台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 緑島で迎える3日目。実はこの活動に参加を決めたものの、実際に参加する際にはちょっと緊張していました。台湾に住みついてまる5年。台湾の人々の、どこから湧いてくるのか分からないほどの優しさ、外国人だろうがなんだろうが異質なものを異質なものと思わず受け入れて接してくれる懐の深さを知ってはいるため、心配することはないだろうと思う反面、やはり知らない人の間に飛び込んでいくのは緊張でした。

 ただ、船に乗って緑島へ到着し、歩いて「緑洲山荘」へ向かっているときには、まだグループ全体にぎこちない緊張感があったものの今や昔。夜になってシャワーの順番待ちをするころには、もはや同級生とともに過ごしているような気持ちになったものです。

 今朝は7時起床で朝食。昨日の6時起床に比べれば甘いものです。サンドウィッチの朝食をそこそこに済ませ、8時からは「緑洲山荘」内にある通称「八卦楼」と呼ばれた監獄を見学します。正式名称は「国防部緑島感訓監獄」ですが、上から見ると監獄が監視しやすいように「八卦」のような放射線状に伸びていたため「八卦楼」と呼ばれたということです。
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 監獄は一部屋が10畳ほど。一角に便器が置かれ、この狭いなかに20名以上の政治犯が押し込まれていました。新入りの寝る場所は便器の隣と決まっており、寝ているときには小便の飛沫が顔にかかることもあったとか。こうした経験を話してくれたのは陳欽生さん。マレーシア育ちの台僑で、成功大学の学生だった22歳のとき、台南にあった米国新聞處によく足を運んでいたことから目をつけられ、国民党にしょっぴかれ、緑島で12年を過ごしました。
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 昼食を挟み、午後は陳儀深・中央研究院近代史研究所副研究員や、白色恐怖の被害者である黄廣海さんから話を伺います。
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 黄さんは広東生まれの外省人。1950年に国民党とともに中国大陸から撤退し、台湾へ逃げこんできました。空軍に勤務していたとき、当時の国策ともいえた「一年準備、二年反攻、三年掃蕩、五年成功」という大陸反攻のスローガンはまるっきりデタラメだということを悟ります。そのことを香港にいた友人へ送った手紙のなかで度々言及していたことから1954年7月「人心を撹乱させた」罪で無期徒刑の判決を受け、緑島で21年を過ごしています。

 白色恐怖の嵐のなかで、このように被害に遭った外省人が少なくないことはあまり知られていないのではないでしょうか。特に、日本人にはほとんど知られていないように思います。というのも、私自身の経験からいっても、台湾の戦後史を生半可に学ぶと「外省人は加害者で、本省人は被害者」というステレオタイプに陥りやすいからです。

 白色恐怖の被害は単純な見方だけでは捉えきれません。国民党に楯突く人間は、台湾人・外省人・高砂族を問わず、いわば誰でも被害者になりうる可能性があります。そして、被害者本人はもとより、家族、職場、友人という具合に、複層的に拡がっていくのです。

 外省人と一口にいっても、大陸から台湾へ逃げこんできた人間のなかには、私腹を肥やす本当のワルと、野良仕事のさなか拉致同然に引っ張られていつの間にやら台湾へ連れてこられ、何十年も故郷へ帰れなかった人もいます。あまつさえ、黄さんのように、白色恐怖で緑島へ20年以上もぶち込まれ、出獄後は結婚もせず、家族もおらず、一人で暮らしている人がいるのも事実です。これもまた、外省人=悪という単純な考え方では捉え切れません。

 先週、本会主催の「基隆・金瓜石をめぐるツアー」を行った際、日本時代の基隆中学出身の方々からお話しを聞く機会に恵まれました。
 日本が大東亜戦争に敗れて中華民国がやってくることになり、皆さん港へ歓迎のため、中華民国旗を持って出掛けたそうですが、アメリカの軍艦から降りてきた中華民国の兵士たちは破れ傘に天秤棒、鍋やかんをぶらさげて、うつろな目でふらふら歩いてきたそうです。
 それまで、日本の兵隊のまがりなりにもゲートルを巻いて整列し行進する姿を見慣れていた基隆中学の皆さんは「巷では台湾は祖国に復帰したと言ってるが、これはもっとひどい時代が来るにちがいない」と感じたことを異口同音に話してくれました。

 こうした台湾の人々が感じた不安は後に現実のものとなり、むしろ想像以上の恐怖社会が出現しました。彼らが見た中華民国のみすぼらしく統制のない姿もまた事実であったことでしょうが、そうした下級兵士のなかには、後に自らが所属していた国民党独裁体制のなかで白色恐怖の被害に巻き込まれていった人も存在したのが事実なのです。

