
澎湖ツアー→苗栗の慰霊祭と、飛び回っていた今週のラストを飾るのは、ラストを飾るのは林口にある映画『賽德克巴莱(セデックバレ)』のセット村。
板橋駅からシャトルバスに揺られること50分あまり。林口のなーんも無いところに突如現れるのがこちらです。
土埃が舞うセット村は、まるで映画のワンシーンのよう。「霧社」の地名通り、霧に包まれているかのようでした。
週末の今日、昼は観光客でかなり賑わったそうですが、夜の部は人も少なく、ライトアップがかえって幻想的で楽しめました。
一応、12月までの限定公開(映画セットなので長期の保存に耐えられないため、12月になったら状況を見て判断するとのこと)なのでお早めに。

昨日までの澎湖ツアーから帰国した翌日、朝から苗栗県にある獅頭山へ行って来ました。広枝音右衛門警部の慰霊祭が執り行われるのです。
広枝警部の指揮する海軍巡査隊は昭和20年2月、フィリピンのマニラにおいて米軍に対して総攻撃せよ、との命令を受けます。しかし、物質ともに上回る米軍への総攻撃は玉砕と同義といえるものでした。そこで、広枝警部は部下の台湾人たちに向かい「命を大切にして、生きて台湾へ帰るように」と話し、自分は「責任は私がとる」と2月23日に自決されたそうです。
お蔭で命拾いして台湾へ帰ることができた部下たちが、昭和51年に苗栗の南庄郷にある獅頭山勧化堂に、広枝警部の位牌を作って祀ったのが発端です。
しかし、残った部下たちも年々年老い、現在では劉維添さんが最後の生き残りとなって毎年の慰霊祭を行なっています。そんな、劉さんの気持ちに動かされたのが、本会会員でもある台北在住の渡邊崇之さんです。
台北で経営コンサルタントや企業進出の手助けをする会社を運営している渡邊さんは今年、台湾在住の日本人や友愛会のメンバーにも声を掛け、慰霊祭への参列ツアーを企画してくれました。私もちょうどお誘いいただき、初めて獅頭山へお伺いしたわけです。
劉さんはちょっと背中が曲がりつつも、非常に矍鑠としておられ、上司であった広枝警部の位牌に対して「今年はたくさんの方々がお参りに来てくれました」と報告されていました。

その後、会議室へ移動して1時間あまり劉さんから広枝警部の思い出や、フィリピンでの状況、そして戦後に広枝警部を祀るようになった経緯などをお伺いしました。もともと、広枝警部自身と苗栗は関係がなかったそうですが、劉さんたちは、自分たちがいなくなっても、この勧化堂にお祀りしておけば未来永劫供養してもらえるということで、こちらにお祭りすることに決めたそうです。

その後、堂内の食堂で精進料理をいただき、午後は獅頭山のふもとにある南庄の街を散策します。台湾人でも聞いたことのないような小さな街ですが、今日は休日ともあって老街の人出はなかなか。
そんな中、小さな坂に目が止まりました。この坂にはなんと「乃木坂」という名称が付けられているのです。
明治30年(1897年)、視察でこの街を通りかかった第3代・乃木希典総督は、人々の交通が不便なのを見て、私財50円を投じて坂を整備させたとか。そして、この坂は乃木坂と名付けられたということです。
ただ、案内板にはなぜか「乃木崎」という表記になっています。確かに中国語には「坂」という字が存在しません。日本語の「さか」という発音に似た「さき=崎」を充てたのでしょうか。なにゆえ「崎」の字が充てられたのかは継続調査の必要がありそうです。

と、そこへ登場したのは劉さん。実は、劉さんの奥様の実家がこの南庄の街なかにあり、日本家屋がキレイに保存されているので見ていらっしゃい、と声を掛けて下さったのでした。
先ほどまでは慰霊祭ということで多少堅い心持ちだったのでしょうか。慰霊祭も無事終わり、ホっとした笑顔を見せてくれました。

