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台北在住の筆者(早川友久)が、台北に残された日本統治時代の古蹟や遺構をはじめ、台湾に関わる記事を掲載します。


by ritouki

鳥居顛末ふたたび

 4月18日付の自由時報に掲載された記事です。
 台北在住のライター・片倉佳史さんが、林森公園に戻された明石元二郎・第7代総督と、その秘書官だった鎌田正威氏の鳥居の位置について述べています。
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 説明によると、鳥居が元々建てられていた場所と、現在戻されていた場所は向きも位置も異なるとのこと。確かに鳥居を覆っていたバラック街が撤去された直後の画像を見ると、明石総督の鳥居はちょうど晶華酒店(リージェントホテル)を背にするような位置だったことが分かります。
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 なぜこのような配置になったのでしょうか。その謎は1945年の敗戦直前に米軍が作成した地図を見ると分かります。当時の台北の街は、京都と同様、碁盤の目のように整備されていましたが、三板橋墓地だけはまるで菱形のような形で配置されていたからです(画像中央あたり、菱形のエリアが三板橋墓地です)。
 ちなみに、画像の下の部分にある「TAISHOCHO」は大正町を指し、現在の林森北路付近。今では目抜き通りとなっている南京東路も当時は存在しませんでした。片倉さんによると、墓参に訪れる人々は三線道路(現在の中山北路)を通り、晶華酒店あたりの細道を東側へ入って三板橋墓地へと向かったそうです。
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 また、1937年(昭和12年)4月に発行された、財団法人台湾山林会の月刊誌『台湾の山林』には、台北帝大農林專門部の志水守道氏の論考「臺北市三板橋共同墓地の現狀と之が改善に關する卑見」が掲載されています。この論考の主旨は、農学の観点から三板橋墓地内の造園、樹木等について調査した結果をまとめたものですが、その他に墓地内各エリアの面積が一覧表として掲載されています。注釈部分を見ると、やはり大きな面積を占めているのが乃木希典・第3代総督の御母堂や明石総督、鎌田秘書官の墓所だということが分かります。
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 この場所に明石元二郎・第7代台湾総督をはじめとする多くの日本人が眠っていた故事を知る人は少なくなりつつあります。明石総督は大正8年(1919年)10月26日、明石総督は公務で内地へ向かう船上で発病し、郷里の福岡で亡くなりました。「自分が死んだら台湾に葬るように」との遺言どおり、遺骸は台湾へ運ばれ、国葬が営まれた後、三板橋墓地に葬られました。唯一台湾の土となった日本時代の総督です。
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 戦後まもなく、中国大陸から敗走してきた国民党の下級兵士が、三板橋墓地を占領、墓石をバラックの梁などに流用した違法建築群が50年近く存在していました。しかし、民主化の波が押し寄せるとともに、1990年代後半には、ときの陳水扁・台北市長がついに違法建築の撤去を決定しました。
 下の一葉は、まだバラック街が健在だった頃、明石総督の鳥居を写した一葉(『明石元二郎関係資料』より)で、1991年頃の調査で撮影されたもののようです。中央奥に明石総督墓前の鳥居の一部や石段を見ることが出来、鳥居を挟んだ相向かいの家同士が鳥居を梁として共用していたのが分かります。
 調査を行った中京大学の檜山幸夫教授の記述によれば、当時だいぶ緩和されたとはいえ、この地に住む外省人下級兵士の日本人に対する感情は悪く、この街の奥深くへ入ることは非常に躊躇われたとか。
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 また、下は1997年3月3日夜の林森北路×南京東路の交差点付近の様子。翌日から作業が始まるため、これが「康楽市場」と呼ばれたバラック街の最後の夜の写真です。写真左上部に見えるのが現在の晶華酒店(リージェントホテル)。
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 なお、最後の夜にはバラック街の撤去反対を唱えた付近住民がデモ行進や居座り運動を行い、それを支持する国民党の政治家たちも駆けつけました。当時、行政院政務委員だった馬英九も横車を押し通すために現場へ登場。しかし、当局の決意も固く、数日で撤去は完了。林森北路を挟んだ両脇のバラック群は、現在では公園として整備され、この頃の面影を残すものはありません。
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 撤去作業が一段落した後の様子が『文藝春秋』1997年6月号のグラビアに掲載されています。ちょうど現在の晶華酒店側から撮影した一葉。鳥居の向こう側に見えるマクドナルドは今も林森北路と南京東路の交差点の目印となっているお店です。引っ繰り返された墓石、ポツンと立つ明石総督の鳥居。戦争に”負ける”ということの現実を思い知らされるかのようです。
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 同年7月17日、バラック街の跡地を公園として整備することに伴い、およそ80年ぶりに明石総督の棺が掘り出されることとなりました。
 画像ではちょっと見にくいですが、左側で見守る人々の真ん中あたり、蝶ネクタイをされているのが、明石総督のご令孫・元紹さんです。
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 また、掘り出された明石総督の棺は、元紹氏の意向で開棺されず、台北市内の第一殯儀館に安置されることとなりました。
 そして同年12月19日、明石総督の長男夫人(ご長男はすでに逝去)や元紹氏、交流協会の後藤大使らが見守る中、棺が開けられることになりました。
 棺が掘り出された際も、湿気防止のためか大量の炭が棺の周りに埋められていましたが、棺の中も多くの炭で覆われていました。職員が手で炭を取り除くと、明石総督の遺骸のほか、下の写真にあるようなサーベルやブーツが納められていました。
 当日、明石総督の遺骸は火葬されましたが、この後しばらくの間、改葬地の選定に迷走することになります。ともあれ、最終的には元紹氏が語ったように「台湾の土になりたかった祖父をこのまま台湾で眠らせてあげたい」という希望が叶い、現在では、明石総督は台湾海峡を望む台北県三芝のキリスト教墓地に眠っています。
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by ritouki | 2011-04-29 22:07 | イベント