台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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by ritouki | 2012-11-26 16:35 | イベント
 昨日午後の蔡英文主席の講義で開幕した第18回・日本李登輝学校台湾研修団は2日目を迎えました。本日は朝から夕方までずっと座学の日。

 午前9時15分から、黄天麟先生(元総統府国策顧問・元第一銀行頭取)による「台湾の経済と日台FTA締結」でスタート。FTAとひとくちに言っても、慎重に締結先を考慮しなければならない。例えば、農作物でも、相互に補完できるような品物を輸出できるような相手先を選ばなければ却ってデメリットを生み出してしまうなどと警鐘を鳴らしました。
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 続いては初登場の陳南天・台湾独立建国聯盟主席。昨年11月に急逝された黄昭堂主席の後任として台湾独立運動の先頭に立ってらっしゃいます。タイトルは「基隆と日本の交流史」。故郷でもあり、副市長や代理市長を務められたこともある基隆と日本の密接な交流についてお話しいただきました。基隆は内台航路の玄関口として、軍港として日本時代も戦後も重要な役割を果たしてきました。そんな基隆にスポットを当てた内容です。
 陳主席には明日、実際に基隆での野外研修にご同行いただく予定です。
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 ランチを挟んで午後一番の講義はご存知「老台北」の蔡焜燦先生。「台湾人が大切に思うもの」と題された講義はまさに蔡先生の独壇場。相変わらずの丁々発止でユーモアたっぷりの語り口であっという間に参加者を魅了。日本と台湾の世界でも類を見ない密接な関係を紐解く蔡先生の講演に一同感無量の様子でした。
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 そしてフィナーレは国際法の若手ホープ、李明峻先生(新台湾国策シンクタンク副執行長)による「台湾の国際法的地位」は、国際法の基礎を簡単明瞭に解説しながら、台湾と中華民国の関係を国際法の観点から講義。多くの人々が混同している国際政治の視点と国際法の視点を峻別して分かりやすくご説明いただきました。
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 午後5時半までの講義で本日の予定は終了。今夜は自由行動のため、台北市内へ繰り出したり、淡水の夜市を楽しんだりと思い思いに過ごされたようです。
 明日は基隆、宜蘭への野外研修へ出発。月曜日に淡水へ戻り、李登輝元総統の特別講義です。
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by ritouki | 2012-11-23 22:46 | イベント
 第18回を迎える日本李登輝学校台湾研修団が今日からスタート。今回の参加者はスタッフを含めてちょうど50名。第1回目の参加者63名に次いで史上2番目の参加者数です。

 参加しているメンバーは日本全国はもとより、米国やタイに在住している方も。午後3時過ぎに宿舎となる淡水のホテルに集合し、研修会場となる李登輝基金会(群策会を改称)へと向かいます。

 到着後すぐに始業式スタート。今日は李登輝元総統が台北市議会で「台北の過去と未來」と題する講演を行うため、王燕軍秘書長が同行しており、かわりに郭昆文副秘書長に歓迎のご挨拶をいただきました。

 そして今回の研修団の目玉のひとつ、第一弾の講義は蔡英文・元民進党主席をお招きしました。もともと、第18回の研修団でどなたに講義をお願いしようか話し合った際、「蔡英文先生にお話しいただけたら」という声が上がり、ダメもとでお願いしたところ、なんとか日程をご調整いただいて実現したわけです。
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 静かな語り口で始まった蔡主席の講義はたっぷり1時間。日本語族がだんだんと退場していくこれからの台湾では、日本語が流暢のみならず、日本の文化や政治、経済、価値観まで熟知している台湾人の人材を探すことは非常に難しくなった。特に2008年以降、国民党が与党となった以降の駐日代表(駐日大使)の顔ぶれを見ても、日本語さえ心もとない人選ばかり。これからの「ポスト日本語族世代」をいかに考えていくかが、今後の日台関係を良好に維持するカギ、などと話されました。
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 その後、質疑応答にも30分ほど割いていただき、90分の講義は終了。最後に参加者と記念撮影にまでおさまっていただきました。

