台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 今日から「陳文成博士紀念基金会」が主催する「火焼島之旅 2012白色之路青年体験キャンプ」に参加するため緑島に来ています。

 陳文成博士は1950年、台北生まれ。台湾大学数学系を卒業後、米ミシガン大学で博士号取得。米国滞在中、台湾の民主化運動や人権問題に熱心に取り組んだことから国民党政府に目をつけられ、1981年夏、台湾に一時帰国中、警備総司令部に呼び出されたまま戻らず、翌日早朝、台湾大学キャンパス内で死体が発見されました。この件について国民党政府は「陳文成博士は自身の誤りを悔いて自ら命を絶った」と嘯きましたが、手を下したのが誰なのかは火を見るより明らかな事件でした。

 その陳文成博士を記念して設立されたのがこの基金会で、台湾の民主化運動や人権擁護のための活動を行なっています。今日から参加する「火焼島之旅」は今年で開催6回目。18歳から35歳まで、学生を中心とした40名の若者が緑島に集まり、監獄関連施設の見学、ドキュメンタリーの鑑賞、白色恐怖被害者を招いての体験談を聞くなど、ただ緑島へ行っただけではなかなか経験出来ないプログラムが用意されています。

 今日は午後1時すぎに台鉄台東駅に集合。船で緑島へ向かいます。休憩後、さっそくドキュメンタリーを鑑賞。無実の罪で十数年もの時間を奪われた人々、残された家族の苦労、凄惨な取り調べの記憶など、自由かつ民主化された現在の台湾からは想像も出来ないような経験が語られます。
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 そして、実際の白色恐怖の被害者として私たちに体験談を話してくれたのが、蔡焜霖先生と黄廣海先生。蔡先生は名前から分かる通り、蔡焜燦先生の弟さんです。台中一中時代に読書会に参加したことを罪とされ、緑島監獄へ送られました。
 黄先生は、戦後に大陸から台湾へ渡って来た外省人ですが、国民党がもはや共産党に勝てる見込みはないと考え、友人にその旨を書いた手紙を出した咎でやられました。

 体験談を聞いた後、参加者から「白色恐怖の時代は『共匪消滅』などというスローガンで共産党と敵対関係にあったのに、現在は『親共』になっている。なぜこのような状況になったのか」と問われた蔡先生は「国民党は1950年代、『大陸反攻』を掲げ、共産党打倒を目指して、それに歯向かう幾多の無辜の人々の命を奪った。それなのに、今や国民党は共産党と手を結ぼうとしている。ならば、あの時代、失われた数多の命はどうなるのか。国民党が共産党に擦り寄るのはなぜか。私にも分からない!」と強い口調で訴えました。
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by ritouki | 2012-08-31 23:50 | イベント
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 台湾はここ数日、台風の接近などで不安定な天気が続いています。
 
 写真は林森公園に立つ、明石元二郎総督と鎌田正威秘書官の墓前に建てられていた鳥居。雨上がりで草の緑の色がひときわ映えています。
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by ritouki | 2012-08-30 23:58 | イベント
 本日午後6時から、台北市内の華様大飯店で李登輝元総統が主宰するシンクタンク「群策会」の募金パーティが開かれました。
 会場は昨年の10周年記念パーティと同様、大変な盛況で、パーティ券も早々に売り切れになったということです。

 午後6時半すぎ、李登輝元総統と曾文恵夫人、蘇貞昌・民進党主席らが入場すると会場は総立ち、万雷の拍手で迎えました。メインテーブルは、蘇主席のほか、游錫堃・元行政院長、呉栄義・新台湾国策シンクタンク理事長、黄天麟・元総統府国策顧問ご夫妻、陳南天・台湾独立建国聯盟主席ら、錚々たる顔ぶれの出席者で埋められました。
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 挨拶に立った李元総統は、設立から11年目に突入した群策会を発展的改組し、今年末までに「財団法人 李登輝基金会」を発足させると発表、同時に「李登輝図書館」の設立準備に着手することを発表しました。「李登輝図書館」の構想が発表されると、会場からは賛同の大きな拍手が起こりました。
 図書館には、李元総統個人の資料や蔵書、群策会がこれまで奮闘してきた記録などが収蔵され、台湾の民主主義の深化や台湾主体性教育の基地として利用されることを視野に入れているそうです。

