台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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台北市のMRT東門駅が開業

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 小籠包の名店「鼎泰豊」本店や、ここに店を構えていたマンゴーかき氷の有名店「冰館」で知られる永康街。雑貨屋さんやカフェが立ち並び、観光客にも人気のスポットです。

 ただ、これまで永康街の難点は交通の便にありました。最寄駅は中正紀念堂駅で、そこから徒歩20分。タクシーかバスに頼るしかない環境だったのですが、本日MRT東門駅が開業したことで永康街へのアクセスが格段によくなりました。

 東門駅を通る路線は、新北市永和の南勢角から古亭を抜け、東門を経由して新生忠孝に繋がります。新生忠孝から先は、すでに開通している蘆洲線に接続し、輔仁大学や新荘へ。そのかわり、南勢角発の車両は、従来のように淡水方向へは向かわず、直接蘆洲線へと通じます。これによって台北駅に過度に集中していた乗換え乗客数が分散され、混雑緩和になるとか。

 開業記念として、1ヶ月間は「悠遊カード」を利用して乗車した場合、忠孝新生と古亭間の料金が無料となるそうです。
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by ritouki | 2012-09-30 20:58 | イベント
 緑島下見2日目、結局夜半の雨はやまず、朝日温泉の下見はおあずけ。昼間は台風で損傷した設備の修復ということで入れないので本番に期待です。

 午後は船で台東へ帰ることになっているので、まだ時間はたっぷり。とりあえず、李登輝学校で利用するホテルとレストランのチェック。その後は、昨日はバイクでさーっと走るだけだった緑島をもう一度ひとまわりすることにします。