 夜は近くの海鮮レストラン「海中天」で晩餐会。初日ということで多少固かった雰囲気も和み、明日からの研修に英気を養いました。

 ↓左は通訳をしていただいた張文芳・友愛グループ代表。
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by ritouki | 2012-11-22 23:44 | イベント
 台湾土産や名物と聞いて思い浮かぶのがパイナップルケーキ。このパイナップルケーキ市場もここ数年で大きな変化を迎えています。
 その革命児は台湾中部の南投に生産拠点を構える「微熱山丘」。従来の伝統的なパイナップルケーキは「パイナップル」とは名ばかりで、主に冬瓜で作られた餡が使われていました。しかし、微熱山丘のパイナップルケーキは、そのまま食すには酸味が強すぎる「土パイナップル」という品種を用い、果肉ゴロゴロ、繊維質たっぷり、甘さだけでなく酸味もある味を生み出したのです。

 この「微熱山丘」のパイナップルケーキは大ヒット。とにかく美味しいものには目がない台湾の人々のことですから、ちょっと片田舎にある商品だろうがなんのその。インターネット販売でも数ヶ月待ちという状況も相まって、あっという間に台湾を代表するパイナップルケーキブランドにのし上がったのです。

 今年9月には南投を視察した李登輝元総統も訪問。現時点では台北で購入できる拠点は2箇所だけですが、すでにシンガポールと上海に海外支店があり、来年には東京の青山に支店がオープン予定です。
 これに追随するように、有名ホテルやレストランがこぞって土パイナップルを用いたケーキを開発。小籠包で有名なあの鼎泰豊まで売り出す始末。ただ、なかでも微熱山丘と並んで特に美味しいと評判なのが国賓飯店のもの。豪華なラッピングということもあり、お土産に最適です。
 蔡焜燦先生も日本からのお客様へ送るお土産としてよく国賓飯店のパイナップルケーキを選ばれます。皆さんのなかにもいただいた方がいらっしゃるのではないでしょうか。
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 そんな百花繚乱のパイナップルケーキ界の風雲児(?)として登場したのが、ホテルオークラ台北オリジナルのパイナップルケーキ。オークラ台北は今年8月にオープンしたばかりということで、それだけでも話題性豊富なのですが、ご覧くださいこのラッピング!
 ひとつひとつのケーキが異なる包装紙にくるまれて出番を待っています。なかのパイナップルケーキは、微熱山丘などと同じく土パイナップルを用いたもの。宿泊する客室にはウェルカムスイーツとして2個用意されているとか。
 ケーキが入っている箱もどこかレトロでどこかモダンなデザイン。聞くところによると、新進気鋭の台湾人女性画家の作品をモチーフにしているそう。
 価格は12個入りで480元、20個入りで780元。最近は人気がうなぎのぼりとなり、午後に入荷したものが、夜には売り切れになることもしばしばとのこと。
 それにしても、この包装の細かさや繊細さはやはり日本独自のもの。中身は美味しい台湾、外見は美しい日本と、日台の素敵なコラボレーションといえるでしょう。
 予約販売も可能だということですので、お土産に狙っている方は、早めのご予約をオススメします。

 ※購入・予約はホテルオークラ台北1Fのベイカリーにて。
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by ritouki | 2012-11-18 23:23 | イベント
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 昨夜は台北市内の会場で「黄昭堂主席記念音楽会」の夕べ。そして今朝は7時半に集合して台南の七股へ黄主席のお墓参りです。

 本来なら台南までは新幹線を利用したほうが早くて快適なのですが、嘉義との県境に近い七股までは、いずれにせよ新幹線嘉義駅からバスを仕立てなくてはならないことや、40名近い参加者があるということで、台湾独立建国聯盟がバスを用意してくれました。

 先日、独立聯盟の王康厚前秘書長から「聯盟がバスを出すけど、一緒に墓参に行きませんか」とお誘いいただきました。高座会などのイベント続きでオーバーヒート気味だったものの、私の人生を変えたと言っても過言ではない黄主席の墓参ともなれば、不義理をすることは「日本人がすたります」。

 数年前の日本李登輝学校台湾研修団。当時、台湾で語学留学中だった私は、今後のことについて選択をしなければいけない時期に来ていました。台湾で引き続き語学を学ぼうか、本格的に進学をしようか、仕事を探そうか、それとも日本へ帰ろうか。ある人からは、語学学校はたとえ何年通っても語学学校にしかすぎない、とアドバイスされ、それではどうしようか、と。

