姉妹都市 市長の卒業宴 青い目の神父が教えてくれた世界
2012年 02月 17日
【盧千恵のフォルモサ便り】姉妹都市 市長の卒業宴 青い目の神父が教えてくれた世界
東京・八王子市の黒須隆一市長が任期最後の日を、姉妹都市の台湾・高雄市で過ごしました。その夜、高雄の陳菊市長は、12年間市長を勤めた黒須市長の卒業宴を開き、長年交流に力を尽くされた氏の労をねぎらいました。両市の姉妹都市締結の紹介役をつとめたのが、当時の台湾駐日代表、許世楷だったということで、その宴にわたしたちも招かれました。
高雄と八王子両市は、小中高校、看護学校から、ロータリークラブ、ランタン祭りなどさまざまな交流を行ってきました。それは形だけのものではなく、黒須市長の真心をこめた働きによって、実質のある交流を成し遂げ、高雄市は八王子市から多くのことを学んだ、と陳菊市長は感謝のことばを述べていました。糸の半分をお互いが持ってつながっている両市の「絆」、いつまでも続きますようにと祈りました。
その宴席のわたしの隣に年老いた西洋人が座っていました。
「英語? 中国語? 何語で話しましょうか?」
「台湾に来たからには台湾語で話しましょう。それ以外では話しませんよ」
「どのぐらい台湾にお住みなのですか? 上手な台湾語を話されるので、驚いています」
「1962年、台湾へ派遣され、国外退去されるまでの17年間」
「もしかして郭神父ですか?」
「はい、郭佳信です」
1960、70年代、台湾人がもっとも無力で孤立していたときの外国の友人、郭佳信神父とこのようなところでお会いするなんて、本当に驚きました。
■心の安らぎ見いだす
中国共産党に追われた蒋介石軍が台湾へなだれ込み、戒厳令をしき、台湾人の尊厳、権利が剥奪されていた時代のことです。郭神父は台湾語の聖書で台湾語をマスターし、中部の彰化埔心羅●(=圧の土が昔)天主堂で青少年補導のしごとにつきました。台湾語を話す青い目の神父は、子供たちから、学校では台湾語を下等、中国語を上等と差別していることを知り、驚きました。その後、学生たちの髪、服装、考え方までを、政府が学校を使って統制していることに気付き、学生たちが自尊心のない、他人に操られるパペットに育っていくことに我慢ができなくなりました。
郭神父は、子供たちに木版画を教え、他人の鞭によって働く牛ではなく、自分の心に従って行動する人間であるようにと、芸術を通して自由闊達(かったつ)な世界があることを教えました。
このような考えを持つ神父に心ひかれて、青少年だけでなく、自由、民主、人権を求めていた若い人たちが集まり、その中に姚嘉文(後の考試院院長)、謝聡敏(後の総統府国策顧問)、陳菊さんらがいたのです。郭神父は話し合いの中で、台湾人の心の痛みに気づきました。社会正義を求め-それは時には死の陰をも伴う危ない谷であった-ていた若い人たちは、安心して話し合える場所と同時に、心の安らぎを郭神父の天主堂の中に見いだしていたのです。
■国外退去、米に帰国
1979年12月10日、美麗島雑誌社が高雄で行った「人権デー平和デモ行進」に、国民党政府所属の「疾風行動隊」は殴り込みを掛け、乱闘騒ぎが起きたのを理由に、政府はデモ指導者の逮捕を始めました。反乱罪は、死刑または無期の重罪です。台北に避難していた陳菊さんは、別の神父に車で運ばれ郭神父の計らいで天主堂の後ろにある女子修道院にかくまわれました。6日目、100人近くの警察官が修道院を取り囲み、捕まえに来ました。「郭神父は、そのとき私の肩に手をおき、のどをつまらせながら『神よ、このむすめを守りたまえ。勇気を与えたまえ』と祈ってくれた」と、話していました。その後、郭神父は「一番悲しい刑罰-国外退去」に処され、アメリカへ帰りましたが、台湾のために祈らない日はなかったと述べていました。
「たびたび政治に関与するなと警告されたが、28歳で神父の職を選んだのは、神の正義が地に行われるようにと願ったからだ。台湾で過ごしてきた日々を後悔していない」
「寒いニューヨークから、暖かい高雄にもどってきて下さい。私が、住むところをさがしてお世話します」と、陳菊市長は目を潤ませいいました。
「もっと若かったらもどって来て働けただろうけれど。84歳、人生の卒業旅行に、懐かしい台湾に来ることができて、もう思い残すことはないよ」
ブルーの澄んだ目は、満足の輝きにあふれていました。
台湾に多くを与えてくださったお二人の人生、その卒業宴に連なることができたわたしはすがすがしい気持ちで、満天の星空を眺めながら帰途につきました。