台北事務所の活動をお伝えします


by ritouki
 今朝の産経新聞朝刊に掲載された「旧制高校 寮歌物語(22) 日台の懸け橋となった同窓の誼」。

 この連載は今回が22回目ですが、満を持して、台北高等学校OBである李登輝元総統の登場です。
 昨年11月28日、本会の仲介により、産経新聞文化部の喜多由浩編集委員らによるインタビューが淡水のオフィスで行われました。
 紙面には本会が提供した2007年6月訪日の際、東京のホテルオークラで開かれた晩餐会での写真も掲載されています。
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 ◆校歌の一節をスピーチに

 台北高等学校(旧制)の同窓会は、東京と台北にある。昨年10月、日台双方の卒業生ら約80人が台北に集まり、台北高の創立90周年を祝う記念大会が行われた。日本から出席した元最高裁判事、園部逸夫(いつお)(1929年~、台北高・四高-京大)によれば、「みんなで一緒に校歌や寮歌を歌い、大いに盛り上がった」という。

 園部と同じテーブルに、台湾の元総統、李登輝がいた。終戦の年(昭和20年)に台北高校へ入学した園部から見れば4期上の先輩に当たる。スピーチに立った李登輝は、20年前の70周年のときと同じように、高等科設置時の校長・三沢糾(ただす)(1878~1942年)が作詞した第一校歌『獅子山頭に雲みだれ』の4番の歌詞を引用した。
 ≪ああ純真の意気を負ふ 青春の日は暮れやすく 一たび去ってかへらぬを など君起(た)ちて舞はざるや いざ手を取りて歌はなむ 生の歓喜を高らかに≫

 そして、こう呼びかけた。「第一校歌のこの一段を繰り返し、われらの古き関係を新たにしつつ、日台の心と心の絆を築いていきましょう。(中略)そしてさらに母校-台北高の『自由と自治』の素晴らしい伝統を永遠に伝えてゆくことを心から願うものであります」

 台湾に、近代教育制度を根付かせたのは日本である。公学校(小学校)、中学校、実業学校。そして、台北高、台北帝国大学をつくり、台湾人にも高等教育を受ける機会が開かれた。ただし、それは極めつきの「狭き門」であった。

 台北高の定員(高等科)は文科、理科2クラスずつ(1クラスの定員は40人)の計160人。李登輝の記憶によれば、このうち台湾人は、文科のクラスでは4、5人。最も多い理科乙類(医師を目指すコース)でも十数人しかいない。入学試験には台湾中の秀才が集まり、しのぎを削ったのである。

 「ボクは11歳のとき、父に小学館の児童百科事典を買ってもらい、それを朝から読んでいるような子供だった。知識が豊富で我(が)が強く、学校の友達では相手にならない。古事記や源氏物語も中学のときに読んでしまっていたから(台北高の)入試の国文・漢文は百点。先生もビックリしたそうだよ」

 ◆厳しく愛情にみちた時間

 李登輝にとって、台北高での学生生活は「厳しくとも愛情に満ちた時間」であった。

 多くの旧制高校の生徒がそうであったように、猛烈な勢いで古今東西の古典を読破し、先哲との対話によって思索にふけり自分の内面と向き合った。「死」とは何か、「人生」とは、「李登輝」とは…。

 中でも、人生において大きな影響を受けた本が3つある。トマス・カーライルの『衣裳(いしょう)哲学』、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』。そしてその先には、新渡戸稲造の『武士道-日本の魂』との出合いがあった。新渡戸に強く惹(ひ)かれた李登輝は、やがて、彼と同じく農業経済学を志すことになる。

 「高等学校では他ではできない勉強ができたように思う。自分の内面と向き合い、自分の心を客観的に取り出す。それは、その後のボクの人生の糧になるような『人間を作り上げる』最初の時間だったんだ。先生方も一流ぞろいだったね」

 こうした濃厚な時間を共に過ごした台北高の恩師や仲間たちは李登輝にとって特別な存在だ。平成19年に来日し東京都内で歓迎の会が開かれたときには、東京の同窓会「蕉葉(しょうよう)会」のメンバーが壇上で歌う『獅子山頭に雲みだれ』の輪に突然、李登輝が加わるハプニングがあった。「仲間意識は強いね。会うとたちまち“昔のまま”に戻ってしまうんだよ」

