「高級住宅街から歓楽街へ」
2012年 07月 02日
台北市の林森北路といえば、日本人にはお馴染みの「台北の歌舞伎町」と呼ばれる歓楽街です。
しかし、この街の歴史を紐解いてみると、夜も眠らぬ歓楽街と化したのは戦後のことで、この一帯は日本時代、高級住宅街として知られていました。
もともとこの地域は「大正町」と呼ばれる行政単位で、現在の市民大道あたりから南京東路の間、東西は新生北路から中山北路に囲まれたエリアでした。町内には総督府の官吏が住む官舎や大正町教会(現在の中山基督長老教会)があり、高級住宅街として知られていました。そのお隣りは「御成町」で、裕仁皇太子殿下(のちの昭和天皇)が1923年(大正12年)、台湾に行啓された記念碑がこの町内に建立されたことから名付けられました。下の写真は、大正町と御成町の合同奉迎の様子です。
戦後、国民党は日本時代の住所表記をほとんど廃止しましたが、現在でもタクシーに乗って「林森北路の◯条通り」と告げると、間違いなくその場所へ連れて行ってくれます。◯条通りという呼び方は日本時代の「一条通り」から「十条通り」という住所の名残りです。行政区画上は廃止された住所が今でも通称として使われているのです。
ただ、戦後の区画整理等により、現在でもポピュラーに使われているのは五条通りから十条通りくらいでしょうか。
また、日本時代には現在の南京東路は存在しておらず、大正町の北部には日本人墓地の「三板橋墓地」が広がっていました。この墓地は碁盤の目のように整備された台北市には珍しく、ひし形をしており、墓参に訪れる人々は勅使街道(現在の中山北路)側から墓地へと入っていったそうです。地図には「American Consulate(米国領事館=現在の台北之家)」や「御成町」といった表記も見えます。
三板橋墓地には明石元二郎総督や乃木希典総督の御母堂などが眠っていましたが、戦後は国民党下級兵士のバラック街と化し、1997年に公園として整備されるまで幾多の墓石や御遺骨がその下敷きになっていたことは以前の記事にも書きました。
現在、南京東路と中山北路の交差点付近には日系のホテルオークラが建設中で、間もなく開業と聞きます。二二八事件で父上の阮朝日氏(台湾新生報社長)を殺され、その真相を明らかにするために一生を捧げた阮美姝さんのご自宅はこのオークラが建っている場所にありました。
戦後、三板橋墓地の跡地から墓前にある二つの鳥居が発見され、長らく、大きい方は明石総督のもの、もう一つの小さい方は乃木総督の御母堂のものとされてきましたが、その後の調査で小さい鳥居は明石総督の秘書官などを歴任した鎌田正威氏の墓前にあったものと判明しました。その際に「乃木大将の御母堂の墓前に鳥居はなかった」と証言したのが阮美姝さんです。阮さん自身も「子供の頃、毎日の遊び場として通った場所の記憶を間違えるはずがない」と自信満々、その後の追跡調査で乃木大将の御母堂と鎌田秘書官の墓前の写真が見つかり、阮さんの記憶の確かさが証明されました。
二二八事件で一家の大黒柱を失った阮家は、国民党に財産を没収され零落。以前、阮さんに日本時代のアルバムを見せてもらったことがありますが、大きな邸宅にたくさんの部屋があり、当時は珍しい自動車を所有していました。和服を着た家族や友人たちとスナップに収まっていた頃、その後の人生の流転を誰が予想できたでしょうか。
現在、林森北路と名を変えた大正町ですが、今でもこの地域の発展協会では「大正町」の名前を使っています。さらに、◯条通りの名称をアピールし、地域の発展に役立てようとしているそうです。