日本時代からあったんですね
2011年 06月 02日
台湾じゅう至るところで見かけるこの看板ですが、ガイドブックでも簡単に説明されているだけでイマイチよく分からない、というのが実際のところではないでしょうか。
檳榔はもともとアジア太平洋一帯に広く生息するヤシ科の植物で、その姿はヤシの木に似ています。しかし、ヤシの木と比べると幹が細く、てっぺんにモコモコっとした葉が広がるだけで、ヤシの木のように大きくその葉を茂らせることがありません。
台湾中部から南部の高速道路を走っていると、道の両側がこの檳榔の森と化している箇所もあり、文字通り台湾じゅうでその姿を見かけることが出来ます。
「檳榔」と看板の出た店で売られているのは、この檳榔の「実」の部分です。収穫した実に石灰をまぶし、キンマ(荖藤 別称:扶留もしくは扶留藤)の葉で包んだものを販売しています。石灰の量や実の量で、商品名が異なり、価格も変わるようですが、1パック10個入りで100元前後というのが相場のようです。
この檳榔を噛むと、石灰と檳榔の果汁が混ざって、まるで血のようなオレンジ色となります。同時に、弱めの覚醒作用があるので、長距離ドライバーやタクシーの運転手、工事現場での労働者などが嗜好品として好みます。また、「原住民のガム」とも称され、原住民にも好まれていることが分かります。酒やタバコと同じく、基本的には男性が嗜むものですが、女性が檳榔を噛む姿も見たことがあります。
口に溜まった唾液は飲み込まず、路上にそのまま吐きだしたりするので、台北市内などでは至る場所に、まるで血のような跡が残っています。日本から観光で訪れた方は、事故現場と勘違いして戦慄することも多いとか。
ただ、檳榔の実自体は、タバコやビールと同様、どこの店で購入しても品質や味(?)に大して差が出るわけではありません。その差が出ない商品の売り上げを向上させるために考案されたのが、いわゆる檳榔姫=「檳榔西施」。
檳榔姫のことを中国語では「檳榔西施」と呼びますが、「西施」とは、中国で有名な美人の名前。松尾芭蕉が秋田県象潟を訪れた際に詠んだ句「象潟や 雨に西施が ねぶの花」にも登場します。
檳榔姫は、ビキニやミニスカートのセクシー衣装を纏い、プレハブをガラスで囲ったような小さなボックス内に設けたカウンター席で檳榔の加工をします。お馴染さんが店の前に停まり、クラクション一発で商品を持って飛び出し(一緒にドリンクなどを売ったりもする)、車の窓越しに手渡します。お客としてはわざわざ車を降りなくてもよいので楽ちん。元祖ドライブスルーというわけです。
ただ、檳榔が持つイメージ(セクシーな檳榔姫の存在、まるで鮮血のような唾液、好んで嗜好するのが肉体労働者)により、一般の台湾の人々が檳榔に対して負の印象を持っているのも事実。台北市内では、近年、規制が厳しくなり、特に檳榔姫のいるお店は減少しましたが、中南部へ行くとイメージ低下もなんのその。むしろ台中には、セクシーな檳榔姫のいるお店が数百メートルも連なった通りがあり、観光地化しているなどというニュースもありました。
ただ、良かれ悪かれ台湾の社会に檳榔が深く根付いていることは間違いありません。台湾の人々にとっては、身近な存在であるはずの檳榔ですが、実際のところ、知られていないことが多いのも事実です。
今回はそんな身近で遠い「檳榔」についてご紹介したいと思います。
清朝時代に書かれた四つの文献のどれにも檳榔は登場します。私たちが街中で目にする檳榔は、清朝時代、どのように描かれているのでしょうか。また、台湾の文化や風俗にどのような影響をもたらしたのでしょうか。
『臺灣府志‧風俗志』には、台湾地方志において初めて檳榔が記載された文献です(*1)。「和荖藤食之」とあり、当時すでに台湾に居住する人々は現代と同じように、キンマ(荖藤)で檳榔を包んで咀嚼していたようです。
また、「實可入藥」、「可以袪瘴」という記述は、檳榔に医学的効果があると信じられていたことを意味しています。台湾を含む熱帯地方では、マラリアに代表される熱帯病が蔓延していたため、その予防と、炎天下における労働の過酷さを和らげるために食されたとされています(*2)。ちなみに、マレーシアのペナン島は、中国語で表記すると「檳榔島」となります。これは、島に多くの檳榔が繁殖していたことから付けられた名前です。
