台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki

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 2日目の朝を迎えた名古屋商工会議所・若鯱会の皆さんによる「台湾の歴史から学ぶ『日本精神』ツアー」。昨日は遅くまで台北を満喫していた方もいらっしゃったようです。

 今日は朝から市内の研修観光。まずは萬華の古刹、台北龍山寺を参拝。戦前戦後を問わず、台湾の人々の厚い信仰を集めてきた、いわば「心の拠りどころ」です。台北の街の発展は、まさにこの萬華の地から始まりました。少しくすんだ街並みが却って下町風情を感じさせます。

 続いては中正紀念堂へ。ちょうど正面、側面の階段が工事中のため、衛兵交代の儀式を見学するためには1階の展示スペースからエレベーターもしくは階段で蒋介石の銅像があるフロアまで上がらなければなりません。
 そもそもこの衛兵交代は、観光の目玉として設けられたもので、儀式そのものにはまったく意味がありません。民進党政権の時代、一度廃止されたものの、それまで衛兵交代目当てで訪れていた観光客が減少したため、国民党政権になって復活させたという経緯があります。とはいっても、儀式そのものは見ていてなかなかのもの。憲兵のなかでもエリート中のエリートしかこの役目にはつけないとか。

 バスはすぐ近くの「228記念館」へ。1947年(昭和22年)2月27日、現在の南京西路で発生した闇タバコ売りの女性に対する国民党官憲による暴行事件により、それまで耐え難きを耐えてきた台湾の人々の堪忍袋はついに切れました。その波はまたたく間に広がり、翌日には全島蜂起となりましたが「台湾人よ蜂起せよ!」との声を運んだのが、当時の台北放送局、現在の228記念館です。

 政権が変われば展示も変わる、と言われる通り、以前と比べると展示の内容にも変化がありますが、それでも60数年前の凄惨な事件を伝えるには充分な迫力があります。初めて台湾を訪れた方が半分ほどをしめているため、戦後間もなく台湾で起きた事件に衝撃を受けたようでした。
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 続いては昼食。台湾名物の小籠包に舌鼓を打ち、竣工当時世界一の高さを誇った台北101ビルの展望台から台北の街を睥睨します。

 高さ509.2mを誇る101ビルは、2007年にドバイのビルに抜かれ、世界一の座を明け渡しましたが、現在でも台湾のランドマークであることに変わりはありません。
 ビルの外観は竹をモチーフにしたもの。竹はまっすぐ上に伸びることから繁栄を象徴し、台湾では縁起の良いものとされています。施工は熊谷組を中心としたジョイントベンチャー、展望台のある89階までをわずか37秒で上昇するエレベーターは東芝製。開業当時「鉛筆を立てておいても倒れない」と報道されるほどの性能が賞賛されました。台湾を代表する建築にも日本の技術が生かされているのを知ると面映い気がします。
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 さて、上の写真はなんでしょう?
 実はこれ、101ビルの揺れ幅を抑制する「ダンパー」です。これだけの高さのビルともなると、風による振動の影響も並大抵ではありません。そこで、660トンの重さのダンパーを87階から92階の間に設置し、横揺れを緩和しているのです。このダンパーにより、揺れを最大40%軽減出来るとか。

 トイレの個室には奇妙なイラストの注意書きが。便器以外でしてはいけません、ということでしょうか。そんなことさえ知らない人たちが対岸からたくさんやって来ているということでしょうか。
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 午後は故宮博物院を見学し、ホテルへ戻って休憩。夜は蔡焜燦先生をお招きしての晩餐会です。数日前、体調を少し崩されたようで心配していましたが、夕方に一度お電話すると「だいぶよくなったよ。名古屋の皆さんに会えるのが楽しみだ」と仰られたので少しホっとしました。
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 「台湾に残る『日本精神』」をテーマに少しお話しいただけませんか、という要望に対し、蔡先生は40分近くも立ったままで講演。「皆さんビールも飲まないでこっち見てたら話しにくいから、飲みながら食べながらで聞いてください」と、蔡先生ならではの気遣いでスタートした講演は、「あぁもうお腹すいちゃったので、ここらでご飯食べさせて下さい」とユーモアたっぷりに終了。
 お元気な姿で、日本精神を説く蔡先生の言葉に、皆さん一様に感動した様子。「このためにだけ台湾に来たといっても過言ではない」「台湾に来た甲斐があった」と口々に話されるのを聞くと、お手伝いに参上した私までも嬉しい気分になります。

 興奮冷めやらぬ皆さんも、明日は台湾総統府と景美看守所を見学して帰国。皆さんの目に台湾はどう映ったでしょうか。
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by ritouki | 2012-11-02 23:10 | イベント
 名古屋商工会議所の若手メンバーで構成される「若鯱会」の皆さんが、30周年記念事業の一貫として「台湾の歴史から学ぶ『日本精神』ツアー」を開催。2泊3日の予定で30人ほどが今日から台湾入りしました。

 聞けば、7月9日に若鯱会主催で金美齢先生をお招きしての講演会。その際、若鯱会が毎年海外研修を行なっていることに触れ、「だったら今年は台湾に行きなさい!」と鶴の一声ならぬ「金の一声」で台湾研修が決まったそうです。