 昨夜のどしゃ降りが嘘のように晴れ渡り、むしろ暑いくらいの陽気です。緑島は島とはいえ、ほとんど平地の澎湖島とは異なり、起伏の激しい場所があります。ところによっては、目の前が海なのに急激に山肌が迫っているような場所もあり、バイクや車の通行のためにトンネルが掘られています。傍らには「落石注意」との看板がありますが、どう防げばよいのやら。
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 緑島南端の朝日温泉に到着。先日、フジテレビで放送された台湾特集の番組でも「朝日が昇るのを見ながら入れる温泉」という触れ込みで紹介されたとか。この朝日温泉、日本時代は「旭温泉」という名称でしたが、戦後に「朝日温泉」と改称されました。とはいえ、太陽が昇るのを見ながら温泉に入れるという意味では同じですね。
 やはり残念ながら修復中で昼間は閉鎖。来春の本番に期待しましょう。
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 そして再び島を一周。行き忘れていた「緑島灯台」へも出掛けました。青空と白い灯台と緑のコントラストがまるで絵葉書のようです。この灯台は、1937年(昭和12年)に米国の1937年、豪華客船フーバー号が緑島沖で座礁した際、島民が救助活動に奮闘したことから、後に感謝の意を込めて米国から贈られたものです。
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 そして灯台へ続く道には「カニ横断注意。ひかないで!」との注意書きが。豊かな自然を誇る緑島ですが、観光客の増加によってカニがバイクに轢かれるなどの被害が続出。なかには希少種のカニも生息しているようですから注意したいものです。
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 もうひとつ、緑島の名物は「梅花鹿」。身体の模様がまるで梅の花のように見えることからその名がつきました。島内のおみやげ屋さんやレストランの軒先では、まるでペットの犬のように首輪をつけられて飼われています。そしてなんと緑島のレストランでイチオシとされているのが「鹿肉」。おみやげ屋さんでも「乾燥鹿肉」がまるでビーフジャーキーのように売られています。鹿にとっては、ひと思いに食べられてしまったほうがよかったのか、見せ物になりながらも生き長らえたほうがよかったのか、しかと考えるべき悩みかもしれません。
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 これにて緑島の下見は完了。午後2時半の船で台東富岡漁港まで戻ります。所要時間は約50分ですが、台風の影響で大揺れ。揺れすぎて船酔しなかった、というくらいの大揺れでした。到着した台東は雨模様。台東市内のホテルで打ち合わせ後、夕方の飛行機で台北へ戻って任務終了です。
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 また11月末の第18回・日本李登輝学校台湾研修団が終わっていませんが、来春の第19回にぜひご期待ください。日程などは第18回終了後、すみやかに本会HPや本会メールマガジン『日台共栄』誌上で発表する予定です。
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by ritouki | 2012-09-24 23:00 | イベント
 今月初めにも訪れた緑島へ再びやって来ました。来年春に予定している第19回・日本李登輝学校台湾研修団の下見です。
 台北の松山空港から飛行機に乗れば50分で着いてしまう澎湖島とは異なり、緑島へはどんなに早い手段を駆使しても、台北松山空港→国内線で台東空港→徳安航空で緑島と、かなり手間が掛かります。
 しかも、台東から緑島への飛行機は定員が17名、冷房もなく水蒸気で涼をとります。台東の空へ飛び上がると、すぐに海上へ出ますが、もう海の向こうには緑島の陸影が見えています。エメラルド色の水面には、飛行機の影が映っていました。
 台東から緑島空港まではわずか15分。着陸間近、上空から眺める海は、底まで見渡せるほどの透明度です。
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 着いてすぐにホテルへチェックイン、荷物を置いてバイクをレンタルしたらすぐに下見開始です。まずは、3週間ほど前に滞在したばかりの「緑島人権園区」へ。
 戦後の台湾に吹き荒れた国民党独裁政権による「白色恐怖」の時代、反体制発言をした人はもちろん、日本統治下で高等教育を受けた知識人など、たくさんの無辜の人々が無実の罪で逮捕され、この緑島へ送られたり銃殺されたりしました。そしてこの長く暗い時代に光が差し込むには、1980年代後半、李登輝総統の登場まで続いたのです。
 現在、多くの政治犯が収容されていた監獄は保存され、人権園区として生まれ変わりましたが、大きく分けて、収容していた政治犯を集中的に管理するために建設された「八卦楼」のあるエリアと、「新生訓導処」と呼ばれる労働キャンプのエリアに分かれています。
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 下見ではこの二つのエリアを順番に下見。来春の李登輝学校では、実際に政治犯として逮捕され、この緑島に十年近く収容されていた受難者の方にご同行いただいて、当時の体験談や現場の説明などをしてもらう予定でいます。
 この緑島を訪れるのは三度目となる私も、監獄に足を踏み入れるとその凄惨さに言葉を失います。画像にはありませんが、一部の監獄には壁や地面、ドア一面に分厚いマットが敷かれています。これは、壁などに頭を打ち付けて自殺するのを防ぐためのものだとか。国民党の白色恐怖は、人々から生きる権利も死ぬ権利も奪ったのです。
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 また、人権園区から砂浜沿いに15分ほど歩くと、小高い丘にいくつもの墓石が立てられた「十三中隊」と呼ばれるエリアに出ます。収容されていた男性政治犯は一個中隊数十名で、12の中隊に分かれていました。収容中、不慮の事故や病気、自殺などで亡くなった政治犯の亡骸はこの地に葬られ「十三中隊」と呼ばれるようになったそうです。
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 人権園区の向かい側には「人権記念碑」が建てられています。壁には、この緑島の地に収容されていた人々の名前が、収容されていた年数とともに刻まれています。先日、陳文成博士基金会の活動に参加した際、蔡焜霖先生に教えていただき、寸劇として披露した于凱さんの名前もありました。
 また、『醜い中国人』などの著作として知られる作家、柏楊の言葉が刻まれています。
「在那個時代 有多少母親 為她們被囚禁在這個島上的孩子 長夜哭泣!」
(あの時代 どれだけの母親たちが この島に閉じ込められている子供たちのために
 夜を泣き明かしたことだろう)
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 その後、牛の頭の横顔のように見えることから名付けられた「牛頭山」へ。遠く眼下に人権園区を見渡せるこの山のてっぺんからは、晴れていれば美しい夕焼けをみることが出来ます。ただ、今日は残念ながら雨模様で夕焼けはおあずけ。

 引き続きバイクで緑島を時計回りに一周。島の南東からは美しい夕焼けを見ることが出来ました。また、遠くに蘭嶼の島影を見ることが出来ましたが写真でお分かりになるでしょうか。
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 途中からは夕闇の訪れとともに、台風の影響で大粒の雨に。島の南端あたりはほとんど景色も見られず、ひたすらホテルへの道をバイクで走るはめに。
 ホテルで着替え、小雨のなかを夕食に出かけましたが、食事中にはまるでバケツの底が抜けたかのようなどしゃ降り。いつまで待ってもやみそうもなく、仕方がないので濡れるのを覚悟でホテルへと戻りました。
 もうひとつ、下見しなければならない重要スポットとして「朝日温泉」が残っていますが、ホテルのフロントで確認したところ、先日の台風で設備が被害を受け、ただいま修復中のために営業時間が夜間のみに制限されているとか。となれば、朝日を見ながら温泉につかるというのは無理なので、夜に出掛けるしかありませんが、営業時間は午前2時まで、さてこの大雨やむかどうか。。。
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by ritouki | 2012-09-23 22:42 | イベント
 挨拶が終わると、早速シンポジウム開始。
 最初のテーマは「台湾の両岸政策とアジア太平洋地域の安全保障」。姚嘉文・元考試院長が司会を務め、呉栄義・新台湾国策シンクタンク董事長らがパネリストとして発言しました。
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 続いて「近年の米国による対アジア太平洋地域新戦略」。司会は民進党政権で外交部次長(副大臣に相当)やEU代表を務めた高英茂氏、パネリストにはアーサー・ウォルドロン米ペンシルバニア大学教授、呉釗燮・元駐米代表らが登壇しました。
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 ランチを挟み、午後は許世楷・元駐日代表を司会に「中国崛起と日本のアジア太平洋戦略」に関するディスカッション。日本から出席した渡辺利夫・拓殖大学総長や金田秀昭・元海上自衛隊護衛艦隊司令官、蔡明憲・元国防部長らが登壇。尖閣諸島に関するニュースが連日報じられている時期でもあり、海上からは活発な質問が出ていました。