 そんな頃に参加した李登輝学校の講義中、黄主席は突然私の名を呼び「台湾の国際法上の地位っていうのは、これまでの世界のどこにもなかったような状況なんだ。あんた、これからこのことを研究して論文書いたら面白いのが書けるよ」と言われたのです。そのひとことで即断即決、私は台湾で進学し、本格的に勉強することを決めたのです。

 それから数年、最初の頃の専門とは多少変わったものの、あのときの黄主席のひとことがなければ、私はもしかしたら違う選択をしていたかもしれません。そういう意味で、黄主席のひとことは私の人生を「変えた」ともいえるでしょう。もっとも、後になって黄主席にそのことを話したら「あん?私、あんたにそんなこと言ったの?」と言われ大コケ。とはいえ、独立聯盟のリーダーとして30年以上、有象無象を見抜きながら生きてきた黄主席一流の「おとぼけ」だと私は思っていますが。

 黄昭堂主席の命日は昨年の11月17日、金美齢先生の夫君、周英明先生の命日は11月9日、今年でもう七回忌。お二人とも偶然にも同じ霜月に旅立たれました。

 台南までは台北からバスで4時間弱。早朝に出発したこともあり、高速道路はなかなか快適です。一眠りして目が覚めると、車窓からはギンギラギンの陽が差していて暑いほど。気温はなんと32度!外の景色は強い日差しにビンロウの木が揺れる、まさに台湾南部のそれです。

 途中、嘉義駅で新幹線組や高雄から参加組を拾い、七股の市街地で昼食。台南の海側に近いため、海鮮が名物とのこと。厚切りの刺身や、台北では見たこともない「サバヒー(虱目魚)の胃袋」を堪能。
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 昼食後は、川面に釣り糸を垂らしたり、子供たちが水遊びをする光景を横目に田んぼを突っ切って「七股納骨堂」へ。実は私自身、お墓があると勘違いしていましたが、納骨堂に奥様のお骨とともに納められているとのこと。青空に瓦屋根が映える立派な建物が見えてきました。地元の独立聯盟メンバーの皆さんもお待ちかねです。
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 今回の慰霊祭には、日本からも黄主席のご長男である黄正澄さんと奥様、三男の黄正嘉さんも日本から出席。昨夜の音楽会の際にも登壇されて皆さんに挨拶されました。
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 嘉義から合流した陳南天主席や、姚嘉文・元考試院長、詩人の李敏勇氏らが挨拶。晩年、奥様を失ってからキリスト教の洗礼を受けた黄主席のため、賛美歌を歌い、聖書の一節を読み、日本語で「千の風になって」を歌いました。
 この「千の風になって」の歌詞は、死しても魂は墓の中ではなく、私たちの身近なところにいて、私たちを見守ってくれる内容。思春期の頃から「死」というものを哲学的に考え続けてきたという李登輝元総統が「生と死」を語る際によく引用されるのもこの歌。6年前に亡くなった周英明先生も、闘病中、見舞いに訪れた教え子たちに「悲しまなくていいよ、僕は歌にあるように千の風になるんだから」と話し、涙を誘ったそうです。
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 最後に遺族を代表して長男の正澄さんが挨拶に立たれました。生前、父である黄主席から「お前たちにはなんの財産も残してやれなかった」と言われたそうですが「財産どころか、こんなにも父を慕う先輩方や友人の皆さんに囲まれて、父も私たちも本当に幸せものです」と話されました。ご長男の正澄さんは笑うと目尻が黄主席にそっくりです。
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 参列者全員が黄色い菊を献花し、納骨堂のなかで黄主席と奥様にお参り。無事に1年目の墓参が終わり、遺族の皆さんも聯盟の方々もホッとされたことと思います。
 バスでの帰り道、途中まで同乗していただいたのは黄主席の弟さん。こちらもやはり笑顔が黄主席そっくりです。今般の台南での慰霊祭一切を準備して下さったとか。また、黄主席が30年以上にわたり台湾を留守にされている間、故郷台南の家を守ってきた方でもあります。
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 帰り道は日曜日の渋滞に巻き込まれ、新竹あたりからバスは数時間ノロノロ運転。やっとの思いで台北に着いたのは午後9時すぎ。台南からなんと6時間以上バスに揺られていたことになります。ともあれ、無事に墓参を終えてホッとされたご家族を交え、お酒に目のなかった黄主席に献杯し散会となりました。
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by ritouki | 2012-11-11 23:26 | イベント
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 昨年の11月17日、急逝された台湾独立建国聯盟の黄昭堂主席を偲ぶ記念音楽会が、台北市内の「公務人力発展センター」で開かれました。