 そうした経緯もあり、ツアー催行を本会系列の共栄ツアーズが請け負うこととなったため、私もスタッフとして皆さんに同行させていただくことになりました。

 事前に送られてきた名簿を拝見すると、今年の委員長には望月さんという見覚えのあるお名前。もう7年以上前、私がまだ金美齢先生の秘書だった頃、名古屋の青年会議所の方が講演依頼のためにオフィスにお見えになったことを思い出しました。通常、講演依頼はまずお手紙やメールなどでお問い合わせいただき、打ち合わせのためにオフィスへお越しいただくことも多いのですが、2度3度とわざわざ名古屋からお運びいただいたので余計印象に残っていたのかもしれません。その方のお名前が望月さん、下のお名前も珍しかったので恐らくご本人だろうと思いつつ桃園空港へお迎えにあがりました。

 ゲートから出てきた若鯱会の皆さんご一行を無事にお迎え。和服姿の望月さんからは「ご無沙汰しております」と声を掛けていただき、やはりご本人。望月さんも私のことを覚えていてくださったようです。

 バスに乗車し、一行は最初の研修場所である北投温泉の「日勝生加賀屋」へと向かいます。言わずと知れた石川県和倉温泉の名旅館が初めて海外進出したのが、ここ台湾の加賀屋ですが、今日は加賀屋誘致の牽引役で、実質的に切り盛りされている董事の徳光重人さんから1時間にわたり、加賀屋にまつわる経験談をお話しいただきました。

 商工会議所のメンバーは皆さん、中小企業の経営者やそれに近いポジション、士業など独立したオフィスをお持ちの方々で構成されています。業種は変われど、同じ経営者としての立場から、徳光さんのお話しを興味深く聞かれているようでした。

 徳光さんのお話しは、ご自身が駐在で台湾にやって来たものの、2003年にはSARSの影響を受けて撤退が決まるも、台湾に残ることを決意するところから始まりました。独立して台湾に残ったはいいものの、SARSの影響が尾を引くなか、思い通りにビジネスが進まず苦悩しているところへ、台湾の企業から「ホテル誘致」の話が持ち上がったということです。

 そこで当時から○○年連続日本一の看板を有していた加賀屋を台湾へ誘致しようと考え、企画を持ち込んだところトントン拍子に進出が決定。日本の加賀屋はバブル後の不景気を、台湾からの宿泊客にずいぶん助けられたことから、台湾に恩返ししたいという思いもあったそうです。
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 ところが、建築デザインに対する考え方や、ちょっとした行き違いで計画はたびたび頓挫。建築が始まってからも、厳格な設計デザインにより、建築材料を日本から取り寄せるなどしたため、工期は遅れに遅れ、オープンまで6年を要したとか。

 また、オープンしてからも、人材育成や従業員教育の面では台湾と日本の大きな違いを感じるなど、日々苦労しながら今日までやって来られたエピソードを、ユーモアを交えながらお話しいただきました。

 通常、1泊2日の宿泊(夕食、朝食付き)で、安くても一部屋につき室料5万円程度〜7万円ということですが、台湾だけでなく香港などからも、毎月通ってくる常連さんがいらっしゃるそうです。

 その後、館内を見学し、加賀屋を後にしました。

 続いては台北市芝山巌にある「六士先生の墓」を訪ねます。芝山巌は日本時代「台湾教育発祥の地」として知られていました。

 日清戦争の結果、清朝が日本に台湾を割譲したのが1895年(明治28年)5月。早くも翌月には、当時文部省学務部長心得の任にあった伊沢修二が台湾へ渡り、この芝山巌の地に「芝山巌学堂」を開いたのが日本統治下における台湾教育の嚆矢とされています。

 しかし、伊澤が日本内地へ帰国中の1896年(明治29年)1月1日、元旦の拝賀式に出席するために芝山巌を下山していた6名の教師が、未だ鎮圧されていなかった抗日匪賊に襲われ遭難。同行していた用務員を含む7名が惨殺されました。

 その後、抗日匪賊が未だ跋扈する危険を顧みず、台湾の教育に殉じた犠牲的精神を顕彰するため「六士先生の墓」が建てられ、伊藤博文の揮毫による「学務官僚遭難之碑」も建てられました。

 また、1930年(昭和5年)には、この地に「芝山巌神社」も創建され、ふもとから本殿跡へ続く長い階段は、数年前に森喜朗元首相が訪台した際、李登輝元総統とともに上がられました。李元総統は当時を懐かしがって「私は平気で上がったんだけど、森さんは身体が大きいからヒイヒイ言いながらだったなぁ」と笑い話をされることがあります。

 戦後、ご多分に漏れず、墓や石碑は国民党によって横倒しにされたり破壊されたりしましたが、民主化の波とともに、台湾の教育に命をかけた「六士先生」に再びスポットが当てられ、墓や碑の修復が行われました。

 一行は六士先生の墓に線香を手向け、献花して先人の偉大な精神に敬意を評しました。
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 また、芝山巌神社の境内があった場所には、前述の通り、伊藤博文揮毫の「学務官僚遭難之碑」と戦後に建てられた石碑が左右に建てられています。
 「学務官僚遭難之碑」はもちろん日本時代、台湾の教育に命を捧げた六士先生を顕彰するもの。もう一つの石碑は、戦後の国民党時代に建てられたもののため、六士先生を襲った匪賊を「義賊」として称える内容が記載されています。
 ある一つの出来事も、「書き手が誰か」によって見方が変わることを示す好例です。
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 夜は台北市日本工商会にご協力いただき、名だたる企業のトップの方々を交えての晩餐会。皆さんお忙しいところにお出掛けいただき、台湾在住の日本人としての視点や、企業トップとしての意見などをお話しいただき、有意義な会になったことと思います。

 バスは士林夜市経由でホテルへ。朝早くからの始動だったようですが、研修は2泊しかないため、皆さんエネルギッシュに台湾を満喫されています。
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by ritouki | 2012-11-01 23:57 | イベント