続いて『諸羅縣志‧風土志』、『鳳山縣志‧風土志』、『裨海紀遊』にも檳榔は記述されています。さらに、『諸羅縣志』には、長い柄のついた鎌のような道具を用いて檳榔の実を採取する場面を描いた木版画が掲載されていますし(下の画像 *3) 、『古今圖書集大成』の中の「草木典」にも多くの記載があることから、檳榔が人々にとって身近な存在であったことが分かります。
それらの記述からは、当時の檳榔が現在のように嗜好品としてだけ使われていたのではなく、人々の生活に深く根ざし、格段に重要で、文化的な意味を持ち、様々な用途に使われ、生活に不可欠な存在であったことがわかるでしょう。
そもそも檳榔は原産地のマレー半島を中心として、インドや東南アジア、南太平洋諸島、中国大陸南部の原住民の間では広く咀嚼される習慣がありました。一説には、これらの原住民が檳榔を咀嚼しはじめたのは4、5千年前の新石器時代からともいわれています。咀嚼の起源は単純に檳榔を嚼むことによって、マラリアなどの熱病を予防するためでした。
また、檳榔が中国の文献に初めて登場したのは、紀元前138年頃、西漢武帝の時代に司馬相如が著した『上林賦』であるとされています 。この中で司馬相如が書いている「仁頻」とよばれる植物が檳榔を指すと考えられているのです。さらに紀元前111年、漢の時代に書かれた『三輔黃圖』には、現在のベトナムから各種の「奇草異木」が持ち込まれ、その中に檳榔も含まれていたとされています 。
17世紀前半、オランダは台湾を統治し、中国大陸の福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として台湾に受け入れました。その結果、大量の移民と、当時中国大陸で行われていた石灰や荖藤の3つを一緒に咀嚼する方法が持ち込まれたのです。この方法は東漢和帝の時代に書かれた『異物志』にも記載されています。そして、これが中国において檳榔を咀嚼することが記載された初めての文献とされています。同時に、漢人が当時すでに檳榔を咀嚼する習慣を持っていたことがわかります。
では、清朝時代の台湾に住む人々の、檳榔に関する風俗をご紹介したいと思います。
【漢人】
1、嗜好品 『鳳山縣志』に「切開,夾以扶留藤、蠣灰食之」と記載されているとおり、檳榔の実を切り開き、キンマでくるみ、石灰をまぶして咀嚼していました。
日本時代に台湾の檳榔咀嚼の習慣を調査した伊能嘉矩は、「檳榔を嚼むに必要なる添付品は、第一『檳榔灰』にして、多く蠣殻灰を用う、普通の石灰を用いざるに非ざるも、刺激強きに過ぐといふ、之を水にて練り、軟体となし、子実の外面に塗附するものとす、又単に灰のみを用うるものあり、更に之に『孩兒茶』若くは、『柑仔密』といへる薬料を、凡そ灰一〇に薬一の割合にて混和し用うるもあり、前者は灰白色にして、後者は淡紅色を為す」と報告しています 。さらに、『諸羅縣志』には「然男女咀嚼」とあり、男女ともに檳榔を嚼む習慣があったことがわかります。
2、薬 『台湾府志』「可以袪瘴」、『諸羅縣志』「云可解瘴氣」など、多くの文献で檳榔が薬として用いられたことが書かれています。前述のように、当時の台湾はマラリアが蔓延しており、檳榔を嚼むことで、罹患者は回復し、健常者は予防になると信じられていました 。また、「摂政に利あり」 と、いわゆる健康食品と信じられてもいたようです。
3、社交方面での功用
A、接客・贈答 当時、檳榔は高級品とされ、来客の際には茶菓の替わりに檳榔を供し、敬意を表したといいます。また最高級の贈答品としても使用されていました。
B、婚礼の際の贈答品として檳榔は欠かせなかったようです。
C、和解の媒介 意見衝突により、紛争が起こった場合、第三者を交えて和解する際に、檳榔を贈り、和解の証しとしました。たとえば、『台湾檳榔文化史』には「臺灣鄉間,尤其在臺中,嘉義,臺南一帶,往昔只要發生口角毆闘之事時,雙方化干戈為玉帛的關鍵物就是檳榔,經由長老評理後,理虧的一方需送檳榔給對方,以示和解。檳榔竟扮演著重要的和事佬角色」 とあります。
