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台北在住の筆者(早川友久)が、台北に残された日本統治時代の古蹟や遺構をはじめ、台湾に関わる記事を掲載します。


by ritouki

8月5日(日)『羅福全と日台外交』出版記念座談会

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 1992年、国民党政権のブラックリストが解除されるまでの間、海外留学中に台湾独立運動に参加したり、蒋介石・蒋経国親子を批判するような言論を行った台湾人はパスポートを剥奪され、故郷に帰国できないという仕打ちを受けました。パスポートを失った彼らは、政治的庇護を受け、不安定な滞在資格で海外にとどまらざるを得ませんでした。

 羅福全・元駐日代表も、そうした苦境に立たされても妥協するどころか、自分の主張を曲げることなく台湾のため、奥様の毛清芬さんとともに声を上げ続けてきた一人です。1964年2月28日、米国留学中だった羅福全夫妻はワシントンDCの中華民国大使館前で行われたデモに参加したことでパスポートを剥奪されました。その後は米国国籍の申請をすることもなく、祖国の庇護も受けられないという無国籍に近い状態になったわけです。

 1973年、羅氏は国連地域開発センターで国際比較研究の職を得ましたが、研究や学会のため、海外へ頻繁に出張せざるを得ませんでした。そこで、国連事務局が羅氏に発給したのが「国連パスポート」でした。その後、このパスポートは羅氏とともに、中国を含む世界各国を駆け巡ることになります。
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 1992年4月、台湾の中央研究院が国連大学で教鞭を執っていた羅氏を学会に招きました。しかし、羅氏はブラックリストに名前が掲載されており、中華民国パスポートを所持していなかったため、台湾への入国が認められない状態でした。

 こうした事情に関心を持ったNHKは、羅氏を取材するとともに、駐日代表処にパスポート発給を再度申請してはどうかと勧めたそうです。羅氏の無国籍状態の報道が、奇しくも国民党のブラックリストという非道を天下に晒したのです。羅氏は駐日代表処にパスポート発給を申請。まだブラックリストが解禁になっていませんでしたが、当時の林金莖代表は発給を許可。これにより、羅氏は1992年5月に再びパスポートを取得して台湾へ戻りました。ただ、帰国した際、桃園空港で2時間の事情聴取を受けたそうです。

 2000年(平成12年)3月、民進党は総統選挙で勝利をおさめ、台湾初の政権交代が実現しました。そして、陳水扁総統が駐日代表(駐日大使に相当)に指名したのが、国連大学で長年研究生活を送っていた羅氏でした。羅氏同様、何十年も台湾へ帰国できない「ブラックリスト組」からは、黄昭堂氏や金美齢氏をはじめ多くの台湾独立運動参加者が国策顧問などの要職に就いています。

 2004年、陳水扁総統の2期目がスタートすると、駐日代表は許世楷氏に交代しましたが(許氏もブラックリスト組)、羅氏は台湾へ戻り、亜東関係協会の会長に就任。亜東関係協会は国交のない日台間の外交を、政府に替わって取り仕切る窓口機関(日本側の窓口は財団法人交流協会)です。ポストは替わっても、対日外交の重要な舵取りを任されたわけです。

 その後、羅氏は亜東関係協会会長も退任し、現在では台湾安保協会会長などを務めるかたわら、本会が開催している日本李登輝学校台湾研修団でも講師を務めていただくなどしています。

 そんな羅氏が携わった日台外交の成果をとりまとめた新刊が発売されました。台湾にとって、日本および米国との対外関係は要であり、国際社会における生存空間を確保するカギとなります。しかし、そこには常に中国による圧力という壁が立ちはだかり、日米台間の関係を複雑かつ敏感にしています。
 
 この本は、国連での勤務や日台外交の最前線に携わった立場から、東アジアの国際関係や対中外交の戦略について語るとともに、在任中の日台外交を振り返りながら実務外交の重点を語った内容になっているとか。8月5日には台北市内のホテルで新刊発表の座談会も開かれる予定です。

 『 羅福全與台日外交』 主編 張炎憲/陳美蓉 出版社 呉三連台湾史料基金会
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by ritouki | 2012-07-26 00:18 | イベント