 90周年の記念大会ではこんなことも語っている。台北高時代には日台のクラスメートの間に民族的な微妙な心理が存在していたものの自由、自治の学風によって、こうした矛盾を超越して学校生活を送ったこと。「あの時に確立した誼(よしみ)はその後も絶えることなく続き、今日の台湾と日本の交流の懸け橋になっております」と。

 ◆「リーダー」がいない日本

 旧制高校のように人間形成を重視した教育や武士道精神に基づく道徳心…。李登輝は、かつて身をもって体験した「日本の教育」や「日本の精神」を高く評価している。それは今も変わっていないのだろうか。

 「東日本大震災の日本人の態度には、世界中の人々が頭を下げました。混乱の中でも秩序を守り、互いに思いやる心を忘れなかった。今の若い人たちの中にもこうした『日本精神』を持っている人たちがいる。ただね、今の日本には『リーダー』がいない。20年近くもデフレが続き、その間に10人以上の首相が代わった。安倍さん(晋三首相)も古い自民党の体質に縛られてしまうとダメですよ」
李登輝は、国のリーダーは2つのことだけを考えていればいい、と思う。『国家』と『国民』のために奮闘することだ。「個」の利益ではなく「公」の利益のために行動し、高い精神性と大局観を持った人物だ。

 「戦争が終わって、アメリカは日本の軍閥を潰し、財閥を潰し、そして学閥を潰した。つまり、旧制高校-帝国大学というリーダーを養成する制度です。リーダーを養成する教育システムは、アメリカにもイギリスにもある。1つ2つでいい。国のリーダー養成を専門に行う学校を作っておくべきだろう」

 李登輝は、かつての旧制高校を復活させよ、と主張しているのではない。その精神を生かしながら別な形でリーダーを作り上げる学校を設ける。一般の学校ではやらないようなカリキュラム、たとえば軍事関係を勉強したり訓練を課したり。もちろん幅広い教養やスポーツも身に付けさせる学校だ。
台湾ではいま、日本の旧制高校の教育や精神を見直す機運が出てきている。それは李登輝にとってもうれしいことだ。日本から修学旅行の高校生が来ると、「日本の良さ」や「かつて台湾で日本がやった仕事」について教えることにしている。日本の学校では、ほとんど教えないことだから、高校生たちはビックリするという。

 「今の日本の教育は、自虐的で日本の良さを教えていない。歴史は歴史、ありのままでいい。いい悪いではないんだよ」
 =文中敬称略(台湾・淡水で 文化部編集委員 喜多由浩)

 ◇台北高等学校(旧制)
 1922(大正11)年、日本統治下の台湾・台北に、外地の高等学校としては初めて設立された。7年制(尋常科4年、高等科3年)で、台湾人生徒は全体の約2割、医学部進学を目指す理科乙類に多かった。終戦にともなって台北高は廃校となり、台北高級中学に改称。校舎は現在、台湾師範大学となっている。主な出身者に、作家の邱永漢、大原一三元農水相、小田滋元国際司法裁判所判事など。外地の旧制高校はほかに旅順高(関東州)があっただけ。
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# by ritouki | 2013-01-06 23:47 | イベント
 あけましておめでとうございます。本年も日台共栄のため、皆さまのお力添えをよろしくお願い申し上げます。

 昨夜は、台湾ではもはや恒例の風物詩となった台北101ビルの花火を見に行ってきました。数年前、文字通り101ビルの足元で見た花火は豪快で感動的でさえありましたが、「祭りのあと」にはバスにも乗れず、MRTにも乗れず、タクシーも捕まらず、数時間歩いて帰る羽目になりました。

 近くで見る花火は確かにダイナミックでしたが、トイレも食べるものもすべて行列という記憶も相まってか、それ以来近くで見ることはなく、友人のマンションの屋上や大安森林公園など、少し距離のある場所から見るようになっています。

 今年もやはり大晦日はゆっくり過ごしたいと、少し遅めの食事の後、タクシーで出来る限り台北101ビルの近くへ。交通管制も毎年恒例のためか、それほど渋滞しておらず、京華城デパートのそばから花火を楽しみました。ただ、昨年までのようなドッカーンと飛び出すような花火がなく、ちょっと迫力に欠けたかな、という感じがしました。