 演説される李元総統は血色も大変よく、パワフルな話しぶりは健在。6月には少し体調を崩されて静養されましたが、張りのある声を聞くと完全復活の模様。まだまだお元気でご活躍いただけそうです。
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 また、今日のコースメニューに使われた食材は、すべてこの数ヶ月間に李元総統が視察に訪れた台湾中南部のものを特別に仕入れたものだとか。李元総統は数度にわたる視察を通して、地方経済が思った以上に疲弊していることに失望を受けており、経済資源が中央に偏りすぎていることを批判しました。これは、蒋介石の時代から、反攻大陸のために資源がすべて中央政府の手中に集められていたことが原因と指摘しています。
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 李元総統と写真を撮ったり、握手を求めるなどの支持者が引きも切らず、今日のパーティは大盛況のうちに午後9時前、幕を下ろしました。
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by ritouki | 2012-08-25 23:17 | イベント
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 台湾大学のキャンパスは、正門から奥の総合図書館まで椰子の木の並木道が続いています。すでに日本時代には、台大のキャンパスを代表する風景となっていたようです。

 図書館の前の広場は学生たちの憩いの場。南国の灼熱の太陽が沈み、暑さも和らいだころには、並木道の向こうに夕焼けが見えます。
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by ritouki | 2012-08-24 22:55 | イベント

立法院内のレストラン

 今夜はご招待により、立法院内にあるレストラン「康園餐廳」での晩餐会でした。立法院で食事、と聞くとなにやら大袈裟な感じがしますが、実はこのレストラン、誰でも入れます。
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 中山南路と濟南路の交差点を東側へ折れ、50メートルほど進むと立法院の側門にレストランの看板が見えてきます。台大校友会館の斜め向かいくらいです。
 門は少し狭いですが、ここを入るとレストランの入り口にたどり着けます。ただし、その先には警護の警察官が立っていて、その向こうへ自由に入ることは出来ませんので念のため。

 オーソドックスな台湾料理で美味しいメニューが揃っていました。ただ、立法院は、日本時代の台北市立第二高等女子学校(第二高女)の建物をそのまま流用しているので、内部がちょっと古いのが難点です。
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by ritouki | 2012-08-22 23:47 | イベント
 台湾でも人気のビールレストラン「Gordon Biersch」。アメリカ生まれのこのレストランは、台湾では台北に2店舗、台中に1店舗を展開しています。ウリはなんと言っても、台湾で醸造された自家製のビール。とはいっても、アメリカと全く同じ品質、味を提供するために温度設定や原料などが厳格に決められていて、出来上がったビールはサンプルをアメリカへ送ってチェックしているそうです。
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 味も、バナナの香りがする小麦ビールや、香ばしい黒ビールなど、台湾ではなかなかお目にかかれないビールも多く、私も美味しいビールを飲みたい場合は必ずここを訪れます。

 先日、コンビニに立ち寄ったら、その「Gordon Biersch」のビールが販売されていました。ラベルを見ると輸入品なので、台湾オリジナルで作ったものではないようですが、今まではお店に行かなければ飲めなかったビールが家でも味わえるのは嬉しいことです。ただ、販売されるのは現在2種類のようで、お店で提供される6種類のビールを楽しみたい場合は、やはりお店へ行くしかないようです。とはいえ手軽な楽しみが増えたことは喜ばしいことです。
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by ritouki | 2012-08-20 21:02 | イベント
 今夜は台北市内の大稲埕エリアで花火大会が開かれました。打ち上げ会場は淡水渓にかかる台北と対岸の三重を結ぶ台北橋と忠孝橋の間。

 私は取材のため、淡水から船に乗って淡水渓を遡上しましたが、橋の上と両岸の河原は文字通り芋を洗うかのような人だかり。幸い天気にも恵まれ、花火を楽しむことが出来ましたが、時間的には25分あまり。日本の花火大会と比べると、ちょっと物足りなさが残りました。
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by ritouki | 2012-08-18 23:31 | イベント
 わが日本には、終戦後まもなくまで旧制高等学校制度が存在しましたが、そのなかでも特にエリートが集まった学校を通称ナンバースクールと称しました。例えば「一高(第一高等学校=現在の東京大学)」や「三高(第三高等学校=京都大学)」など、学校名に数字が冠されていたことに由来します。