 最後に、台湾安保協会理事長で元駐日代表の羅福全氏が司会を務め「中国の崛起に直面するアジア太平洋地域の安全保障」についてのディスカッション。時間をややオーバーして活発な議論が行われ、盛況のうちにシンポジウムは幕を下ろしました。
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 夜は国賓飯店で、李登輝民主協会主催によるフェアウェルパーティ。蔡焜燦先生が自らチョイスしたメニューのなかでもイチオシはこちらの「乞食鶏」。その昔、乞食がたまたま鶏を一羽手に入れたものの、調理できなくて困ったため、泥で鶏を包んでたき火にくべたところ、泥を剥がすと同時に羽もキレイに取れ、うま味が閉じ込められた美味しい鶏肉が出来たことから名付けられたそうです。
 そんな「乞食鶏」とはいえ、国賓飯店で出されるものはやはりちょっと豪華。まわりの泥もきちんと鶏の格好をしています。中の鶏肉を取り出すにはハンマーで叩き割らなければなりませんが、その大役は日本から出席していただいた渡辺先生や金田先生に、と蔡焜燦先生からのご指名でした。
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 午前9時から午後5時すぎまでのシンポジウムで皆さんちょっとお疲れ気味。しかし、無事にシンポジウムが終了し、ホッと一安心したのか「世界一美味しい老酒」も進み、賑やかな宴席が続きました。
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by ritouki | 2012-09-21 23:47 | イベント
 本日午前9時から、台湾大学病院国際会議センターで「中国崛起とアジア太平洋地域の安全保障」国際シンポジウムが開かれています。台湾安保協会(羅福全理事長)と本会の共同開催で、日本からは川村純彦・常務理事、渡辺利夫・拓殖大学総長、金田秀明・元海上自衛隊護衛艦隊司令官らが出席しています。
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 羅福全理事長と川村純彦常務理事に続き、来賓として蘇貞昌・民進党主席が挨拶。尖閣諸島問題について、民進党は従来から協議による平和的解決を主張し続けてきたと指摘。国民党が政権に復帰間もない2008年には「聯合号事件」が勃発、ときの行政院長は「日本との一戦も辞せず」と発言。再選された今年も尖閣問題が再燃するなど、国民党の尖閣問題への対応は稚拙だと非難しました。
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 午前は、台湾側出席者の呉栄義・新台湾国策シンクタンク理事長、姚嘉文・元考試院長、陳博志・台湾シンクタンク董事長、王塗発・国立台北大学経済学系兼任教授によるパネルディスカッションが行われています。
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by ritouki | 2012-09-21 11:17 | イベント
 南投、台中の視察最終日。李登輝元総統は、宿泊先である台中市内の「台中兆品酒店」を午前9時半に出発、北屯区にある「台中市花卉産銷班第三班集貨場」の視察に訪れました。
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 ここでは黄色い可憐な花を咲かせる「文心蘭(日本語ではオンシジウムと呼ばれることも)」の生産、出荷が行われており、なんとその95%は日本への輸出向けなのだとか。昨年の311大震災の際は、年度末の行事用の需要が激減し、大打撃を被ったそうですが、現在ではかなり回復基調のようです。また、震災後には都内でチャリティー販売も行われました。
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 ひと通り説明を聞いた李元総統は、やおら日本メディアに向かい「ここで生産されている花のほとんどが日本向けのもの。日本でも台湾でも好まれる花の種類というのはずいぶん変わってきている。私は家内が池坊や草月流の免状を持っているから、そういう話もよく聞くんだ。やはりどんな世界でも常に革新していくということが大事なんだな」などと話されました。
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 また、湿度を保ち、花を新鮮な状態のまま保存する冷蔵庫でも、わざわざ日本メディアを呼び「花を長持ちさせる栄養カプセルに茎を挿しておくことで、10日以上もこの状態を維持できるそうだ」と日本語で説明。寒い冷蔵庫の中でずっと話していたため、心配したスタッフから「もうそろそろ」と声を掛けられる一幕も。
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 出口で随行メディアから、昨夜、陳水扁前総統が入院したことを問われると「私には分からない。それは法律の問題であって政治の問題ではない」などと答えました。
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 続いて車列は山を越え、名産のシイタケや白冷圳で知られる新社も抜けて石岡へ。1977年に竣工した石岡ダムは、1999年の921大地震の際に北側の放水路が全壊し、貯水機能が失われたために台中への水道水供給ができなくなる被害がありました。
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 ダムにかかる橋の上で説明を聞く姿は、5月に台南の八田ダムを訪れたときのよう。眼下に広がるダムを眺めながら、復興から現在の状況などの説明に耳を傾けていました。
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 続いては設けられたテントの下でグラフなどを提示しながらの説明。この石岡ダムは、台中エリアの農業用水のおよそ63%、飲料水の37%を担う水甕の役割を果たしているそうです。921大地震では11メートルも隆起してしまった堤防部分がありましたが、復旧作業は迅速で、地震発生翌年の2000年12月には修復が完了しています。
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 ダムを管理する経済部水利署からは、李元総統が台湾省主席だった1982年9月16日、地震後の視察に訪れた1999年9月25日の写真を額装して贈呈。メディアからは「若い!」と声が上がりました。
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 その後、東勢に移動して「阿木大衆餐館」にて昼食会。地元を地盤とする顔清標・立法委員(無所属)ら、地元の名士が顔を揃えて賑やかな会となりました。
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 いきなり分厚い大トロの刺身で始まった昼食会は、高級食材のオンパレード。最後はスッポンのスープと雪蛙のデザートという豪華版でした。
 昼食会場後もレストラン出口で随行記者団に囲まれ、質問に答えた李元総統でしたが、午後2時すぎ、高鉄台中駅へ向かって出発。