 夜7時30分からの音楽会では、1200席のホールがほぼ満席。ズラリと並んだ来賓の顔ぶれもオールスター級の豪華ラインナップ。民進党の蘇貞昌主席をはじめ、陳菊・高雄市長、蘇嘉全氏、黄昆輝・台湾団結聯盟主席、許世楷大使ご夫妻、蔡焜燦・李登輝民主協会理事長ご夫妻、黄天麟・元総統府国策顧問ご夫妻、黄昆虎・台湾之友会会長、彭明敏教授、張炎憲教授らの姿が見えました。
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 主催の台湾独立建国聯盟を代表し、陳南天主席が挨拶。今もなお、多くの人々から愛されてやまず、慕われ続ける黄主席の急逝を悼み、記念音楽会が開催できることを感謝して挨拶を結びました。
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 音楽会では、聯盟のメンバーを中心に結成された台湾雅歌合唱団や、ニューヨークで声楽を学んだ呉庭和・台独聯盟副主席らも歌声を披露。そのほか、比較的若いメンバーによる台湾歌謡を中心とした音楽の調べを楽しみました。
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 明日は台南へ黄主席の墓参に行って来ます。
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by ritouki | 2012-11-10 23:49 | イベント
 今年で25回目となる台湾高座会の記念大会が11月9日、10日にかけて開催されました。この大会は、毎年台湾各地に設けられた支部による持ち回りで、昨年11月に嘉義で開催された大会には、日本李登輝学校台湾研修団の一環として出席しました。

 今年は桃園県の楊梅区会が担当。会場は、中壢市の国立中央大学に近いレストランで行われました。9日に開催された前夜祭には、日本の高座日台交流の会メンバーをはじめ、日本からの出席者と地元区会会員によるなごやかな晩餐会となりました。本会からは、柚原正敬事務局長が小田村四郎会長の名代として出席しています。

 挨拶に立ったのは台湾高座会を長年まとめて来た李雪峰会長。李登輝民主協会の常務理事も務めるジェントルマンです。続いて、日本側を代表し、高座日台交流の会の石川公弘会長がお祝いの言葉を述べました。
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 石川会長は本会理事も務めていただいていますが、長らく神奈川県大和市議の任にありました。お父上は、台湾少年工の舎監だった石川明雄氏。大和市議長の時代、たまたま市長が不在だったために応対した来客が、高座会のメンバーだったことが縁となり、その後、大和市で開催された1400名を超える少年工の大訪問団へと繋がっていきます。
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 翌日は、同じ会場で午前10時30分から記念大会。台湾各地からバスを仕立て、600名近くの元少年工や家族が参加し、盛大な会となりました。来賓として、交流協会台北事務所の樽井澄夫大使、蔡焜燦・李登輝民主協会理事長らも登壇し、祝辞を述べました。
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 蔡理事長は、高座日台交流の会会長に就任したばかりの石川公弘を名指しし「今から悪口を言います。石川会長は2004年の総統選挙直前、台湾で200万人が参加して『人間の鎖』をやったとき、一人で台湾にやって来て、中部かどっかの地点で台湾の人と一緒に鎖になってくれた。近くにいた人が日本語の出来る人を呼んできたり大騒ぎしたそうだ。それで『私も台湾人だ』なんて言う。台湾語も出来ないくせに何言ってるんだ。台湾のためにどうもありがとう」と、蔡理事長ならではのユーモアで感謝の言葉を述べました。
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 来年は台湾少年工が日本への第一歩を印してからちょうど70周年の記念大会が5月9日に開催されます。李登輝元総統も、この記念大会へ出席するため訪日する予定となっています。
 
