台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 本日から、これまでの「外国人登録証」制度にかわる「在留カード」制度が施行されます。外国人登録証では、台湾人の国籍欄に「中国」もしくは「中国(台湾)」と記載されていたものが、一律「台湾」という表記となります。

 2009年(平成21年)7月に「出入国管理及び難民認定法」が改正されてから、実に3年を経てついに施行の日の目を見たわけです。
 法律改正を伴う「中国」から「台湾」への国籍欄記載変更は、本会設立当初からの目標の一つでもありました。李登輝元総統もこの点にたびたび触れ、本会の活動の成果として評価していただいています。

 これまで、台湾人も中国人も国籍欄が同じ「中国」と記載されていたために中国人と混同されてしまい、賃貸契約を拒否される、バイトが不採用になる、執拗な職務質問を受けるなどの不利益を受けたエピソードには事欠きませんでした。しかし、今後は少なくとも国籍の混同による被害を受けることはなくなることでしょう。

 上の画像は、在留カード制度施行に先立ち、日本在住の台湾人留学生へ送付された仮住民票記載事項通知。今般の法改正により、外国人にも住民票が作成されることになったため、その内容を通知するという書類です。
 従来の内容を記載した通知(上の画像)では、まだ「中国」という記載になっていますが、在留カード制度施行後の内容は下の画像の通り「台湾」の表記になっています(この通知の発送対応は自治体によって異なります)。
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by ritouki | 2012-07-09 14:59 | イベント
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 東京はまだ梅雨が明けきっていないようですが、台北はすでに夏本番を迎えています。
 台北駅の壁に掲げられている温度計は33度。「それほどでも」と思われるかもしれませんが、これは午後6時の気温です。夕闇迫る時刻になってもまだまだ熱気はおさまりません。台北は夏どまんなかです。
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by ritouki | 2012-07-08 23:30 | イベント
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 もはや旧聞に属しますが、数カ月前から台北MRTの車両内の表示が、LEDによるものに変更になりました。従来の表示よりも格段に明瞭で、見やすくなった気がします。車両の外側に行き先を表示する掲示もLED仕様になっています。
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by ritouki | 2012-07-07 23:32 | イベント
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 緑のランプを見ると、辛く苦しい思い出が蘇ってくる方も多いのではないでしょうか。台湾大学総合図書館の地下には24時間開いている自習室があります。試験間近になると大入り満員になりますが、夏休み期間中の現在でも、学生がたくさん。
 そんな学生の手元を照らすランプにはレトロな緑のシェード。それもそのはず、台北帝大の図書館にあったものと全く同じデザインを復刻して使っています。そして机や椅子も少しデザインが異なりますが、基本的な形は台北帝大時代のものと同じ。オリジナルは台湾大学校史館で見られ、写真撮影の人気スポットになっています。
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by ritouki | 2012-07-06 01:33 | イベント
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 台北市の林森北路といえば、日本人にはお馴染みの「台北の歌舞伎町」と呼ばれる歓楽街です。

 しかし、この街の歴史を紐解いてみると、夜も眠らぬ歓楽街と化したのは戦後のことで、この一帯は日本時代、高級住宅街として知られていました。

 もともとこの地域は「大正町」と呼ばれる行政単位で、現在の市民大道あたりから南京東路の間、東西は新生北路から中山北路に囲まれたエリアでした。町内には総督府の官吏が住む官舎や大正町教会(現在の中山基督長老教会)があり、高級住宅街として知られていました。そのお隣りは「御成町」で、裕仁皇太子殿下(のちの昭和天皇)が1923年(大正12年)、台湾に行啓された記念碑がこの町内に建立されたことから名付けられました。下の写真は、大正町と御成町の合同奉迎の様子です。
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 戦後、国民党は日本時代の住所表記をほとんど廃止しましたが、現在でもタクシーに乗って「林森北路の◯条通り」と告げると、間違いなくその場所へ連れて行ってくれます。◯条通りという呼び方は日本時代の「一条通り」から「十条通り」という住所の名残りです。行政区画上は廃止された住所が今でも通称として使われているのです。
 ただ、戦後の区画整理等により、現在でもポピュラーに使われているのは五条通りから十条通りくらいでしょうか。
 また、日本時代には現在の南京東路は存在しておらず、大正町の北部には日本人墓地の「三板橋墓地」が広がっていました。この墓地は碁盤の目のように整備された台北市には珍しく、ひし形をしており、墓参に訪れる人々は勅使街道(現在の中山北路)側から墓地へと入っていったそうです。地図には「American Consulate(米国領事館=現在の台北之家)」や「御成町」といった表記も見えます。
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 三板橋墓地には明石元二郎総督や乃木希典総督の御母堂などが眠っていましたが、戦後は国民党下級兵士のバラック街と化し、1997年に公園として整備されるまで幾多の墓石や御遺骨がその下敷きになっていたことは以前の記事にも書きました。
 現在、南京東路と中山北路の交差点付近には日系のホテルオークラが建設中で、間もなく開業と聞きます。二二八事件で父上の阮朝日氏(台湾新生報社長)を殺され、その真相を明らかにするために一生を捧げた阮美姝さんのご自宅はこのオークラが建っている場所にありました。

 戦後、三板橋墓地の跡地から墓前にある二つの鳥居が発見され、長らく、大きい方は明石総督のもの、もう一つの小さい方は乃木総督の御母堂のものとされてきましたが、その後の調査で小さい鳥居は明石総督の秘書官などを歴任した鎌田正威氏の墓前にあったものと判明しました。その際に「乃木大将の御母堂の墓前に鳥居はなかった」と証言したのが阮美姝さんです。阮さん自身も「子供の頃、毎日の遊び場として通った場所の記憶を間違えるはずがない」と自信満々、その後の追跡調査で乃木大将の御母堂と鎌田秘書官の墓前の写真が見つかり、阮さんの記憶の確かさが証明されました。

 二二八事件で一家の大黒柱を失った阮家は、国民党に財産を没収され零落。以前、阮さんに日本時代のアルバムを見せてもらったことがありますが、大きな邸宅にたくさんの部屋があり、当時は珍しい自動車を所有していました。和服を着た家族や友人たちとスナップに収まっていた頃、その後の人生の流転を誰が予想できたでしょうか。

 現在、林森北路と名を変えた大正町ですが、今でもこの地域の発展協会では「大正町」の名前を使っています。さらに、◯条通りの名称をアピールし、地域の発展に役立てようとしているそうです。
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by ritouki | 2012-07-02 19:00 | イベント
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 「台湾式居酒屋」とか「台湾式ビアガーデン」と形容される「熱炒」。台湾の街なかを歩いていると遭遇する、店の前に水槽がいくつも置かれていて、氷満載で並べられた発泡スチロールの箱には海鮮がドーンと置かれたリーズナブルな居酒屋のことです。多くの店では料理はどれも一皿100元。背の低いイスに座り、ビールを片手に空を見上げると暑さも吹っ飛びます。台湾の風情をより深く味わいたい方はぜひ「熱炒」へ。
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by ritouki | 2012-07-01 23:15 | イベント