 単純な見方すなわちステレオタイプでは、とても白色恐怖というテロリズムを理解することは出来ないと改めて感じました。
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by ritouki | 2012-09-02 23:17 | イベント
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「火焼島之旅 2012白色之道青年体験キャンプ」2日目。宿泊しているのは、男性参加者は監獄内の展示スペースの一角。全員寝袋持参で、地べたにごろ寝です。幸い、冷房はありますが浴室はありません。女性参加者もまた監獄内にある簡易宿泊施設。こちらは浴室付きながら冷房はなし。不便をかこちながらも、監獄に収容されていた政治犯と比べればなんのこれしき。慣れてしまえば、シャワーの順番待ちにかこつけて夜更けまでおしゃべりしたことも楽しい思い出です。
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 今朝は6時起床。早々に朝食を済ませて、緑島監獄から見て東側に位置する墓場へ出掛けました。早朝とはいえ離島の日差しが容赦なく照りつけるなか、徒歩15分ほどで到着。監獄の付近はアスファルトで整備されていますが、墓に続く道は小道と砂浜を歩いて来なくてはならないので、ほとんど観光客は寄り付かないといえるでしょう。ここには、監獄に収容されている間に亡くなった政治犯や監獄の職員らが埋葬されています。

 海を望む小高い丘に、いくつもの墓碑が建てられているのが見えます。病気で亡くなったり、なかには発狂してそのまま亡くなってしまった人もいたようです。参加者は、百合の花をそれぞれ手向けました。
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 その墓を通り過ぎてさらに東へ向かうと、岩が海の方向へせり出し、あたかも屋根のようになった場所に出くわします。蔡焜霖先生によると、この場所で自分たちが食べるための野菜などを栽培していたとか。緑島は海に囲まれた小さな離島で、米などの栽培が難しく、政治犯のために本島から運んで来る量は限られています。そのため、監獄に収容されている政治犯はそれぞれの隊に分かれ、自分たちの隊の食糧を出来るかぎり増やすために野菜などを栽培していたとか。
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 その後、緑島監獄へ戻り「新生訓導處」を見学。政治犯を収容し、徹底的に国民党のための「洗脳教育」を施した場所です。「不自由の中の自由」として、政治犯が心の拠りどころとしたのは家族への手紙でした。とはいえ、一週間に一度、300字以内の制限が設けられており、文言の中に少しでも当局の意に沿わないものがあれば、即刻処罰が待っていたそうです。そのため、細心の注意を払って手紙をしたためたものだと、蔡先生は語っていました。
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 昼食を挟み、午後は白色恐怖の被害にあった人々の家族の声を聞く講義。現在、国立高雄海洋科技大学で教鞭をとる黄春蘭先生は、医師だった父上の黄温恭さんを失いました。黄温恭医師は日本時代、台南二中を卒業して日本へ内地留学。その後、ハルピンで軍医として勤務しました。日本の敗戦後、国共内戦のさなかに共産党に捕われて捕虜となりましたが、党に加入する条件と引き換えに台湾へ帰国し、診療所を開設していました。
 1953年、父上の黄さんが逮捕された際、黄教授はまだお母さんのお腹のなか。父上は娘をひと目見ることもなく、黄教授が生後5ヶ月の時に処刑されました。享年33歳という若さでした。
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 それから50年あまりの月日が流れ、台湾でもいわゆる情報公開法が成立。そこで、2008年末に黄教授のお嬢さんが、祖父である黄温恭氏が逮捕処刑された経緯に関する資料の情報公開を求めたところ、なんとその資料の間に挟まっていた、黄温恭氏が妻や子供たちにあてた遺書が出てきたというのです。

 遺書は全部で5通。妻、妹、まだ会ったことのない末娘の黄教授を含む3人の子供たちへ書かれたものでした。黄氏はこの5通を、許された4時間のうちに書きあげたということです。黄教授は「56年生きてきて、初めて父親が自分を想ってくれていた、愛してくれていたことを実感した」と話しています。

 しかし、この遺書が見つかった後、さらにまた厄介な問題が持ち上がりました。国民党政府はこの5通の遺書を「公文書」であるとして、遺族への返還を拒んだのです。政府側は法を盾にとり、拒む姿勢を続けましたが、遺族側の粘り強い抗議により、やっと遺書は遺族のもとへ返されることになりました。発見から実に2年8ヶ月の月日が流れていました。その間、残念ながら90歳を過ぎていた黄教授の母上は、痴呆症によってその意味を理解することが出来ず、夫である黄医師による遺書を手にすることなく2009年に亡くなりました。

 白色恐怖がもっとも凄惨に吹き荒れたのは、1950年代から60年代と言われています。実際に白色恐怖の被害に遭った人々は、高齢化もあって年々減少しているのが事実です。しかしながら、白色恐怖の被害は本人だけにとどまらず、その家族、子々孫々の世代にまで及んでいることを忘れてはなりません。白色恐怖のさなか、政治犯として一度逮捕されれば、たとえ刑期を満了して出獄したとしても、就職や引越し、出国に多大な影響を及ぼします。「監獄を出て社会に戻っても、目に見えない監獄が待っている」と言われるのはそのためです。

 実際、黄教授も学生時代、アメリカの大学院に合格し、政府に奨学金を申請しましたが、条件に合致しているにもかかわらず、奨学金は支給されませんでした。理由を問うと「支給できないものはできない。理由はない」との返答で、結局、米国留学を断念したそうです。これも、父親が政治犯という「要注意家庭」ゆえに受けた被害です。

 こうした状況を考えれば、社会的にはすでにかなり自由民主化された台湾であっても、国民党が犯した白色恐怖の傷は、未だに深く深く被害者と家族を苦しめているといえます。
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by ritouki | 2012-09-01 23:25 | イベント