 新幹線ホームでは、随行メディアにも気さくに声を掛け「ご苦労さん」と笑顔で労をねぎらい、午後3時1分の新幹線に乗車。午後4時ちょうどに台北へ到着し、以上で南投、台中と3日間にわたり、921大地震に関連する場所を訪れた視察は終了しました。
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 台湾全土をめぐる視察の旅はまだ北東部や東海岸が残されていますが、群策会によるととりあえず今年の視察計画はこの南投、台中でいったん終了。年末までは大学などをまわって講演する活動を中心にする予定だそうです。

 本会が11月下旬に行う「第18回・日本李登輝学校台湾研修団」では、李元総統の特別講義で今年の視察の総括が聞けるかもしれません。
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by ritouki | 2012-09-13 23:16 | イベント
 南投県と台中を視察する「生命の旅」2日目の朝は、南投県渓頭にある「渓頭米堤飯店」で迎えました。昨夜、車列を組んで山道を走っていたら、突如ヨーロッパの城を模したホテルの外観が現れたので驚きました。

 午前9時20分からホテル内の一室で、同行メディアを対象にした記者会見。今回は日本のメディア6社も同行しており、李登輝元総統も台湾語と日本語と中国語を使い分ける忙しい会見となりました。
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 昨日、やはり台湾メディアが最も関心を持っているであろう尖閣諸島について、何度か質問が発せられましたが、李元総統は「知らない、わからない」と答えていました。

 今朝の会見では、メディアからの質問に先駆けて李元総統がご自分で「皆さんが一番聞きたいのは尖閣のことでしょうね」と先制パンチ。従来の主張と変わらず「日台間に尖閣に関する主権問題は存在しない」と明言し「ただ残っているのは漁業権の問題だけ。他人の家のことをあなた方は干渉するのか。美人を見て自分の嫁だというようなものだ。台湾の経済はずっと停滞している。馬政権は尖閣のことを毎日大声で主張しているが、もっと景気回復に力を注ぐべきだ。国民は尖閣のことなど見向きもしない」と述べました。

 その後、香港の愛国教育や、台湾の将来の行方などについての質問があり、1時間ほどの会見を終えた後はホテルの庭先で記念植樹を行い出発。到着時と同じく、従業員総出の拍手で送られました。
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 本日最初の訪問先は竹山鎮にある「南投県茶葉運銷合作社」。南投県といえば、台湾烏龍茶の名産地として有名です。高い山がそびえ、寒暖の差が激しい天候が芳醇な香りの烏龍茶を育てます。台北に店を構える茶葉問屋はほとんどが南投県から茶葉を仕入れているといっても過言ではないでしょう。

 1980年代まで、台湾の茶葉生産は紅茶や緑茶が多く、輸出量が生産量の7割以上を占めていました。しかし、国内の台湾烏龍茶に対する需要が高まると同時に、人件費の高騰によってコストがかさんだことで紅茶や緑茶は国際競争力を失い、現在では輸出が占める割合は2割弱だそうです。
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 「南投県茶葉運銷合作社」は従来、自分たちで製造や改良、販売を行なっていた茶葉生産業者が協力しあい、南投名産の台湾烏龍茶生産をさらに活性化させようと設立されたものです。
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 農業経済学博士で、台北市長時代には猫空の茶葉生産業者改革を手がけたこともある李元総統のため、茶葉生産に対しては強い関心を持っています。香り高い烏龍茶を片手に業者からの説明に耳を傾けていました。