D、社会不安緩和 18世紀に入り、台湾各地の開拓が進むと『台湾檳榔史 歴史月刊35』には「在開墾和鑿渠的過程中,爭地爭水為臺灣社會埋下不少動亂的種子。利害衝突加上族群與語群之間的摩擦,新移民和老移民的之間,地主與佃農之間的摩擦,以及游閒分子的增加,使得臺灣社會充滿不安的因素。乾隆四十六(1781)年以後就展開長達百年的分類械鬥」,「既富裕而又動盪不安的社會,正是嗜好品消費品的大好市場,像檳榔這樣的嗜好品便益加大行其道」とあり、檳榔は嗜好性の強い商品として人気を博し、消費量を大幅に伸ばしたことがわかります。
E、徴税 もっとも重要な点は徴税にも用いられたことです 。
【高砂族】
1636年、オランダが台南の原住民を駆逐しました。当時の状況を記した『バタヴィヤ日記』によれば、「依據記下了當時的狀況的日記『巴達維亞日記』有「第二,我等一獻呈栽種土上之椰子及檳榔小樹表示將我等自祖先以來所有麻豆村及附近平地現在所有之東至山地,西至海,南至北至我等命令所及由祖先傳承或得由領有權之地域,完全移讓於聯合荷蘭諸州之議會」と記されています。
その後も似たような記述が散見されることから、当時、原住民にとって檳榔は嗜好品としてだけでなく、儀礼上重要な意義を持つものであり 、単純な農作物ではなく、更に一歩原住民の生活に入り込んだ文化的象徴であることを意味していたことがわかります。
前述したように、清朝時代の漢人は、中国大陸から持ち込まれた方法によって、檳榔を荖藤でくるみ、石灰をまぶして嚼んでいましたが、当時の原住民もまた同様の方法で檳榔を嚼んでいました。ただ、中国大陸から漢人が大量に移民するより以前のオランダ時代から、原住民にとって檳榔は生活の中で特別な意義を持っていたのです。
清朝時代に書かれた『裨海紀遊』には、四方を檳榔と思われる樹木で囲まれた家屋の絵が掲載されており、この時代でも原住民にとって檳榔が変わらず生活の一部分になっていることがわかります。原住民は、嗜好品としてのほか、檳榔が開花する際、自然に脱離した外皮を女性が雨靴に利用したり、その皮を加工して『菁仔扇』と呼ばれる扇子に利用していました。また、丸太を家屋の柱としても利用していたのです。
1、嗜好品 原住民の中で、タイヤル族、ブヌン族、ツォウ族以外はすべて檳榔を嚼む習慣を持っています。原因として、台湾中部以北は檳榔の成長に気候が適していないことを挙げている文献もありますが 、『鳳山縣志』では、檳榔について「淡水產甚多」と記されており、矛盾しています。
また、伊能も「台北方面に至りては、殆ど之を嚼まざる者多数を占むるの状あり 」と報告しています。この矛盾を解明してくれる資料が発見出来なかったのは残念ですが、引き続き調べてみたいと思います。
当時の原住民にとって檳榔はどのような位置づけであったのでしょうか。
1、嗜好品 台湾中南部、東部に居住する原住民(パイワン族、アミ族、ヤミ族)は、漢人と同様、檳榔を嗜好品として嚼む習慣を持っていました。さらに、檳榔を嚼むことによって、歯を黒く変色させ、唇を紅く染めていることが美しいとされてもいたのです。
2、恋愛・祭祀 ・重要集会の道具 パイワン族、ビナン族、ルカイ族では、婚礼の儀式で最高級の贈答品として使われたようです。
以上のように、清朝時代の台湾における檳榔は、嗜好品としてだけでなく、生活に深く根ざした文化的象徴であったことがわかります。
この後、台湾は牡丹社事件、日清戦争での敗戦などを経て日本時代を迎えます。
日本時代では、檳榔は下品・不潔という理由から、台湾総督府は檳榔問題を保甲衛生部門の管理とし、檳榔の嚼んだ際の唾やゴミの処理を取り締まりました。路上を清潔に保つ責任はすべて地域の警察と保甲にあったため、取り締まりは厳しく、日本時代の檳榔摂取者数は次第に減少していくことになったようです。
とはいっても、完全に衰退したわけではなく、昭和6年に発行された写真集では檳榔の木や実が紹介され「本島人の、歯の収斂剤」として使われているとキャプションがついています。恐らく、歯茎を健康に保つための健康食品のような役割を果たしていたのではないでしょうか。