 そうした「本家」のナンバースクールとは異なりますが、日本時代の台北にあった高等女子学校にも、いわゆる「ナンバースクール」が存在したのです。

 筆頭は台湾総督府のはす向かいに位置する「台北州立第一高等女学校」。日本時代は「第一高女」と呼ばれ、現在では「台北市立第一女子高級中学」と名称こそ変われど、年によっては台湾大学への進学率で男子校トップの建国高級中学を凌ぐほどの名門校として、今も昔もその名を轟かせています。ただ、日本時代の在学生のほとんどは日本人で占められていました。ちなみに現在では、制服の色が緑色であることから「北一女」の学生は「小緑緑」とも呼ばれています。
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 続いては「台北州立第二高等女学校」。戦後に台北第四高女とともに台北第一高女に吸収統合されるかたちで姿を消しました。しかしながら、当時の校舎は現在も立法院が使用しており、名前は消えても往時を偲ばせる姿は健在です。こちらも日本時代の在学生は日本人がほとんどを占めていたようです。
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 歴史には必ず光と影があり、そうした見方を日本時代の台北における高等女学校に当てはめれば、第一高女や第二高女に本島人(台湾人)の子女が入学するには、成績は言うまでもなく、家の財力や社会的地位などが不可欠であり、こうした部分に内地人と本島人の差別が存在したことは認めなくてはなりません。

 そういった意味では「台北州立第三高等女学校」は、本島人の子女にとって最高のステータスである名門校だったといえます。「第三高女」は領台まもない1897年(明治30年)4月に士林で開校した「台湾総督府国語学校第一附属学校女子分教場」をその源流としていますが、その後は幾多の変遷を経て、1922年(大正11年)に「台北州立台北第三高等女学校」と改称、1937年(昭和12年)に朱厝崙と上埤頭の交差点そばに新校舎が建設されました。

 現在、日本時代の「第三高女」は「台北市立中山女子高級中学」として「北一女」に次ぐエリート女子高として知られ、日本時代の校舎が現在でも長安東路のキャンパスで使われています。
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 第三高女から中山女子高を通じ、輩出された卒業生は、北一女に負けずとも劣らぬ才女揃いです。李登輝元総統の奥様である曾文恵夫人。そして、陳水扁元総統の呉淑珍夫人とファーストレディを2代続けて輩出しました。また、今年の総統選挙で惜しくも敗れた民進党の蔡英文・前主席も中山女高の出身です。

 日本時代の台湾で最大の発行部数を誇っていた『台湾日日新報』には、台北高等学校や台北第一高女、第三高女など、名門校の合格者氏名が発表されるごとに紙面に掲載されました。それだけ進学できる生徒の数が限られていたともいえます。
 1938年(昭和13年)3月29日付の紙面には、この年の第三高女合格者が掲載されています。そのなかには「曾氏文子」と、現在の李登輝夫人、曾文恵さんのお名前も見えます。
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 曾文恵夫人はもともと「曾文子」という名前で、日本時代には「ふみこ」と読ませていましたが、その後、読書が好きだったことから文才に恵まれるよう、ご自身で「文恵」と改名されました。現在でも、李元総統が曾文恵夫人を「ふみ」と愛情をこめて呼ばれることはよく知られています。また、2007年(平成19年)に「奥の細道」を訪ねる旅で松島を訪れた際、ご夫妻で俳句を詠まれたことは、お二人の文才を物語っているといえるでしょう。
 第三高女在学中のスナップを見ると、ご自身で「ふみ子」とサインを入れられているのがわかります(写真は国史館『李登輝総統写真資料集』より)。
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 当時、曾文恵夫人は今でいう高校生。数年後に台湾が日本の統治下から離れ、国民党が台湾にやって来て独裁体制を敷き、暗い時代が長く続くことはもちろん、その闇に光明をもたらすことになる李登輝総統が将来の伴侶となることなど、夢々思わなかったことでしょう。
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by ritouki | 2012-08-17 23:33 | イベント
 8月10日に韓国の李明博大統領が竹島への上陸を強行。そして昨15日には香港の活動家が尖閣諸島へ不法上陸するという事態が起こりました。かつてない喧騒のなかで迎えた67回目の8月15日ですが、ここ台湾でも、日本大使館にあたる財団法人交流協会台北事務所前で抗議活動が行われました。前日夜遅くには、交流協会から在台邦人に緊急のメールが送付され、不要不急の場合以外は交流協会へ近づかないように、との注意喚起がありました。
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 当日のデモに参加していたのはメディアの報道によると300名程度。そのほとんどが在台中国人と、それに煽動されたり、日当で雇われるなどした人たち。抗議は「釣魚台(中国語での尖閣諸島の呼び名)」と「慰安婦」の二段構えで行われましたが、掲げられたプラカードには「日米安保反対」や「靖国神社への参拝反対」などの文字も見えました。
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 また「慰安婦」デモについては、台湾団結聯盟の林世嘉・立法委員や民進党の尤美女・立法委員の秘書が代表して交流協会に抗議書を手交しています。台聯や民進党は、比較的日本に好意的な政党とする見方も出来ましたが、台聯の議員だから、民進党の議員だから、などという盲目的ともいえるステレオタイプな見方で判断しようとすると足元をすくわれます。台聯については、ここ最近、党の精神的支柱とされた李登輝元総統も距離を置いており、これから黄昆輝主席がどのような舵取りをしていくのか注意しておく必要があります。
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 こうした抗議活動に対し、市井の台湾の人々の反応は冷ややかで、現場以外での混乱は全くありませんでした。また、こうした活動が日本で報道されると「台湾は親日のはずなのに」と至極脳天気な反応をされる方がいますが、台湾の内部には「日本憎し」を生業とし、中国や香港から資金を得ながら活動しているような在台中国人も生息しているのです。そうした輩の声や行動が、ひときわクローズアップされたからといって、短絡的に判断することは大きな誤りです。