 続いては、南投市のパイナップルケーキで有名な「微熱山丘」を訪問。創業5年あまりのパイナップルケーキブランドですが、今や台湾で「微熱山丘」の名前は新しいかたちのパイナップルケーキを象徴するブランドとして知られています。

 従来のパイナップルケーキの餡は、通常のパイナップル半分、冬瓜半分で作られるのが普通でした。しかし「微熱山丘」の餡は、土パイナップルという、そのまま食べるには非常に酸味が強い品種のものを100%使っています。餡のなかには果肉がゴロゴロし、酸味のある味は大ヒット。それまでのパイナップルケーキの概念を覆すものでした。

 到着すると、たくさんの観光客の注目を浴びながら、まずは昼食へ。「微熱山丘」の従業員のための食堂を使い、まるで自宅で食事するような雰囲気でした。食事を終えて視察に移ると、観光客に気軽に話しかけたり、握手を求められたりと大忙し。
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 日本メディアに対しても「来年、東京に店が出来るんだよ。しっかり宣伝してくださいよ」と自ら名刺を配ってアピール。ここでも、昨日と同じくポケットから現金を取り出してパイナップルケーキを購入しました。
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 「微熱山丘」を後にし、車列は南投県を北上し霧峰の「国立自然科学博物館 921地震教育園区」を訪問。先ほどまでは標高の高い場所にいたので比較的涼しかったのですが、ここでは太陽が容赦なく照りつけて気温もかなり高め。
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 園内には、921大地震で崩壊した学校をそのまま地震教育に活用するため保存されています。盛り上がって使いものにならなくなったグラウンド、崩れ落ちた校舎などがそのまま保存され、地震の脅威を物語っています。ここでも李元総統は「日本にもこうした施設がありますか」と日本メディアに問いかけ、311大震災に関しても、堤防の整備の必要性などを語りました。
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 続いて「霧峰農会酒荘」を視察。この地で作られる「香米」を原材料に、日本酒の生産が行われている場所です。農協にあたる霧峰の農会では「台農71号」の生産に成功。この米に付加価値をつけるため、日本の酒蔵と協力し、日本酒の生産に成功したそうです。

 ここでいきなり李元総統に名指しされ「これを持って帰って、今夜みんなで飲みなさい。日本に協力してもらって出来上がった台湾の日本酒なんだから、日本でも売れるように協力してください」と、またまたポケットマネーで購入。ありがたく頂戴しました。

 午後4時すぎ、台中市内に入った車列は「台中育嬰院」へ。こじんまりながら美しい中庭に、赤レンガの建物が映えています。ここでは、知恵遅れや障害を持った子供たちが共同生活を送っています。
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 暑さでやや疲れ気味の表情だった李元総統も、子供たちによる太鼓演奏の歓迎で満面の笑顔。施設の概要説明を受けたあと、活動教室では再び子供たちが歌声を披露してくれました。目の前の女の子を手招きして抱き上げる李元総統は、まるでひ孫を慈しむ好々爺の表情でした。また、施設へは李元総統から寄付が贈られました。
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 晩餐会は民進党の林佳龍・立法委員主催によって台中市内の「永豊棧酒店」にて。李元総統は挨拶で、将来の台中市長候補と目される若手ホープに対してエールを送りました。
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 賑やかな晩餐会も9時前にはお開き。走行距離200キロの視察はさすがに疲れました。今夜は台中市内のホテルへ投宿し、明日は午後まで台中近辺での視察を行う予定です。
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by ritouki | 2012-09-13 23:03 | イベント
 李登輝元総統が台湾各地を視察し、地方の状況や市井の人々の声を聞く「生命之旅」。今回は、1999年に発生した921大地震の被災地である台湾中部の南投や台中に出掛けました。訪問する場所は、いずれも921大地震と関連の深い場所が選ばれたということです。

 一行は台北駅から午後12時30分発の台湾高鉄に乗車し台中へ。今回も総勢30名弱のメディアが同行取材を行なっています。約50分で台中駅に到着。すぐに車に乗車し、最初の訪問地である「南投県中寮郷清水国小(小学校)」を訪問します。
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 清水国小は921地震で校舎が半壊。しかし、当時の呉校長らの努力により、校舎を再建。現在では木々に囲まれたこの地の学校らしく、木造の美しい校舎がそびえています。