 台湾は旧暦で動く社会のため、実はこれからがむしろ「尾牙」つまり忘年会のシーズンとなり、2月9日の除夕(旧暦の大晦日)まで師走の慌ただしさを迎えることになります。

 ともあれ、新年を迎え、新たなスタートです。
 早速ですが、お知らせです。1月19日にまどか出版から『日本人、台湾を拓く。許文龍氏と胸像の物語』が出版されます。

 日本時代、台湾に貢献した名も無き日本人の功績を顕彰するため、胸像を制作した許文龍氏のエピソードと、胸像となった日本人の物語です。
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 台湾近代化の父・後藤新平
 糖業を発展させた・新渡戸稲造
 近代水道を敷設した・浜野弥四郎
 環境型ダムを生んだ・鳥居信平
 烏山頭ダムを築いた・八田與一
 蓬莱米を作った磯永吉と末永仁
 電力利用を広げた・松木幹一郎
 台湾紅茶を育てた・新井耕吉郎
 古都・台南を守った市長・羽鳥又男

 僭越ながら、このなかの「蓬莱米を作った磯永吉と末永仁」を私が担当させていただいています。

 年頭にあたり、共著ながら新刊上梓のお知らせでスタートが切れることは大変幸せです。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

                            平成25年元旦 弥栄
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# by ritouki | 2013-01-01 04:15 | イベント
 本年も残すところほんのわずかとなりました。

 今や台北の風物詩となった台北101ビルの花火を見ようと、少し距離のある南京東路附近でも人の波であふれ、夜中12時近いとは思えない熱気です。
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 間もなく新年、本年も大変お世話になりました。新年も引き続きよろしくお願い申し上げます。
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# by ritouki | 2012-12-31 23:43 | イベント
 先ほど、友愛グループの代表幹事を務められている張文芳さんからご連絡をいただきました。友愛グループを創設した元会長の陳絢暉さんが、21日に亡くなられていたそうです。享年87歳でした。

 実を言うと私は陳元会長とは一度もお目に掛かったことがありません。とはいえ、今や「美しい日本語を守る会」としてその名を轟かせる友愛グループの創設者としてそのお名前は幾度となく見聞きしています。

 創設のきっかけとなった川端康成夫人への「”貴様”誤訳事件」は余りにも有名で、下記にご紹介する宮崎正弘先生が書かれた友愛グループ紹介の文章にも出てきますのでここでは割愛します。

 晩年は糖尿病などを併発し、病院で療養する生活を何年も送られていると、張さんから聞いていました。毎年、毎月、少しずつ少しずつ、日本語族の方々が姿を消されていくのを寂しく、悲しく感じると同時に、少しでも多くの日本語族のお話しを聞いておきたいと切に感じます。

 ともあれ、今や日本と台湾の密接な交流の代名詞となった感のある「友愛グループ」を創設した陳元会長のご冥福をお祈りすると同時に、大盛況と耳にする毎月の例会が、とこしえに続けられていくよう、私も微力ながらお手伝いしていければと思います。

 張総幹事をはじめ、友愛グループの皆さんとは親しくさせていただいていますが、いま一度、友愛グループの歴史を紐解くために、宮崎正弘先生が文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』に発表し、その後、友愛グループの機関誌に転載された文章を下記に掲載します。

 なお、陳絢暉・元会長の告別式は1月19日(土)午前11時から、台北市民権東路の「台北市立第一殯儀館」で行われます。

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 「友愛グループとは?」

 数年前、日本の評論家 宮崎正弘氏が『諸君!』に発表した文章の一部を藉りて、友愛グループの由来を説明します。

 日本の作家藤島泰輔氏が台日国交断交について、「昨日の友人を捨てた外交の酷薄さ」に義憤を感じた藤島氏は台湾問題に初めて首をつっこみ、日本と台湾の架け橋たらんとノーベル賞作家の「川端康成遺品展」を台湾で、東京では著名な中国人書家「張大千展」を催したりの大活躍だった。