 台湾での記念大会も、会員の高齢化により、今年の第25回大会が最後となりました。来年以降も交流大会は続けていきますが、これまでのような大規模なものはもう出来ないとのことでした。当時の年齢から考えると、少年工の皆さんの年齢も80歳以上。来年の70周年記念大会が大きな集まりとしてはフィナーレになるだろうとも言われています。かたちは変われど、少年工の皆さんによる交流の絆がこれからも続いていくことを願ってやみません。同時に、来年の70周年記念大会の成功を陰ながらお手伝いしたいと思います。
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by ritouki | 2012-11-10 16:46 | イベント
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 ここは銀座でも新宿でもありません。れっきとした台北でのひとコマです。

 市民族東路にある台北魚市場に登場した「上引水産」。台湾における高級日本料理店として盤石の地位を誇る「三井」がオープンした、立ち食いスタイルのお寿司屋さんです。
 席はすべて立ち食いで、長く伸びたカウンターには混雑する時間帯にはお客さんが鈴なりに。平日でも時間帯によっては行列覚悟の人気店です。人気の秘密はやはりネタの豪華さと新鮮さでしょう。高級日本料理レストランとして知られる三井が一手に仕入れるからこそ出来るのかもしれません。
 ビックリするのはそのお値段。写真の特上にぎりは10貫以上でなんと700元弱(日本円約2000円)。これを銀座で食べたらと思うと、お会計が怖くてゆっくり味わえません。
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 寿司カウンターの周囲は高級食材を扱うスーパーになっており、海鮮だけに限らず、肉や野菜など、三越やSOGOでもなかなか手に入らない高級食材が所狭しと並んでいます。

 台湾にいながらにして、というよりも、台湾だからこそ格安で味わえるとびきり美味しいお寿司です。
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by ritouki | 2012-11-09 20:01 | イベント
 最近、ふとしたきっかけで、台北の日本人学校に通う中学生の国語教科書を手にとる機会がありました。そのなかで目にとまったのが三浦哲郎の「盆土産」という文章。私が中学生のときにも教科書に載っていた記憶があります。

 都会に出稼ぎに出ている父親が、盆休みの帰省土産として冷凍のエビフライを携えて帰って来ます。エビフライが傷まないように、夜行列車に揺られながら、眠りを寸断して何度もドライアイスを取り替える父親の、子供たちに美味しいエビフライを食べさせてやりたいという愛情を感じる一方、初めて口にするエビフライの美味の記憶がないまぜになった主人公の子供は、再び都会へ戻る父親を見送る際、「さよなら」でもなく、つい「エビフライ」と言ってしまうお話し。聞き覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 そして、もうひとつが向田邦子の「字のないはがき」。本土空襲で一家もろともやられるよりは、と末娘を疎開に送り出した父は、まだ字の書けぬ妹に大量のはがきを持たせ「一日一枚、元気だったら○を書いて出しなさい」と言いました。しかし、当初元気だった○は次第に小さくなり、やがては×に。数週間後には体調を崩し、はがきも届かなくなります。母に迎えられて東京に帰ってきた妹を、はだしで飛び出して迎え、家族に初めて男泣きの姿を見せた父の愛情を綴ったエッセイです。

 向田邦子といえば、皮肉にも、1981年8月に台湾は苗栗県上空で発生した航空機事故により、その短い生涯を終えました。「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」など、飄々とした筆致のなかに、家族の情愛や懐かしい風景を切り取った文体が爽やかで、私も大好きな作家の一人です。

 そんな向田邦子の代表作が『父の詫び状』。保険会社の上役だった父は、毎夜のごとく取引先や部下を自宅へ連れ帰り、家族を巻き込んで接待させました。ある冬の朝、前夜の客が粗相した後を黙って始末した主人公(向田邦子)に対し、数日後に下宿先へ手紙が届きます。性格同様、四角四面の文面に続き、最後に「この度は格別のお働き」と書かれ、横に朱で丸がつけてあったとか。向田邦子は当時を懐かしみ、これこそが昔気質で素直に感情を出せなかった父の、せめてもの「詫び状」だったのだろう、と述懐しています。

 前置きが長くなりましたが、今日の話題は金美齢先生の新刊『夫への詫び状』(PHP文庫)。2007年に出版された『夫婦純愛』のリメイク版です。
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 金先生の最愛の夫、周英明先生が亡くなったのは2006年のこと。私が台湾留学のため、金先生の秘書を辞してから1年半も経っていませんでした。時折り新宿御苑のオフィスに現れる周先生は、いつも片手にビニール袋が。袋の中身はオレンジや、京王百貨店に入っているフォションで購入したブールなど。どれも金先生の朝食には欠かせないもの。時にはお孫さんに食べさせようと、たくさんの果物を両手に抱えてくることもありました。少しお腹の出っ張った周先生が抱えている袋の中のものは、いつも自分ではなく愛する人のための品物が入っていました。