 現在の児童数は全校で100名前後。そのうち3分の1が「新台湾の子」、つまり、台湾人と外国人の両親のもとに生まれた子供たちが占めているそうです。

 そんな子供たちの歓迎を受けた李元総統は目を細めて子供たちが披露する胡弓の演奏やダンスに見入っていました。途中「望春風」が演奏されると、一緒になって歌を口ずさむ姿も。
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 挨拶に立った李元総統は「大地震が起きたとき、皆さんはまだ生まれてなかったんですよね。ここは田舎ですが、私も田舎の生まれです。将来、皆さんはこの田舎の環境を逆に活用する方法を考えていかなきゃならない。しっかり勉強してくださいね」と呼びかけました。その後、子供たちとの記念撮影が終わると、握手ぜめ。地震が起きた時も、李元総統が現役の総統として民主化を進めた時代も知らない子供たちですが、いつか大人になってこの日のことを思い出すかもしれません。
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 出発が近づいてくると、曇り模様の空から雨が落ち始め、いつの間にかどしゃ降りに。「晴れ男」の李元総統には珍しいはずなのですが、台風に祟られた雲林編といい、今回といい、ちょっと天気が心配です。
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 続いて清水国小のすぐそばにある「瀧林書齋」を訪問。「瀧林書齋」を主宰する廖修霖さんは以前、米国に暮らし、事業にも成功していましたが、却って故郷への思いは募り、921大地震の発生を機に「異郷で成功したのだから、故郷で成功しないはずはない」との思いで米国を引き上げ、台湾へ帰ってきたそうです。
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 廖さん夫妻は、故郷の中寮に「瀧林書齋」を開き、子供たちに英語を教えたり、コミュニティの場所を提供するなど、地域の発展に大きな貢献をしています。子供たちから「廖爺爺」と親しまれる廖さんから、これまでの経緯や説明に耳を傾けていた李元総統は「地方には埋もれた優秀な人材がたくさんいる。そんな子供たちに教育のチャンスを与えて育てていかなければならない。手弁当でそうした活動を続ける皆さんに敬意を評したい」と話しました。また、手伝いに来ていた高校生たちには『哲人政治家 李登輝の原点』を手渡し激励しました。
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 続いては埔里に移動。南投県は面積が広く、山地が多いため、車での移動には時間がかかりますが、比較的大きな村から村へは高速道路が整備されているため快適。一時間ほどで「紙の教会」がある桃米村へ到着。 
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 豊かな自然に囲まれた園内には、美しい池や歩道が整備されていて、その奥に「紙の教会」があります。説明によると、桃米村は台湾でも有数の生態系が残されており、台湾固有のカエルの8割、台湾に生息する418種の蝶のうち約300種がこの桃米村で観察できるとか。こうした特色を残しつつ、地震の復旧を進めていこうということで意見が一致し、自然をテーマにしたした街づくりを推進したそうです。

 「紙の教会」はもともと、1995年に発生した阪神淡路大震災によって焼失した神戸カトリック鷹取教会の仮設礼拝所でした。震災後に作られた仮説の教会は10年にわたり、地域の人々に貢献していましたが、2005年ごろに「役割を終えた」ということで撤去されることになっていました。
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 それと前後して、同じ地震被害地域ということで交流を続けてきた訪問団が台湾を訪れました。その際、紙の教会が取り壊されることを聞いた台湾側の関係者により、台湾への移設が決まったそうです。この教会は直径33センチ、長さ5メートルの紙管約60本を柱にしてテント製の屋根を支える構造になっています。

 もともと「仮設」だった紙の教会が、台湾で再び生命を吹き込まれたのです。ただ、現在では教会としては使われておらず、コンサートやシンポジウムなど、イベントスペースとして利用されているとか。
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 視察を終えた李元総統は、紙の教会の前で記念の植樹。色々と説明を聞きながら、散歩道を出口に向かって歩いているとハプニング発生。もともとコースに組み込まれていなかったお土産屋さんに立ち寄りました。

 「お土産を買わないと」と、色々眺めていた李元総統は、小ぶりのバッグを選び、なんとポケットから1000元札を取り出して「これで」。ポケットに現金が入っていることにちょっとびっくりしました。メディアから「誰に贈るんですか」と聞かれると「奥さんが家で留守番してるから」と、なんとも愛情たっぷりな答え。雨に祟られるかと心配しましたが、この頃にはすでに晴れ間がさしていました。
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 これにて今日の視察は終了。再び車列は南投県を南下し渓頭へ。宿泊先のホテルでは従業員総出の拍手で出迎え、地元の人々が出席する晩餐会も開かれました。李元総統は疲れも見せず、晩餐会でもパワフルな挨拶を行い、健啖ぶりを見せました。
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 明日は主に台中を視察。走行距離200キロの濃密な視察日程が組まれています。
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by ritouki | 2012-09-11 23:35 | イベント
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 昨日の夜中、無事に台北に帰って来ました。台東から自強号で6時間、座っているだけでもけっこう疲れるものです。

