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台北在住の筆者(早川友久)が、台北に残された日本統治時代の古蹟や遺構をはじめ、台湾に関わる記事を掲載します。


by ritouki

澎湖島へ 3日目 その5

 林麟祥さんと別れ、下見を残している馬公市西側の海岸近くへ出掛けます。明日は朝一番のフライトで台湾本島へ戻るので、実質最後の下見です。
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 まずは「第一賓館」です。日本時代の昭和18年(1943年)に完成し、皇族方や高級軍人、高官の招待所として使用されました(昭和17年完成、と記載されているパンフレットもあり)。設計は澎湖庁総務課に勤務していた建築技師の末安猛によるもの。当時の大田政作・澎湖庁長の指揮の下、昭和15年(1940年)から工事が始められました。現在では澎湖県指定の古跡となっています。
 それまでは市内中心部にあった「松島公園」に隣接する貴賓館が皇族方の招待所として使われて来ましたが、周囲の環境が喧騒すぎるため、招待所にそぐわないとして建設が進められたものです。

 結果的に、日本時代の招待所としては、敗戦までの2,3年しか使われませんでしたが、昭和24年(1949年)に、蒋介石が初めて澎湖視察にやって来た際、指揮所として使われたのがきっかけで、その後は蒋介石が澎湖を訪問した際の滞在場所となりました。

 澎湖県庁発行のパンフレットによれば、1958年に勃発した金門島を中心とする国民党と共産党の戦闘(いわゆる「八二三砲戦」)の期間中、蒋介石と蒋経国はこの第一賓館へ籠り、前線の指揮をしたとか。
 館内には現在も、当時の作戦立案に使われた資料をはじめ、歴史的、軍事的意義の高い品物が残されているそうです。また、李登輝総統も澎湖視察に訪れた際には、この第一賓館に滞在しています。

 訪れた第一賓館の広い庭はキレイに整備され、ガジュマルの木立が迎えてくれました。ただ、残念ながら扉は閉まっていて中に入れず。案内もないので、一般公開されているのか否かさえ不明でしたが、散歩で通りかかった地元の方に尋ねてみると、改築工事のため、現在は閉鎖中だとか。

 建物は和様折衷で、室内の床は高床式。周囲を廊下が走り、中央に客間があります。また、厨房、洗面所などは周りに配置されているそうです。
 外壁は「咾咕石」と呼ばれる、城壁によく用いられる石が使われており、屋内は木造建築です。屋根には黒瓦が葺かれていますが、建築から60年以上が経過していることや、澎湖の厳しい気候に晒されていることから、近年ではたびたび改築工事が行われているようです。

 庭には「民族救星」のプレートが付いた蒋介石の像がありました。「羊頭狗肉」です。
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 引き続き、海岸そばの古刹「観音亭」へと向かいます。
 観音亭は清朝時代の1696年(康熙35年)、遊撃薛奎によって創建された仏教寺院です。パンフレットによると、祀られているのは、「南海観音菩薩」だそうです。
 日本時代に澎湖庁が発行した『澎湖事情』(昭和11年/台湾大学図書館所蔵)にも記載があり、「(前略)廟内に古代の十八羅漢及び鐘鼓等があったが、清佛戦役の際、佛兵の掠奪さる所と為ったといふ(後略)」とされ、日本時代に入った昭和2年(1927年)に工費2万円を投じて大改修が行われました。改修後、観音亭付近は「馬公第二公園」と呼ばれていました。

 廟には細かな装飾がほどこされています。その精緻さは見事なほど。庭からは「レインボーブリッジ」を見渡すことができ、夜にはライトアップもされます。
 4月に入ると、週に数度、ここで花火も打ち上げられるそうで、5月の李登輝学校が楽しみです。宿泊予定の長春飯店からは徒歩で10分ほどの距離です。
 また、天気が良ければ対岸にある西嶼島を望め、清朝時代の「台湾八景」に謳われた「西嶼落霞」を愛でることが出来ます。
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 この観音亭が面する澎湖湾は、その昔、媽宮城を囲んだ北門の外にあります。
 もともと、清朝が置いた澎湖島庁は「暗澳郷(現在の馬公市文澳=市の東部)」にあったものを、1885年(光緒11年)に清仏戦争において、仏軍に占領された苦い経験から、澎湖島庁を媽宮(当時の地名、後の馬公)に移すと同時に、築城するべき、との意見が巻き起こりました。そのため、1887年12月(光緒13年)から築城を開始、2年後の1889年10月(光緒13年)に媽宮城が完成し、澎湖島庁が移転します。
 城壁には、東西南北に加え、小西、小南の計6門が設けられ、東西南北それぞれに以下の通り、名称が与えられました。「東門=朝陽門」、大西門、「小西門=順承門」、「南門=迎薰門」、「北門=拱振門」、「小南門=即叙門」です。

 台北にも清朝時代、台北城があり、日本時代初期にはまだその城壁が残されていました。その後の開発で城壁は取り壊されましたが、現在も「北門」や「小南門」は残されていますし、「小南門」はMRTの駅名にまでなっています。また、西門町、東門市場などの名称はすべてこの城壁の名残りと言えます。
 さらに、台北で生まれ育った日本語族の方にお話を伺っていると、当時はもちろん、現在でも城壁で囲まれていた地域のことを「城内」と呼んでいます。また、新光三越そばにある兆豊銀行の支店名は「城中分行」。こんなところにも台北城の名残が残されています。
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 閑話休題、日清戦争の折り、日本軍は澎湖に上陸すると、わずか3日で媽宮城の占領に成功しました。
 台湾が日本の統治下にはいると、澎湖庁政府は港湾機能強化と、馬公市街の拡充のため、明治40年(1907年)から媽宮城の撤去を開始。
 現在では残されているのはこの「順承門」とその付近の城壁のみです。
 また、「順承門」そばの地域は日本時代、「金亀頭」と呼ばれ、水交社(海軍将校の親睦団体)が置かれていました。資料が見つからないため、ここからはあくまでも推測ですが、日本時代、この付近には軍人やその家族が多く暮らしていたのではないでしょうか。
 そして日本が敗戦によって台湾および澎湖を放棄して去ると、ここに住み着いたのは外省人が住みついて「眷村」となりました。
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 台北でも、総督府に勤務していた役人や台北帝国大学の教師たちの官舎が、戦後、外省人の住まいになったのと同様です。
 この場所を、バイクで走っても人に会うことはなく、誰も住んでいないようにも見受けられます。また、一角は改修されて文化スペースとして再利用しようとする動きがみられるなど、台湾本島に限らず、澎湖でも「眷村」は過去の遺物となりつつあるようです(後に、林麟祥さんに聞くと、再開発のため、県政府が外省人連中に金をやり、新築の高級マンションへ引っ越させたのだとか)。

 戦後、国民党が一党独裁のために用いた「白色恐怖」の嵐は、台湾本島と比べると、澎湖ではそれほどでもなかったようです。というのも、黄天麟先生や林麟祥さん曰く、インテリ層や民衆のリーダーとなるような指導者層はみな台湾本島へ行ってしまい、むしろ台湾本島でやられた人の方が多かったとか。
 次回、天麟先生や林さんに再会した際にもっと詳しいお話しを伺いたいと思います。

 とにかく今回の下見はこれで終わり。夜は初日にもお邪魔した「長進餐廳」で再びウニの卵焼きやら新鮮な海鮮を堪能。明日は台南経由で帰ります。
by ritouki | 2011-03-04 23:12 | イベント