彭明敏教授、台湾脱出のカギを握っていた米国人宣教師が回顧録を発表
2011年 12月 10日
本日午前10時から、台北市内の「台湾国際会館」で新刊発表会が行われました。タイトルは『撲火飛蛾 一個美國傳教士親歷的台灣白色恐怖』(允晨文化)。タイトルにある「撲火飛蛾」とは「飛んで火に入る夏の虫」のことです。
著者は米国人宣教師として1965年末から1971年までを台湾で過ごしたマイロ・タンベリー氏。白色恐怖が吹き荒れていた時代、国民党の軟禁状態に置かれていた彭明敏・台湾大学教授の脱出を成功させた立役者です。
新刊は今年2月に米国で発刊された『Fireproof Moth: A Missionary in Taiwan's White Terror 』の中国語版。発表会にはタンベリー氏はもちろん、彭明敏教授も駆けつけました。
1965年末、布教のためメソジスト派教会から台湾神学院に派遣されたタンベリー氏は彭教授と親交を結びました。前年に「台湾台湾自救運動宣言」を発表しようとして国民党に逮捕された彭教授は、当時すでに国際的に名を知られた国際法学者だったこともあり、アムネスティをはじめとする国際団体からの抗議によりなんとか釈放されたものの、24時間監視の軟禁下に置かれました。
白色恐怖の真っただ中に身を置いたタンベリー氏は、ある日突然誰かが忽然と姿を消したり、逮捕されたまま戻って来ないという状況を目の当たりにします。さらに、彭教授の切迫した状況を知ったタンベリー氏は、彭教授を台湾から脱出させようと画策を始めるのです。
この脱出計画に日本人、つまり台湾独立建国連盟の宗像隆幸氏が大きく関わっていることは宗像氏の著書『台湾独立運動私記 三十五年の夢』などに詳述されていますが、台湾国内にいてカギを握っていたタンベリー氏についてはほとんど知られていませんでした。
1970年、タンベリー氏は宗像氏と香港の私書箱を使って秘密裏に連絡を取り合い、偽造パスポートを使って彭教授を国外脱出させることに成功しました。しかしながら、この手引きをしたことが当局に発覚し、1971年、タンベリー夫妻は逮捕、強制退去されてしまいます。
昨日の自由時報の報道によれば、タンベリー氏は米国に帰国したものの、その後20年あまりにわたって米国政府からパスポートの発給を拒否され、米国外へ出ることが叶いませんでした。しかし、タンベリー氏はこのことについて一切恨み事を言うことなく、彭教授でさえ、30数年を経てやっと知ったということです。
タンベリー氏が再び台湾を訪れることが出来たのは民主化が進んだ2003年のこと、38年ぶりでした。今回の回顧録は当時を振り返ると同時に、なぜ彭教授を脱出させようと決意したかの顛末が描かれています。
会場には多くの聴衆が詰めかけ、タンベリー氏の言葉に耳を傾けました。最初の挨拶は流暢な中国語で。しかし、何十年も使う機会がなかったということで途中から通訳を交えて英語でスピーチ。英語→台湾語の講演は私には非常に難儀でした(笑)。
白色恐怖の時代の凄惨さに言及すると、タンベリー氏の表情は当時を思い出したかのように憂いを湛えたものとなり、宗教家として圧政に苦しむ台湾の人々に対し、いかに心を砕いていたかを物語りました。