 そのときに知り合ったのが当時、台北で特許事務所を経営していた陳燦輝氏とその実兄の陳絢暉氏で、私も初対面のとき、あまりの日本語のうまさに舌を巻いた。

 この陳兄弟は往時の日台文化交流に「ボランティアの通訳」を交替で買って出てくれた。
 
 当時の台湾はと言えば蒋介石政権のもと、日本の映画は御法度、大学で日本語コースは二、三校しかなく、台湾の歴史教育は「大中華思想」で反日的だった。

 この頃のことである。川端康成遺品展の打ち合わせで台北を訪問中の川端未亡人と北条誠氏の通訳をした「日本語専門家」の秘書が「あなた様」と訳す筈を北条氏に向かって「貴様は」と言ったのだ。怒髪天に衝いた北条氏が、このときの無念さを陳兄弟に語った。

 これが「美しく正しい日本語を台湾に残そう」という文化運動への伏線となった。

 (中略)

 この程度の日本語使いが公式通訳員であったり、日本語の教授として台湾で通用するとすれば、これは大変なことではないか。

 それからまもなくである。初めての非公式の集まりが陳絢暉氏の弟が経営する特許事務所の近くの喫茶店で月に一、二度有志が集まって勉強会を持つようになった。つまりスタート時点では、まったく私的な、食事会を兼ねた同好会的集まりに過ぎなかった。

 むろん、当時の政治状況はまだ戒厳令下、日本語の会などをおおっぴらに開けない政治環境だった。

 歳月は須臾(しゅゆ)にして流れ、蒋介石の子・蒋経国が八八年に急死、副総統だった李登輝が正総統となり、台湾政治の表舞台に登場する。

 台湾の民主化が始まった。日本語のビデオや映画の禁止は徐々に解かれ、いやそればかりか日本留学のブームが起こり、台湾のあちこちに日本語学校が花盛りとなる。

 (中略)

 陳さんは仲間を集め、グラス・ルーツ(草の根)的日本語勉強会を始めた。

 北条誠氏(この間に逝去)が嘆いてから、実に十数年の歳月が流れていた。
 
 機関誌『ツツジ』も1993年の2月に創刊、当時、事務所は陳燦輝氏の特許事務所の中におかれた。

 当初は「友愛日本語クラブ」という名称で、林松茂、陳燦暉、劉慕沙、陳宗顯、王得和、陳絢暉、洪祖恩等7人の発起により1992年10月20日に設立され、それが紆余曲折にあって機関誌も99年から『友愛』へ。組織名も今の「友愛グループ」となった。それまで別個に活動していた俳句、短歌、川柳などのグループのメンバーも何人か合流してきた。

 機関誌『友愛』は、いまや「文学界」並みのページ数を誇り、日本人も協力しているので、「エっ」と思うような異色の論文が出るようになった。

 たとえば「中国語方言の中で最も北京語に近いのが蘇州語で72.73%、最も遠いのがアモイ語の48.88%で、そのアモイ語に一番近いのが客家語だが、それでも58.56%に過ぎない。英語とドイツ語の開きに相当する。そして北京語とアモイ語の開きは日本語で言えば東京語と沖縄の首里方言ほどの差になる」(篠原正巳氏)という学術論考があるかと思えば、短歌を詠む人もいれば、なかには歌会始に佳作入選のひとがいる。

 台湾の「務実外交」を日本の新聞が「実務外交」として採りあげたことがある。ところが〈友愛〉機関誌では「実務は『実際の業務』であり、『務実』とは実事につとめる、つまり李登輝は外交面で実益のある方向に専念することに意味がある」と解説して暗に日本のマスコミを批判、なかなか参考になる。

 しかしそれにしてもこれら老壮世代は何故これほどまで日本語にこだわるのか?

 メンバーの蔡焜燦氏は司馬遼太郎が「老台北」と紹介した名通訳でもある実業家だ。私もよく台北でというより東京でお目にかかることが多いが、氏の案内で台湾を回った作家、批評家はかなり多いだろう。

 文学畑では石川達三、井上靖、宮本輝などの著作の翻訳で知られる劉慕沙女史もいる。

 やはり有力メンバーの楊鴻儒氏は国民党の軍人出身だが、「反乱罪」で懲役10年、軍事機密漏洩罪をでっち上げられ3年加算された獄中経験者。反乱罪とは楊鴻儒氏の友人が1971年に「台湾は中華民国のままでは国連を追い出される、台湾民国か、大華民国に国名を変更して国連に残るべきだ」とする在台日本人向けの日本語新聞に発表するゲラを事前に見せて貰ったのに当局に通報しなかったというだけの理由だ。

