澎湖島へ 3日目 その2
2011年 03月 04日
そして、人気のない寂しい細道を抜けてきたにもかかわらず、目の前には似つかわしくないほど立派に整地され、整備された碑の姿が飛び込んで来たのです。
一番手前にある記念碑は「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」です。離れて見ると、碑の周囲が船を象っていることが分かります。この碑はもともと日本時代の1910年(明治43年)、この地に建てられました。歴史的経緯が複雑なので、整理して順次説明したいと思います。
まずは「軍艦松島」について。
2004年、台湾史研究で著名な中央研究院の許雪姫女史が中心となって編纂され、行政院文化建設委員会が発行した『台湾歴史辞典』(遠流出版)の記述を引用してみます(原文は中国語)。
「軍艦松島は、1890年に建造され、日清戦争では主力艦として活躍。排水量は4,278トン、主砲は32口径のキャノン砲。
日清戦争では黄海海戦に投入され、連合艦隊の旗艦として活躍。その後、基隆、澎湖島、東港などにおいて、台湾平定のため、陸軍部隊の作戦行動を支援。
1905年、日露戦争勃発後は「三笠」などの最新鋭艦とともに戦闘に投入されて勝利に貢献。
1907年、艦の老朽化により松島は練習艦隊に編入され、翌年、姉妹艦の「橋立」、「厳島」とともに海軍兵学校第35期生の東南アジア卒業訓練遠洋航海に使われる。サイゴン、シンガポール、コロンボ、バタビア、マニラを経由し、帰途、澎湖島馬公港へ寄港。
1908年4月30日夜半、蛇頭山北部の海域に停泊中、不意に火薬庫が爆発し、松島は沈没。艦長以下、多くの官兵が死亡、負傷した。
この惨事により、1911年10月9日、馬公において砲管をかたちどった「松島艦遭難記念碑」が建立されている」。
続いて、この軍艦松島の爆発事故とはどういったものでしょうか。
1936年(昭和11年)に澎湖庁が発行した『澎湖事情』の「名所舊蹟」で、爆発事故について詳しく説明されています(原文はカナまじり文ですが、読みやすいように直しました)。
「明治41年4月30日午前4時8分、帝国軍艦松島は馬公港碇泊中艦内の火薬庫爆発し、空しく港底に沈没した。事急にして施すに術なく乗組員460余名中難に死する者、実に223名に及び、候補生はその大半を失った。
松島艦は(中略)前年12月25日横須賀を抜錨し、南洋各地を巡航すること90余日、鵬程9,580余里を蹴破し、帰朝の途次、此の地に於て奇禍に遭ったのである。依て此の悲しむべき出来事を記念すべく、全国より寄附金を募集して約18,000圓を得、明治44年、同艦28珊砲身を模擬して碑を鋳造建設し、以て記念したものである。碑銘は海軍大将、伊東祐亨の揮毫である(後略)」。
上記2つの説明で言及されている「記念碑」とは、この蛇頭山にある慰霊碑を指すのではなく、こちらの慰霊碑建立の翌1911年(明治44年)、馬公市内の第一漁港向かい側に建立された「松島公園」内の記念碑を指しています。ここ蛇頭山は、殉職者をまとめて合葬した地であるため、この慰霊碑が建立されているのです。
4月30日の爆発事故発生を受け、5月8日には馬公要港部が松島艦罹難者追悼会を挙行。5月22日には、水交社(現在の金亀頭付近)において、松島艦殉難官兵の葬儀が執り行われ、東郷平八郎大将、片岡七朗中将らが出席。7月31日、松島艦は正式に帝国海軍から除籍されています。
戦後、台湾が日本の統治から離れると、蛇頭山の慰霊碑も放置されていましたが、澎湖の事情をよく知る林麟祥さんによれば、十数年前、行政院文化建設委員会の調査により、この慰霊碑の歴史的意義が認められたこと、公園として整備することで観光地にすることが可能であることなどから交通部直轄の観光協会から予算が出され、一帯が整備されたそうです。後記しますが、周辺にはフランス軍の慰霊碑やオランダ軍の城館跡もあり、確かに歴史的価値は高そうです。