 ちなみに、ほとんど知られていませんが、戦後初めて靖国神社へ昇殿参拝した国賓級の外国人は中華民国立法院長・張道藩でした。張院長は訪日団団長として1956年(昭和31年)4月19日、靖国神社を昇殿参拝しています。
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by ritouki | 2012-08-16 19:30 | イベント
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 『台湾日日新報』は、日本時代の台湾で最大の発行部数を誇っていた新聞です。1898年(明治31年)、合併によって誕生した台湾日日新報は、1944年(昭和19年)4月に『台湾新報』として生まれ変わるまで、じつに47年にわたって台湾のメディアに君臨した新聞といえるでしょう。
 台湾日日新報には、日本語版のほかに漢文版も発行されており、漢文版の執筆者には尾崎秀真(ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実の父)も名を連ねていました。
 また、台湾日日新報は、いわゆる官報にあたる「府報」の発行も担っており、政府系新聞や御用新聞といった側面もありました。

 この台湾日日新報を繰っていると、戦火が激しくなり始めた昭和10年代後半ごろから、皇軍の快進撃を伝える文言や、戦意を高揚する威勢のいい単語が紙面に並び始めるのがわかります。

 開戦から一年半が経ち、はやくも総力戦の体を帯びてきた1943年(昭和18年)6月28日の紙面に、台北高等学校の学生にインタビューした記事が掲載されました。その学生とは「台北高校文科三年の本島人學生、岩里君」、学生時代の李登輝元総統(日本名:岩里政男)です。

 記事にはフルネームが書かれていませんが、李登輝元総統に関する資料によれば1943年(昭和18年)8月、戦時繰上げにより半年早く卒業したということになっているため、この記事が掲載されたのは繰上げ卒業の直前ともいえる時期でした。
 また「近く内地に行くこととなってゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禪の研究をしたいと思ふ」と話している部分は京都帝国大学への進学を指していると思われます。

 実際、李元総統はこの年の10月に日本内地へ向かい、京都帝大での学生生活を始めています。また「禅の研究」については、李元総統が折にふれて語る「李登輝の人生哲学」にもたびたび登場する生涯追い求め続けるテーマといってもよいものでしょう。これらのことから、この岩里君とは岩里政男君のことであり、すなわち李登輝元総統のことであると断定してもよいものと思われます。
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 上に掲げた写真は台北高等学校時代の李元総統。襟元の「L」のバッチはLiterature、つまり文科を示しています。また、下の写真は台北高等学校の当時の姿。現在では国立台湾師範大学となっていますが、左側の校舎や右手に写っている講堂は今も現役で使われています。校舎の前は一面田んぼで、車が絶え間なく行き交う和平東路が整備されるのはこれからずっと後のことです。
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 インタビューの後半でも「岩里君」は「現在の哲學が軍人に讀まれていぬといふ所に現代の學問の危機があるのではないだらうか」と話し、すでにこの頃から「哲人李登輝」の片鱗を垣間見ることができます。

