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台北在住の筆者(早川友久)が、台北に残された日本統治時代の古蹟や遺構をはじめ、台湾に関わる記事を掲載します。


by ritouki

「蘇澳温泉・蘇澳冷泉祭り・サヨンの鐘の地をめぐる」宜蘭ツアー3日目その2

 レストランで昼食後、続いて一行はサヨンの故郷を訪ねます。渡辺はま子が歌った『サヨンの鐘』、李香蘭が主演した同名映画を耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 『サヨンの鐘』は1938年(昭和13年)、実際に南澳で起きた事故を基にして制作された歌であり、映画でした。

 南澳の山間部にあるタイヤル族の部落、リヨヘン社に警丁として赴任していた田北正記に召集令状が届き、出征で南澳の街に向かうため、山を下りることになりました。教育所の先生も兼任していた田北氏の見送りや荷物運びのため、11人の若者が同行して部落を出発しましたが、そのなかにサヨン・ハヨンという17歳の少女が含まれていました。
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 1938年(昭和13年)9月27日、一行がタビヤハン社の南渓に架けられた仮設橋を渡っていた際、サヨンは足を滑らせ、折からの台風で増水していた激流に姿を消しました。捜索の結果、約1.6キロ下流でサヨンが運んでいたトランクが見つかりましたが、サヨンの姿を発見することはできませんでした。事故の翌々日の台湾日日新報がその模様を伝えています(台湾大学所蔵。元の紙面がかすれているため、デジタル化したものも判読が難しい状況になっています)。

 そして、捜索は打ち切られ、およそ2ヶ月後の11月26日には、孝行娘として評判だったサヨンを悼み、地元青年団によって慰霊祭が行われています。これは蕃地と呼ばれた山地では異例のことだったそうです。総督府からも理蕃課長が出席、州知事からは弔慰金が贈られ、台湾日日新報にもその記事が掲載されました(11月30日付)。ただ、後年流布する「川に落ちたサヨンは、さようならーと叫びながら濁流に呑まれていった」というようなエピソードはこの報道の時点では触れられていないため、事実なのかどうかは分かりません。

 さらに、12月6日には蕃地巡視途中の藤田傊治郎・台北州知事が墓参。下はサヨンのお墓の写真です。このお墓が現在どうなっているかは今回の宜蘭ツアーでは調査しなかったため不明です。

 しかし、後にサヨンのエピソードが軍国美談として一人歩きを始め、戦意高揚などに一役買ったことなどを考えると、戦後はその存在が脅かされた可能性は高いと思われます。ただ、サヨンの住んでいたリヨヘン社は、後に平地へ移住してしまっており、部落自体が放棄された可能性もあります。
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 国際情勢が風雲急を告げてきた3年後のこと。1941年(昭和16年)4月15日の報道で、この年2月に台北市公会堂で開かれた高砂族青年団皇軍慰問学芸会において、サヨンの故郷リヨヘン社の若者たちがサヨンの遭難した哀歌を披露し、臨席していた長谷川清・第18代台湾総督をいたく感激させた、とあります。

 その後、長谷川総督はサヨンの「篤行」を表彰するための物品を理蕃局に選定させたところ、記念品としてふさわしい鐘が見つかったことから、サヨンの実兄バット・ハヨンとサヨンが生前姉のように慕っていた女子青年団長の松本光子の二人を総督府へと呼び、弔慰金とともに記念の鐘を贈りました。そしてこの鐘が「サヨンの鐘」のいわれとなるのです。
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 そもそもサヨンの事故発生直後は、総督府側も、実質総督府の監督下にあった台湾日日新報も、この事故を軍国美談に仕立て上げ、理蕃政策や戦意高揚に利用するというアイデアは持っていなかったのかもしれません。事故が発生した1938年(昭和13年)から長谷川総督がサヨンのエピソードを耳にする1941年(昭和16年)の3年間、慰霊祭や藤田台北州知事の墓参を除けば、わずかな関連記事が報道されているのみでした。

 しかし、1930年代後半から中国大陸で続いていた支那事変、米国との開戦の可能性による戦意高揚の必要性、皇民化運動の引き締め強化、台湾総督が長谷川の前任の小林躋造から再び武官になったことなど様々な要因や思惑が絡み合い、サヨンは「愛国乙女」となり、事故が「軍国美談」に仕立て上げられていった感は否めません。

 リヨヘンには「愛国乙女サヨン遭難之地」の石碑が建てられたり、サヨンが濁流に呑まれた橋のたもとに慰霊碑が建てられました。また、藤田州知事が贈った哀悼の歌が刻まれた石碑が、鐘楼の隣に建立されるなどしましたが、いずれも写真が見つかるだけで建立の年代は明確に判明しませんでした(下の鐘の写真は『民俗臺灣』第39号より)。
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 長谷川総督が鐘を贈ったことが大きく報道されると「サヨンの鐘」のエピソードは一人歩きを始めます。サヨンの事故が内地でも報道されると、それを目にした人気歌手の渡辺はま子が曲にすることを希望。そして西条八十と古賀政男のゴールデンコンビによる「サヨンの鐘」が完成し、開戦前夜ともいえる1941年(昭和16年)11月に発売されると、曲のヒットとともにサヨンの美談もいっそう広がっていくことになります。

 曲がヒットすると続いては映画化の話が持ち上がります。ただ、映画自体は、片倉佳史さんの著書『台湾に生きている日本』によれば台湾総督府が資金提供や窓口を買って出たことで撮影されたものということです。総督府側には、映画によって「少女の善行、徳行、そして愛国心をさりげなく全島に普及させる」という思惑の隠れた宣伝映画だったということになるでしょう。

 サヨンの故郷リヨヘン社は、1941年(昭和16年)から台湾総督府が始めた山地名改称の一環として、1942年(昭和17年)に「鐘ヶ丘村」と改称されました。リヨヘン社はもともと山間部にある部落でしたが、後に平地へ移住し、現在では南澳郷武塔村と名を変えています。社団法人台湾山岳会の機関誌『台湾山岳』第13号(昭和18年12月発刊)には、当時の地図が掲載されており、位置関係が分かります。
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 サヨンの鐘はリヨヘン社が平地へ移住した後、何者かに盗まれてしまいました。しかし、それを伝え聞いた門脇朝秀さんが新しく鐘を贈りました。整備されたサヨン記念公園には新しく贈られた鐘を戴く鐘楼と鳥居が建てられています。

 また、現在でも「愛国乙女サヨン遭難之碑」は武塔村に残されていますが、碑の表面は削り取られ、かろうじて読み取れる程度です。一説には、戦後国民党によって碑文を削られた後、川に捨てられていたものを、地元の人々が再び引き上げて建立しなおしたものだとか。
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 今日の野外スケジュールはこれにて終了。一行は、武塔村にある民宿「三枝の宿」で原住民料理の夕食を堪能。明日は台北へ戻ります。
by ritouki | 2012-07-15 23:58 | イベント