慰霊碑の台座部分はこの整備の際に新しく作られたものですが、上部の碑は日本時代のものを使っているといいます。
春霞のためかはっきり見えませんが、対岸の軍施設内の港には艦が停泊しているのが望めます。
この松島の爆発事故原因に関して、澎湖の人々にまことしやかに語り継がれている噂があります。
「日本政府は事故原因について長年調査を進め、ついにその犯人を突き止めた。犯人は松島の機関長を務めていた人物で、父親は中国人(東北部出身)、母親は日本人の子供として日本で生まれた。父親は、日本に反抗したため、関東軍によって処刑された。機関長は父親の仇を討つため、海軍で奉公する自分の立場を利用し、戦艦を爆破する機会を伺っていた」というものです。
ただ、この噂については資料がなく、「爆発事故の原因は不明」というのが公式見解のようです。
それでは、この蛇頭山の軍艦松島慰霊碑とは別に、馬公市内にあった松島慰霊碑について説明したいと思います。戦後、松島公園のあった一帯は住宅地として整備されたため、現在ではその跡は一切残されていません。
蛇頭山の慰霊碑建立の翌1911年(明治44年)、海軍中将・伊地知彦次郎ら6名が発起人となり、当時の「澎湖公園」内に松島の28珊砲の砲身を利用して鋳造した慰霊碑が建立され、そばに2つのスクリューが置かれました。松島の主砲をかたどった慰霊碑は「忠魂碑」とも呼ばれ、この場所で毎年、海軍主催による慰霊祭が挙行されていたそうです。
また、隣接して「松島記念館」も建設され、皇族方の接待所としても使われていました。慰霊碑建設基金の余財を利用して建設されたそうです。グラウンドや音楽堂、劇場の「馬公会館」も併設されており、後に「松島公園」と呼ばれるようになりました。さらに、碑の隣りにはミニゴルフ場も作られ、海軍の軍人専用で使われていました。
ただ、松島記念館付近は市の中心部だったことでやや喧騒であり、皇族方の休憩所としては不適切なことから、後の1943年(昭和18年)、馬公市西部の海をのぞむ観音亭付近に建設された「第一賓館」にその役割を取って代わられました。第一賓館は今日の夕方、下見予定です。
澎湖県観光局が発行したパンフレットによれば、1913年(大正2年)、時の媽宮区長であった陳柱卿氏が沈んだ松島艦を引き揚げています。陳柱卿氏は日本時代に発行された『台湾人士紳図文鑑』(いわゆる紳士録のこと)にも掲載されており、漢文(中国語のこと)と日本語に精通、媽宮区長や信用組合の理事、神社改築委員長などの公職を務めましたが、本職は薬種問屋、雑貨商を経営し、澎湖海産株式会社の取締役だったようです。
主砲を模した慰霊碑ですが、海中から松島艦の主砲だけを先に引き上げ、慰霊碑として建立したという説明(『澎湖事情』澎湖庁/昭和4年/台湾大学図書館所蔵)や、新たに主砲のレプリカを鋳造して慰霊碑として建立(澎湖県庁発行のパンフレット)のように、いくつかの情報が錯綜していることを付記しておきます。
慰霊碑や、大人の背丈3人分もあったスクリューですが、前出の林麟祥さんによれば、敗戦間近に金属供出のため日本内地へ送られてしまいました(これについて、終戦後に日本人によって内地へ持ち帰られた、とか、解体されて港へ捨てられた、という噂があります)。
残された台座などですが、資料によれば、1952年、馬公市街地の区画整理のため、松島公園跡地は整地されたことで、一切が取り払われてしまいました。当時の絵葉書で、わずかに碑の雄姿を見ることができるのみです。