帰ってきた二つの鳥居
2011年 04月 11日
付近には日本人が集まる歓楽街の林森北路があり、晶華酒店や老爺酒店など日本人の宿泊客も多いホテルに隣接していることから、台北を訪れたことのある方なら、この公園のそばを一度は通ったことがあるのではないでしょうか。
この公園に昨秋、2つの鳥居が帰って来ました。そもそも、この公園一帯は日本時代、「三板橋墓地」と呼ばれる日本人墓地でした。鳥居が「帰って来た」というのは、この2つの鳥居は、この墓地に眠っていた明石元二郎・第7代台湾総督と、その秘書官であった鎌田正威氏の墓前に建てられていたものだったからです。
この日本人墓地は、戦後、中国大陸から敗走してきた国民党の下級兵士たちの塒へと姿を変え、その墓石はバラックの梁や床石となり、鳥居は物干し台に流用されてしまいました。着の身着のままでやってきた下級兵士たちが好き放題に住み着き、行政上はもちろん違法であったものの、数十年も経つと、いつの間にやら住所プレートまで掲げられる始末(台湾の街角でよく見かける緑色の住所表記プレートがこのバラック地帯にも存在したのです)。
もともとが違法建築の嵐ですから、しょっちゅうボヤ騒ぎが起きており、犯罪の温床にもなっていました。そのため、1997年頃、ときの陳水扁・台北市長の号令下で、この場所の浄化が行われたのです。住み着いていた人々には多額の補償金をくれてやることで立ち退かせ、その後、この場所は公園として整備されました。
また、整備の過程で、明石総督の墓所からは棺も見つかり、亡骸は改めて台湾海峡を望む台北県三芝郷(李登輝元総統の生まれ故郷)にある福音山基督教墓地へと葬られたのです。この顛末については、蔡焜燦先生が著した『台湾人と日本精神 日本人よ胸をはりなさい』(小学館文庫)にも描かれていますので、お読みになった方も多いかと思います。他の日本人のお骨は、そのほとんどが台中市の宝覚禅寺へと葬られています。
明石総督は在任中の大正8年(1919年)、公務で内地に戻る船上で病に侵され不帰の人となりました。しかし、民政長官として仕えた下村宏(海南)に対して「必ず台湾に葬るように」との遺言を残していたため、遺骸は台湾に運ばれ、当時この場所にあった墓地へ埋葬されたのです。明石総督の墓所は、台湾の人々からの寄付によって作られ、その規模は「皇族方を除けば、明石ほど立派な墓に葬られた軍人はいない」と形容されるほどだったそうです。墓所にある大鳥居は、明石総督の後を継いだ田健治郎・第8代総督により、翌大正9年(1920年)、建立されたものです。
また、小さいほうの鳥居は、もともと「乃木希典・第3代総督の御母堂である寿子さんの墓前にあったもの」というのが長らく伝えられてきた定説でした。三板橋墓地には明石総督、乃木総督の御母堂、鎌田秘書官の墓所と、3つの鳥居があるとされていましたが、1990年代に現存していたのは2つの鳥居だけでした。定説が元々間違っていたのか、途中で破壊されてしまったのかは分かっていません。
今回の鳥居移転に伴う調査で、鳥居に「昭和10年」という建立時の刻銘があること(乃木総督の御母堂が亡くなられたのは明治29年)、日本時代にこの墓地を遊び場にしていた地元の老人による「乃木総督の御母堂の墓前に鳥居はなかった」という証言などから、最終的に小さいほうの鳥居は鎌田秘書官の墓所にあったもので間違いないだろう、と結論付けられました(鎌田秘書官が亡くなったのは昭和10年8月8日)。
この地が公園に整備されると、2つの鳥居は行き場を失い、国立台湾博物館の正面入り口左側の襄陽路沿いに並べて建てられていました。取り壊されたり撤去されることもなかったのは幸いでしたが、縁もゆかりもない場所に2つの鳥居が並んでいたのは奇異な感じがしたものです。
手元に残しておいた新聞記事に、2年前の2009年11月14日付の聯合報台北版があります。
この記事によれば、もともと2つの鳥居は、公園が完成したら元の場所に戻される予定だったにもかかわらず、何年経ってもその気配がないため、公園の地元である康楽里の王金富・里長(町内会長のようなもの)と正義里の王明明・里長が、陳玉梅・台北市議会議員に陳情したそうです。そして陳議員の奔走により、台北市議会では鳥居の移転を決定、近々元の場所に戻されることになる、と報じています。
陳玉梅議員は青山学院大学卒業。国民党所属で、台北市議会議員を5期務めるベテランです。つい先日、年末に行われる立法委員選挙への立候補を「断念する」と報じられたばかり。たとえどの党であろうと、日本留学経験のある議員は大事にしたいものです。
また、この記事の中でも、小さいほうの鳥居は乃木総督の御母堂の墓所にあったもの、と書かれており、まだ調査が進められていなかったことが伺えます。
台湾でも大きく報道されることなく、昨秋、「いつの間にやら」という感じで移された鳥居ですが、その後、東京新聞や朝日新聞でも鳥居の「引越し」が報じられました。前出の王金富・里長は、朝日新聞の村上支局長のインタビューに「明石総督が福岡で死んでも台湾に戻ってきたと知って、感動した。この場所は日本人の宿泊するホテルや免税店も多く、日本人が観光ついでに見学しやすい。多くの日本人に見てもらえるのではないか」と答えています。
気持ちいい青空が広がった春の一日。大勢の市民でにぎわう公園の一角に2つの鳥居が鎮座しています。
明石総督の鳥居のところでは子供たちがサッカーに夢中。鳥居をゴールがわりにして遊んでいます。確かに鳥居の幅はゴールにぴったり。日本だったら「この罰あたりが!」と怒られるところでしょうが。