 1943年(昭和18年)といえば、戦況が暗転し始めた時期でもあり、台湾では戦力補充のための志願兵制度が実施された時期と重なります。李元総統の御兄上、李登欽さん(日本名:岩里武則)もこの年、海軍に志願して合格しており、後の1945年(昭和20年)2月にフィリピンで名誉の戦死を遂げられました。李登欽さんが海軍志願兵に合格した際のインタビュー記事が台湾日日新報に掲載されたのは、弟である李元総統の記事掲載からおよそ3ヶ月後、9月22日のことでした。
 もしかしたら、取材の席上、御兄上が海軍志願兵に応募したことを記者に漏らし、取材対象として白羽の矢が立ったのかも知れませんが、こればかりは推測の域を出ません。

 あの時流のなかで、若い学徒が護国報恩の念を抱き、青年が熱い血潮を滾らせて志願兵に応募することは容易に考えられる選択でした。新聞社側が本島人学生による烈々たる決意を掲載し、本島人の戦意を鼓舞しようとした提灯記事の側面を差し引いても、あの時代に生きた若者たちが持っていた、公に殉じようという崇高な理念までが否定されるわけではありません。

 当時の故国日本や同胞のために散華された台湾人日本兵、およそ2万8千柱の英霊を含め、現代の平和と繁栄の礎になった先人の方々への感謝を忘れてはなりません。

 今日は67回目の8月15日、九段の杜は参拝の人波であふれかえっていたと聞きます。



 私も志願する 信念を語る岩里君 台北高校

 “決戰下學徒の決意”といふ問に答へ、臺北高校三年文科の本島人學生岩里君は左の如く語った。

 決戰下の學徒として僕達の切実の感情は何と言つても大東亞戰に勝ち抜くと云ふことだ。學問をするといふことが要するに國家目的の為であって、これまでのやうな學問の為の學問といふ考へ方は絶對にあり得ないと思ふ。

 學園内のこれまでの弊衣破帽の風も現在としては一時代の遺物とも言ふべきもので、吾々には新しい立場が必要だと言ふことは痛感してゐる。唯高校生は内省的な傾向が強いので外部に餘りはつきり自己の立場を示すことがないが、内部に於てはさうした氣持は相當強いと思ふ。

 今や臺灣にも陸海軍の特別志願兵制度が施行され、私も大學の法科を出たら志願をしたいと父母にも語つてゐるのであるが、軍隊の制度は吾々が自己の人間を造る所であり、色々と苦しみを忍んで自己を練磨し明鏡止水の窮地に至るに是非必要な所だと信じてゐる。近く内地に行くこととなってゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禪の研究をしたいと思ふ。

 過渡期の知識層といはれる面に一番缺けてゐるものは力であり、指導力であつて現在でも國民をひきづつてゐるのは哲學でも理念でもなく、國民の気力であり學問はその國民の氣力に立遅れた感があるが國民の力の原動力となる學問が必要だ。

 現在の哲學が軍人に讀まれていぬといふ所に現代の學問の危機があるのではないだらうか。本島では大東亞戰の認識がまだ最末端まで徹底してゐない所がある。さう言ふ人達に対する啓蒙は私としては本島人に対する義務教育が一番有効に働くものではないかと思ひ義務教育の施行された事は尊い有難いことだと思つてゐる。結局教育と徴兵制が本島人が日本人として生まれ變つて行く大きな要件ではないかと思ふ。
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 台北高校卒業間近の一葉。同級生たちと学内にて。前列右側が李登輝元総統。
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 1943年(昭和18年)、李登輝元総統が台北高校を卒業して間もない頃、京都帝大へ進学する直前に撮影された家族の集合写真。後列右が李登輝元総統、左が兄の李登欽さん。前列右から父の李金龍さん、祖父の李財生さん、母の江錦さん、兄嫁の奈津恵さんと兄の子供たち。撮影場所は生まれ故郷の三芝にある智成廟。
(台北高校時代および家族の集合写真はいずれも国史館発行『李登輝総統写真資料集』から)
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by ritouki | 2012-08-15 23:29 | イベント