 結局、楊鴻儒氏は1971年12月に拘束され、1979年8月に保釈。その後、名誉回復の再審を求めようとしたが当時の台湾法では再審請求ができなかった。ただし李登輝時代になって入獄中の未払いの給料、年金を支給され実質的に名誉は回復された。いま楊氏は日本の書籍の翻訳を斡旋したり自らも翻訳をしている。

 (中略)

 翌日、陳氏らと昼飯をとりながら話を続けた。「あの懐かしい歌に籠められた日本情緒を私たちは日本語を通じて、日本人と共有できた。あの時代と比べるといまの日本はなんと変わったものでしょうか」。

 最後には深い嘆息がでてくるばかりなのである。

 以上が友愛グループ設立の経緯です。目前、友愛グループのメンバーは百名を越え、毎月第三木曜日に月例会(勉強会)を開催しており、その都度、日本人留学生や、在台日本人、或いは日本からの旅行者が友愛グループの存在を聞き知り、オブザーバーとして3~4人、多い時は5~6人も参加されています。日本語によるスピーチ発表会も毎月行なっており、たまには「懐かしい昔の歌」をみんなで楽しんでいます。勿論日本語の歌です。

 幾度か日本の新聞(産經新聞、東京新聞、朝日新聞など)が友愛グループのことを報道、NHKにもスクープされ、ドキュメントとして報道されました。

 現在会員数は141名、その内日本人が37名、最年少者25歳、最高年齢93歳、平均年齢が76歳の構成、となっています。(2012年2月現在)

 (後略)
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# by ritouki | 2012-12-26 23:21 | イベント
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 本日午後2時から、台北市内の福華大飯店において呉三連台湾史料基金会主催による『許世楷と台湾アイデンティティ外交』新刊発表座談会が開かれました。

 会には許世楷大使の前任を務めた羅福全大使ご夫妻、陳唐山・民進党立法委員、呉栄義・新台湾国策シンクタンク理事長、辜寬敏氏、黄昆虎氏らがお祝いに駆けつけました。8月には羅大使の『羅福全と日本外交』がすでに刊行されています

 基金会の呉樹民董事による開会の辞で始まった会では、張炎憲・台湾教授協会会長が司会を務め、2000年に始まった民進党政権下における羅福全、許世楷両大使の日台蜜月時代を振り返りました。
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 続いて許世楷大使による「日本が直面する内外問題」と題した講演。2004年から2008年までの4年間、駐日代表(駐日大使)を務めた許世楷氏は、1972年の断行以来続いていた日台間の閉塞した状況を打破、これまでにない高レベルの政府間交流を実現しました。
 在任中、台湾国民の訪日ノービザ措置、運転免許証の相互承認、万博への参加、大西洋マグロ類保存委員会(ICCAT)やWHO鳥インフルエンザ専門家会議への出席など、従来には実現されなかった日台間のトピックについても語っています。
 また、来週にも誕生する自民党の安倍政権に対しても非常に期待しているようで、日本に対する熱い眼差しを感じました。ただし、それは今後も台湾が日米と同じ価値観を有していくならば、という条件付きで、もし中国と手を繋ぐという選択をした場合、安倍晋三氏は台湾最大の敵となるだろう、と台湾の政府や有権者に対して釘を刺していました。
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 講演の途中、蔡英文・元民進党主席が到着。会場の拍手で迎えられました。演台に立った蔡主席は、民進党が初めて与党となった際に直面した対日外交の難題に、羅福全大使と許世楷大使というこれ以上ない優秀な外交官が日台関係を新しいステージに導いてくれた。台湾国民はこの10年来、許大使が日本やアジアにおける台湾の役割を作り上げてくれたことに感謝しなくてはならない、と述べました。
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 また、その人生を革命家として、政治家として、外交官として捧げてきた許世楷大使の正義感、情熱、智慧が詰まったこの新刊はきっと台湾をより良い方向に導く一助になってくれるだろう、と結びました。

 会はその後、張炎憲氏、謝南強氏、陳唐山立法委員、施正鋒氏による座談会が開かれ、午後5時に閉会しました。
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# by ritouki | 2012-12-23 23:25 | イベント