 4日間の「火焼島之旅 2012白色之道青年体験キャンプ」を振り返ると、自分自身、頭では理解しているつもりだった、単純な見方だけでは白色恐怖の真実を理解することは出来ないことを再認識しました。特に、台湾の戦後史を生半可に学んだ人間が陥りがちな「外省人は加害者で、本省人は被害者」「国民党=悪、台湾人=善」というステレオタイプな見方です。

 いま振り返ってみると、こうしたステレオタイプな認識を改めさせてくれたのが、4年前、台湾大学の「政治学」の授業で見たドキュメンタリー「陳才根の隣人たち(陳才根的鄰居們)」でした。

 舞台は台北市内、南京東路と林森北路が交わる交差点。現在では、広々とした公園となり、市民の憩いの場ともなっていますが、1990年代後半まで、この場所には違法建築のバラックが立ち並んでいました。

 もともとこの場所は日本時代、三板橋墓地と呼ばれ、日本人が眠る共同墓地でした。戦後、中国大陸から敗走してきた国民党の関係者は200万とも300万とも言われています。日本時代の資産を接収し、やりたい放題の国民党でしたが、住むところをあてがわれなかった下級兵士たちはこの墓地に目をつけ、墓石を利用してバラックを建て、明石総督の墓前にあった鳥居を物干し竿にして暮らしていました。
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 ドキュメンタリーは、この「康楽里」と呼ばれたバラック街に暮らす、国民党の下級兵士、つまり外省人たちにスポットをあてた作品です。

 1997年、ときの陳水扁・台北市長の決断により、このバラック街の撤去が決まりました。それまでの歴代台北市長も、幾度となく撤去に着手しようとしたようですが、反対勢力が手強く、手を付けられずにいたようです。その転機となったのは、一説によると、来台した歌手のマイケル・ジャクソンが晶華酒店(リージェントホテル)の部屋から眼下のバラック街を目にし「あそこはスラム街か」と尋ねたため、国際的恥辱になっては大変と、一斉に撤去の方向に傾いた経緯があるとか(あくまで噂なので真偽は不明です)。

 こうして取り壊しが決まったころ、カメラはこの康楽里のバラック街に入りました。台湾に住みながら、台湾社会に馴染めず、外省人のコミュニティーのなかだけで生きてきた栄民(退役軍人のこと)たちの口は固く、おいそれと質問にも答えてくれません。しかし、何度も訪れるスタッフたちに、彼らは少しずつ心を開き、どのようにして国民党に従軍したのか、家族はどうしているのかをポツリポツリと語り始めます。

 ある老人は当初「家が貧しかったので、自分で国民党軍に志願した」と答えていましたが、何度目かの訪問では涙ながらに「畑で農作業していたら、いきなり軍に拉致されて従軍させられ、気付いたら台湾だった。数年もすれば大陸へ帰れるだろうと思っていたが、いつの間にか40年以上が経ってしまった」と真情を吐露します。

 妻も子供も大陸に置いてきた老人、もとの家族を捨てて新しい家族を作った老人、癌に冒されながら大陸の家族を探しに出掛けていった老人など、多くの老人が決して幸せとはいえない環境で肩を寄せ合いながら生きていく姿からは、必ずしも「外省人=悪」という構図で語ることの出来ない悲哀を感じさせます。

 もちろん、彼らのなかには、台湾人に対して極悪非道を働いた人間もいるでしょう。しかし、国民党体制の仕組みのなかでは、彼らもまた虐げられた被害者ともいえるのではないでしょうか。

 白色恐怖の被害は、台湾人のみならず、外省人にも及びました。つまり、国民党は、台湾人や外省人問わず、国民党の統治に邪魔な人間は誰であろうと粛清していったことになります。

 この作品が撮られてからすでに10年以上が経過しているため、もしかしたらこの作品に登場する老人たちはこの世にいないかもしれません。しかし、彼らが歩んできた戦後史もまた、台湾の戦後史の一面であると同時に、彼らもまた中華民国体制の被害者といえます。作品に登場する彼らからは「外省人」という単純な括りだけで判断していては、決して台湾の戦後史の真実を理解できないことを示唆しています。

