清潔感あふれる店内で、新鮮な海鮮のオンパレードを楽しめます。

 道すがら、ラッキーなことに年に数度あるかないかの「廟会」に遭遇。要は廟のお祭りです。ネオンで派手に彩られた神輿を担ぎ、テクノ音楽に乗せ、電子三太子と一緒に道を練り歩きます。すごいのは交通管制まったくなし!一応、警察が交通整理していますが、神輿の横をバスやスクーターが通り抜けていきます。しかも神輿からは炎の連発!澎湖の豪快なお祭りは、今回の取材でスタッフが一番食らいついたかも。それにしても、ド迫力の廟会を見物出来たのはラッキーでした。
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 3日目、澎湖島の取材最終日。
 朝8時半に台湾本島から飛んで来てくれた旅行作家の片倉佳史さんが合流。マイクロバスで澎湖本島内の取材に出掛けます。
 その前に、今回の取材では企画段階から現地でのコーディネートまでの全てでお世話になった長立旅行社のオーナー王秀燕さんとフォーリンラブのお二人を撮影。王さんは、以前から我々がお世話になっている長春大飯店のお嫁さん。学者肌のご主人に代わり、旅行会社やホテルを切り盛りされています。王さんとご主人は日本留学中に知りあって結婚。日本語も堪能なため、我々の強い味方です。
 紙面に掲載する写真撮影のため、スタッフ一同から「ママ」と呼ばれて頼りにされる王さんもメイク中。
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 一行はまず奎壁山へ。ここはいわば「澎湖のモンサンミッシェル」です。干潮時には道が出来、向こうの島へ渡れますが、満潮になると道が隠れてしまうというもの。残念ながら、島には何もないため殺風景ですが、片倉さんによると、道の真ん中でよく「婚沙」、つまり結婚写真の撮影が行われているそうです。
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 続いては通梁ガジュマル。推定樹齢360年という巨木ですが、枝からヒゲのように伸びた「気根」がまるで根の役割を果たし、無数のガジュマルが群生しているように見えます。巨大ガジュマルの大元の根のところには「神木」として賽銭箱が。その前でハジメさんのパワースポットをイメージした写真撮影を行いました。突然始まった撮影に、たくさんの観光客も興味津々。

 そして大菓葉の柱状玄武岩へ。玄武岩へ続く小道は工事中でマイクロバスが入れません。恐らく、歩道を整備し、無意味なオブジェなどを置いて観光地っぽく整備しようとする算段なのでしょうが、玄武岩がそびえ、眼下に青い海が広がっている光景がいいのです。胴元はどこか知りませんが、はっきり言ってこうした工事はむしろ景観を損ないます。
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 その後、いつもの定番「澎湖清心飲食店」で撮影&昼食。撮影には王さんとオーナーのおすすめである「旭カニ(台湾語では海臭虫)」をセレクト。肉厚でプリプリです。他にも、新鮮な牡蠣酢、海苔たっぷりの春雨炒め、牡蠣そうめん、生ウニを堪能。

 また、残念なお話しですが、こちらの名物オーナーだった呂九瓶さんが前週90歳で亡くなられたそうです。合掌。

 一行は古い街並みが残る二崁へ移動。片倉さんによると、この地域は数年前まで廃墟同然だったものを、民間の力で再生して復元。現在のように多くの観光客が訪れる人気スポットにまで発展させたそうです。確かに、明朝・清朝時代から変わらぬ門構えの建物の中で、澎湖伝統の蚊取り線香が売られていたり、杏仁茶、風茹茶などが楽しめます。
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 取材を終え、ガジュマルの木陰で一休み。これから私は、フォーリンラブのお二人とメイクさんと一緒に馬公空港から台北へ戻ります(残りの皆さんは取材続行!)。無事18:15発の中華航空を見送って任務完了です。

 いつもながら新鮮で安い海鮮をたっぷり堪能しましたが、すでに真夏の気候になっている澎湖ではたっぷり日焼けしたせいかちょっと疲れました。また、まだ夏休みではないというのに街なかの通りは若者でいっぱい。夏真っ盛りには、ぜひまた澎湖を再訪したいと思います。

 この取材には本会傘下の「共栄ツアーズ」も協力。「『女性自身』オリジナルプラン」として「掲載観光地を訪ねる澎湖島(取扱い:ダイナスティホリデー)」もスタートしているので、ぜひご覧下さい。
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by ritouki | 2012-07-10 14:13 | イベント
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 昨日、在留カード制度がスタートし、国籍欄に「台湾」と記載されたカードが交付されました。午後には発行機械のトラブルもあったようですが、一夜明けた本日の台湾各紙では在留カードの話題が大きく報道されています。

 台湾最大の発行部数を誇る自由時報も一面トップで張茂森・駐日特派員の記事を掲載。写真は今般の在留カードの話題ですっかり有名となった連根藤先生です。実は自由時報のこの写真、記事を書く張さんに替わって、本会が提供したものだとか。
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by ritouki | 2012-07-10 09:26 | イベント