 周先生は見るからに温和で知的で、金先生に言わせると、まさに「教師になるために生まれてきた人」。学生が分からないところは、何度でも根気よく繰り返し説明する姿は、当時はまだ小さかったお孫さんたちにとっても偉大な先生でした。

 テレビや講演会での「辛口」評論が代名詞となった感のある金先生ですが、夫である周先生は常に笑顔絶やすことなく、妻である金先生がテレビに雑誌に活躍することを手放しで応援し続けたそうです。

 ただ、金先生に言わせると、周先生も相当の頑固者だそうで、だからこそ、国民党によるブラックリスト解除後も「中華民国のパスポートを使ってまで台湾に帰るつもりはない」と頑なに「国民党的なもの」を拒んだというのもうなづけます。そんな周先生も2000年に民進党の陳水扁総統が誕生し、政権交代がなされると、ついに40年近く留守にしていた台湾の地を踏みました。決意させたのは、民進党の勝利直後、台湾からかかってきた一本の電話だったとか。「台湾はもう変わった。こだわりは一旦うち置いて帰ってくればいい」と言って、周先生の背中を押したのが蔡焜燦先生だったそうです。

 周先生がオフィスに電話をしてくると「家内をお願いします」。でも、直接金先生に呼びかけるときは「ママ」。金先生も私たちには「まったく、今朝も周先生がうんたらかんたら・・・」と言いますが、周先生には「パパ」と呼びかけていました。時には「そんなキツイ言い方しなくても」と思うような場合でも、周先生は決して怒ることもなく常に笑顔でした。単なる夫婦というかたちだけでなく、台湾独立運動の同志でもあり、30年以上にわたる日本でのブラックリスト生活のなかで育まれた絆は、普通の「夫婦」や「家族」という言葉だけでは到底表現出来ないものだったことは容易に推察出来ます。

 周先生が亡くなってから早くも6年。代々木上原の斎場で行われた葬儀には、長い長い献花の列が続き、愛してやまなかった孫娘たちが号泣する声だけが響いていたのを覚えています。葬儀が終わり、数ヶ月後に送られてきた「会葬御礼」と書かれた封筒の中には、当時発刊されたばかりの『夫婦純愛』。まさに金先生と周先生の二人三脚を振り返るに相応しい一冊でした。

 今般、その『夫婦純愛』がリメイクされ『夫への詫び状』としてPHP文庫から発刊になりました。テレビの画面を通して見た辛口版(?)金先生の素顔、いつもどこでも「連れ合い」と呼び、愛してやまなかった夫・周先生への思い。自分自身「私は奔放で自由に生きてきた」と断言する金先生も、無限の愛で金先生を守り続けた周先生あってこそ。

 向田邦子の父は、手紙のなかで娘に対するその愛情を表現しましたが、金先生もこの本を通じて、周先生へのめいっぱいの愛情と素顔をさらけ出しています。お二人の愛のかたちをぜひお読みください。
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by ritouki | 2012-11-08 03:19 | イベント
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 日本時代から親しまれてきた「台湾ゴルフ場」から淡水河を挟み、対岸の観音山を望みます。晴れた日には、淡水に向かうMRTの車窓から、観音菩薩の横顔に見えることからその名がついた観音山を仰ぎ見ることができます。

 観音山は日本時代には「淡水富士」とも呼ばれ、淡水のシンボルとして歌や詩にも詠まれたり、休日にはハイキング客で賑わいました。
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 日本時代の写真でもその雄姿は今と変わらぬ姿であることがわかります。
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 李登輝総統がこの観音山の頂上まで登り「指導者はかくも孤独だ。支えてくれるものは何もない。頼れるのは信仰のみだ」と悟ったエピソードは余りにも有名です。
 李登輝総統のオフィスが入る李登輝基金会からも観音山の美しい姿が見られます。
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by ritouki | 2012-11-03 22:55 | イベント