 このDVD、11月下旬に開催される第18回・李登輝学校台湾研修団で鑑賞する機会を設けたいと考えています。
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by ritouki | 2012-09-04 16:15 | イベント
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 活動に参加する前は「緑島くらいの規模なら2泊3日で十分なのでは」とさえ思っていた3泊4日の「火焼島之旅 2012白色之道青年体験キャンプ」もいよいよ最終日。活動を通じて得た仲間たちとの別れが近づいてくると、かえって「一週間くらいあってもいいのでは」と思うようになるのですから皮肉なものです。展示コーナーの地べたに寝袋を敷いて雑魚寝した生活も、ホテルや民宿に泊まるよりさらに仲間意識を強くしたのかもしれません。
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 いつも通り午前7時に起床、簡単に朝食を済ませたあとは、陳文成基金会董事の陳玉霖氏による「陳文成事件と陳文成基金会」と題した講義。
 それに引き続き、いよいよ終業式。この4日間、白色恐怖の受難者やその家族、研究者から学んだことを糧に、4つにわかれた組がそれぞれ演劇や歌でその成果を披露します。私たちの第一組は、蔡焜霖先生が最後の夜に教えてくれた「ダニー・ボーイ」と于凱さんの秘話をもとに短い演劇を作りました。昨夜はロウソクの日を囲み、波の音が間近に聞こえる人権記念碑の闇の中で台本をひねり、講義室で深夜2時頃まで練習して本番に望みました。

 白色恐怖が辛酸を極めた1950年代、台北工業高校の学生だった黄守禮さんは、でっち上げの罪でしょっぴかれました。歌をこよなく愛した黄守禮さんは、歌で友を励まそうと、処刑のために引かれていく友には日本語の「幌馬車の歌」を今生の別れの歌として送りました。

 夕べに遠く 木の葉散る 並木の道を ほろぼろと 君が幌馬車見送りし
 去年(こぞ)の別離(わかれ)が 永久(とこしえ)よ

 そして、故郷で息子の帰りを待つ年老いた母親を想う歌として英語の「Danny Boy」が獄中で歌われる愛唱歌となりました。

 黄守禮さんがぶち込まれていた牢獄の隣りに入っていた于凱さんは、中国大陸の山東省出身。共産党に加担した咎で逮捕されたとき台湾大学歴史系の2年生でした。死刑の判決を受け、いよいよ刑場に向かう時、于凱さんは遠く山東で我が身を案じ、よもや息子が台湾で銃殺されることになっているとは露ほども知らない母を想い「Danny Boy」を歌ってくれるよう頼んだのです。

 刑場に引かれていく于凱さんを励まそうと、壁の隙間から手を伸ばした黄守禮さんは驚きました。于凱さんの手の爪という爪が剥がされていたのです。
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 白色恐怖の被害は、単純に「外省人=加害者、台湾人=被害者」といった、一方的に国民党が台湾人を抑圧した構図で捉えられがちですが、実際には台湾人(高砂族も含む)はもちろん、多くの外省人もやられています。そして、その被害の方向は家族、親戚、友人、職場、学校などと、被害者本人の周囲に放射線状に拡散し、その子供、孫というように現在に至るまで続いているのです。

 国民党、なかんずく蒋介石は大陸反攻を掲げ、共産党殲滅のためにあらゆる犠牲も厭いませんでした。「99人の冤罪が出来ても、1人の共産主義者を捕まえられればよい」という蒋介石の言葉はその狂気の一端を物語っています。そのために多くの無辜の人々が殺されたり、長い年月の自由を奪われ、恐怖政治に慄く毎日を送りました。無念のうちに倒れた人々は、現在の国民党が共産党に擦り寄る光景を目にしてどう思うでしょうか。
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 無事に終業式も終わり、これにて一応プログラムはすべて終了。4日間お世話になった緑洲山荘を後にして、ほんのわずかな自由行動です。

 思えば4日前、この道を人権記念園区に向かって歩いているときは、初めて会ったばかりで口数も少なかったのが、今この道を戻るときには同じ時間を共有した仲間となっていました。日本人の参加者も別け隔てなく迎え入れてくれた仲間たちに感謝です。

 昼食は空港が目の前に見えるレストランにて。緑島名物の海鮮、トビウオもきちんといただきました。そしてデザートも忘れず、これまた名物の「海藻豆花かき氷」。なかなかシュールな色合いです(笑)。
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 そしていよいよ午後2時半の船で一路台東へ。お世話になった緑島ともいよいよお別れです。「通常であれば必ず船酔します」とまで言われて脅かされましたが、緑島へ渡るときはベタ凪だったそうで、まるで電車に乗っているかと思うほど揺れず。台東へ戻る際も、多少は揺れましたが、甲板で写真を撮ったり大騒ぎしているうちに着いてしまいました。船上では、ずっと同行していただいた蔡焜霖先生が締めのインタビュー。
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 台東富岡漁港からバスで15分ほどで台鉄台東駅へ到着。ここで仲間たちとはお別れです。得るものばかり、助けてもらうばかりの4日間。白色恐怖の傷跡未だ癒えたとは言えない台湾社会が、真の自由と民主をつかみとるため、日本人の私たちはこれから何ができるでしょうか。
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by ritouki | 2012-09-03 23:19 | イベント